12 信頼と騎士と塔
喧嘩を始めた一団を仲裁という名の両成敗で収め、ガナハは厨房に戻ろうとした。カウンター席の脇を通り、さっきまで焼いていた分厚い肉の具合を確認しようとフライパンを振り、ひっくり返す。少々焦げ気味の有様に眉根を寄せ。
「っ!?」
視界の端に捉えていたそれを遅れて脳みそが処理し、がばっと顔を上げた。
カウンター席から厨房の様子を眺めている男に驚愕する。
「いつからいたッ!?」
「その肉の前の肉が生の時だな」
「心臓に悪いから人の店で気配殺すんじゃねぇ!」
実際に心拍数を上げながら、ガナハは肉を盛った。濃いソースを上からかけると、焦げ目は隠れて見えなくなる。頃合いを見てとことこと歩み寄った給仕の少年に、皿を渡す。向かうのは注文先の喧嘩していた一団だ。多少の焦げも苦い薬となるだろう。
「注文はいつものか?」
「ああ」
「ったく、声かけろや。……まだ追いかけ回されてんのか」
「どうしたもんだか」
「まぁ今回ばかりは連中の気持ちの方が分かるぜ」
しみじみと呟いた時、入口で人影が動いた。
「おい!」
現れたバトゥルに、一番面倒な奴が来たとガナハは調理に戻ろうとした。
靴音荒々しく、バトゥルはイリューに近づく。
「なんでこんなとこに引っ込んでんだ!」
「喧嘩売ってんなら買うぞぉ、若造」
愛する我が店を下げた物言いが気に障り、ガナハはカウンター越しに睨んだ。
「ち、違う! でもっ、色々あるだろ、もっとふさわしいっ」
「お前の考えなしで喋る癖は治した方がいい。言いたいことの骨子が伝わらない」
「だからっ、すごいんだからもっと、飯食うにしてももっとすごいとこですごいやつと」
伝えきれない思いが手でのジェスチャーになって、もやもやと何か宙に両手を広げて表現している。
やはり自分の店が下げられているが、ガナハは憐れむ眼差しになった。
「この坊主はつくづくお馬鹿だなぁ」
「自治教育の限界だな」
「なんだよっ、ちょっと学があるからって偉そぶるなよ!」
「今ある知識の問題じゃない、知識を得ようとする姿勢の話だ。四階が力任せで通れると思うな」
「うっ、あ、……うん」
「雪なんてここじゃ知識がある奴の方が稀だ。なら最低限の対策は知識を得ることで、お前はその努力をしてるか? 自分の担当は知恵じゃないと仲間任せにしてるなら、居場所を放棄する行為だぞ」
「……うん」
殊勝になったバトゥルを横目に、ガナハはそっとカウンターに預けていた身体を離した。他人に説教される様を見られたい男もなかなかいないだろうが、説教されて喜んでいる男を見たい人間もいない。
時間のかかる蒸し料理を従業員に指示し、自分は焼き料理に取り掛かる。イリューの好みは薄い肉だ。厚い肉は噛むのが面倒とかいうよく分からない理由だ。その噛み応えがおいしさの一つではないのかとガナハは思っている。
野菜と薄切りの肉を一まとめに炒め、厚切り肉と同じソースで味付けする。出来上がった料理を運ぶと、バトゥルがイリューの横に腰掛けていた。イリューの前に注文の料理を置く。
「おい、若造、飯食わねぇ奴に席はねぇぞ」
「は? ケチくせぇな」
「俺は飯を食うから帰れ」
「なんでだよっ、もっと……教えろよ」
構えよの間違いだろうと、変わらぬ青年を前にガナハは思う。
そんなことだから。
ガツッと、重い音で板張りの床に靴の踵が鳴った。運んだ視界に、一目でデカいと浮かぶ男が立っている。伸び放題な髪と髭に、汚れたマントは塔の都市に辿り着いたばかりの旅人と推測できる。距離が近づくと、砂漠の乾いた空気とはいえ、匂いが鼻をつく。飲食店としては歓迎しかねる。
ガナハは店主として文句をつけようとして、イリューの様子に気付いた。
見慣れた黒の瞳に、見慣れない色を見る。
喜色。
「戻ったのか」
イリューからそう、旅人の男に投げかけた。
その事に、ガナハの記憶は刺激される。高身長に、灰色味の強い金髪、重く垂れた前髪の隙間から覗く薄い青の瞳。
「はい、戻りました」
一年以上も前に姿を消したアレクセイは、その一言でイリューの前に再び立った。
※ ※ ※
浴槽に満ちるぬるい水に身を浸し、アレクセイは湯船に頭を乗せていた。その顔を剃刀が慎重に滑り、道行の長さを語るひげを落としていく。真剣に注がれる眼差しに身じろぎしたい気分になりながら、アレクセイは視線の食い違う黒の瞳を見上げ続ける。肌を張らせるために指が唇に触れる。顎を上げさせて剃刀が首筋を滑る。沈黙の中、じょりっと小さく立つ剃刀の音だけが、その時間を経過させていく。
ふっと、緊張を解く吐息がイリューの唇から零れた。剃刀が台に置かれる。
浴槽の水をとって、口元に残る髭を外に流し、イリューは座っていた椅子から腰を上げた。
「終わりだ」
「……ここまでしていただかなくても」
預けた頭を起こし、髭のなくなった頬に手を当てる。撫でる指にひっかかりはなく、よく自身では剃り残す顎下も完璧だ。そうしている髪の方もすでに先程、イリューに出会った時と同じぐらいの短さに整えられている。水浴びの介助まであって何もかも、至れり尽くせりだ。
なぜイリューの自宅でこんな快適に過ごしているのか、アレクセイは戸惑っている。
ガナハが自分に良い顔をせず店を追い出されたのは理解できる。さすがに身支度を後回しにして先を急ぎ過ぎた。汚いし、臭い。それはアレクセイも自覚していたからだ。
けれどなぜ、到着していた食事をバトゥルに押し付けてまで、イリューが追ってきたのか。その上でなぜ、イリューの自宅でこんなに歓迎されているのか。
塔の都市の水事情は厳しい。この砂漠は当然、雨は降らない。それを補い、これだけの規模の街を作り出した源は、三階荒野地帯で極稀に見つかる《水産みの甕》だ。都市内各所に設置され、井戸のように街中の水需要を満たしている。とはいえ、行政という行政のない街でその設置は偏っている。最優先は飲み水であり、貴族宿でも沐浴用に水は用意してもらえるが、溜めて使うほどの贅沢は許されなかった。
その水が、めいっぱいに浴槽に満ちている。
「したいからした」
弱く目蓋が下がり、口角は僅かに横に。発声は気負いなく素直に、少しの吐息が乗り。
アレクセイは硬直する。ほとんど揺れない水面の下に、優雅に泳ぐ美しい魚を見つけたような。そんな騒いではいけないが騒ぎたくなる衝動が、アレクセイを支配する。
「宿も探さずに直行したんだろ。部屋は余らせてる。単独ならちょうどいいし貸してやる」
「ご迷惑に」
「なるなら最初から連れてこない」
頭の回転を鈍らせながら、アレクセイは浴槽から身体を起こす。横手からイリューが大きめの一枚布を投げてよこした。受け取ってしずくを拭い、それからはたと動きを止める。少ししてから濡れたその布を腰に巻き、重なった部分を折り入れて留めた。
「なんだ?」
「着替えられる清潔な服がないことに気づきました」
「ああ……さすがに俺のじゃ合わないな」
「洗います」
「明日にしろ。素っ裸だと寝れないか?」
「それは……イリューから見て見苦しいのでは?」
「目に毒ではあるな」
微妙な言い回しに、アレクセイの頭の中に疑問符が舞う。一つ、一つと違和感が降り積もり、どうしようもない居心地の悪さが湧く。
もしくは、罠にかかる直前の危機感。
恰好から無防備で、アレクセイは落ち着かない。
乾いている方がいいだろうと新しい布を渡されると、イリューに背を向けてから腰の布を取り替える。
「そういや飯は?」
「保存食を食べたので今夜は」
「ならもう寝るか? 寝室はあっちだ」
流れるような誘導に、汚れを落とした肌にまた汗が浮く。
イリューの家は、大きいものではない。厨房と入浴空間は衝立で遮られているだけで、水回りを雑にまとめている。この建屋に扉はなく開放的で、部屋を出るとそこは露天の屋外だ。指し示される方向的に、寝室は向かいの建屋らしい。幾何学的な柄の布が一枚、垂れ下がって揺れているのがここからでも見える。
「待って、ください。あの、私は、イリューにお礼をとにかく言いたくて」
今更言い出す。一番の目的だったそれが、なぜか後回しになっている。完全に流されている。貴族社会でやれば致命的な油断だ。
今頃アレクセイは気付いた。自分の心に、欠片の警戒もなかった事実に。
いつから。
「《影猫》はうまく機能したみたいだな」
「猫……? あ、確かに耳みたいな。いきなり影が隆起した時は驚きました」
「そう勝手に名付けた謎の群体だがな」
言って目をやったイリューの背後で、影が動いた。二つの頂を持った黒い靄が立ち上がる。乏しいランタンの明かりでは見分けにくいが、黒い小さな点が集合した大群だ。
事実に気づくと、あまり生理的に好ましいものでもない。
アレクセイは途端に自分の影が気になって足元を見る。
「影が重なった時に《塔を昇る者》に寄生しているらしい。その上で影と影を繋げて物質すら転移させられる。なかなか訳の分からん生態だ」
「……この運搬方法も、兄の薬も、イリューはどうやって」
「知った」
一言にイリューは終わらせる。
どう話を続けたらいいのか悩むアレクセイに、イリューは部屋を出る。奥の部屋の幕をめくってみせた。
「今夜は寝ろ。頭も回ってないだろ」
言い様に、含むものはまったくなかった。
心もとない気持ちで扉をくぐると、安宿じみた飾り気のない空間が広がっている。窓一つ、寝台一つ。その脇に小さな二段の引き出し、天板の上には光量調整用の厚手な布が半ばかかった、ランタンが置かれている。その横には、陶器製の水差しとコップが並ぶ。
ここまで強行軍で戻ってきた身体が、寝台に自然と引き寄せられる。見た目の簡素さに見合わず感触は良く、アレクセイにも充分な大きさだ。
「ゆっくり休め」
あっさりと告げ、イリューは入口の布を下げた。気配が離れていく。
二枚の布の間に身体を潜り込ませる。上掛けも敷布も、真新しいと知れる、少し硬いものだ。そうはいっても少しで、素肌でも不快感はない。ランタンに布を被せると、部屋は真っ暗になった。
闇の中で、一度その暗さよりも濃い黒い瞳を思う。
思っている内に、目蓋は落ちた。
※ ※ ※
《自制》。
感情、欲望の発露を、理性によって抑え込むこと。
アレクセイが塔に認定された、特性。
その認定を目にして覚えたのは、戸惑いだ。
アレクセイ・エルドクヴァールは、公爵家次男だ。父母、弟達、兄夫婦、甥っ子、親類、みな愛すべき対象であり、家門を支える役割に不満などない。所属する王国騎士団で関わる面々も良き人々であり、アレクセイは己が恵まれていると思っている。
産まれた時から兄の予備であることは、悲観するようなことではない。役目があることは分かりやすい生きがいだ。若くして遊軍を指揮することも、別に重荷ではない。応えられる実力があるからこその期待だ。他派閥と牽制し合い、自派閥を庇護する立ち回りも、苦ではない。互いの利を測り合うやりとりは立ち会いに似て刺激的だ。
それは不幸ではない。それは不遇でもない。
アレクセイは、恵まれている。
けれど塔は、アレクセイに《自制》を認定した。
己が次男であること、騎士であること、庇護者であること。期待に応えること、役目を果たすこと。
全てを当然として生きてきた中で、突然突き付けられた単語。
自らのそれが認定に足るほどに厳格であったことを、アレクセイは初めて意識した。
実家に帰り着いた時、なるほどとアレクセイは思った。
黒ずんだ顔色をした兄を見て、その生気のなさに、冷静に死を悟る。落ち着き払って行う、その無情な取捨選択そのものが《自制》に当たるのだと、アレクセイは理解した。兄の手を握って震える感情とは、別の部分。目を潤ませながら、もって何日かと猶予を量る頭。間に合って良かったと喜ぶのは、生きている内に帰って会えたことと、死ぬ前に必要な承認がもらえそうなこと。
『領地の差配は、家令と僕の方でしばらく回すよ』
『助かる。当座の問題は議会の方だな。次の開会日は……』
兄の余命を感じながら、兄に代わって采配をする日々。
執務室は日当たりのいい南向きの部屋で、柔らかな陽光が積みあがった未処理書類の白さを輝かせる。
ふと、昨年の報告書を手に書類棚から振り返った時、執務机の一部の色味だけが違うことに気づいた。重厚な執務机は代々の当主が使ってきた年代物だ。深い、年月を感じさせる焦げ茶色。その中央、鍵付きの引き出しだけ、少し赤みを帯びた色をしている。椅子に戻り、鍵穴を中心に彫り込まれた家門の装飾を撫でる。
イチイ。微かな記憶を頼りに、木材の名前を思い出す。死と再生、永遠を象徴する木。それは誰かの、柔らかな低音の声で解説された内容だ。
覚えているかと同室で執務を補佐してくれている、頭の良い末の弟に問えば、ああと途端に顔を顰めた。
『小兄さんが鍵穴潰して作り直したやつ』
悪意なく子供心で開錠を試み、こっぴどく怒られた事件だ。アレクセイと末弟も止めきれずに連座で怒られたので、思い出した顔にはわかりやすく嫌気が浮かんでいる。
作り直してはめる際には、珍しく兄弟四人が父の執務室に呼ばれた。隠されるからこそ暴きたくなる子供の心理をわかっていたのか、逆に丁寧な説明と共に鍵をかけるところまで見させられた。印章や、契約書などの重要書類が仕舞われる引き出し。
その鍵は、今アレクセイの手元にあり、印章も机の上に出ている。傍らには押印済みの、署名の欄だけは今も空いたままの書類が数枚。
時機がくれば、アレクセイの署名で一気に捌かねばならないもの。
ふぅと、途切れてしまった集中力に、アレクセイは息をついた。やるべきことはわかっており、充分こなしている。
けれど少しだけ、何か、胸に燻るものがある。
『兄さん、今年の備蓄なんだけど』
書類を手に弟が隣に近づいてこようとして、なぜかぴたりと足を止めた。
その視線が、床に釘付けになっている。釣られて床を見て、アレクセイは反射的に立ち上がって後退しようとした。
だが、異変は後ずさるアレクセイについて動いた。
影だ。明るい室内の、薄暗い程度の影が暗く淀んでいく。アレクセイの足元で黒が純度を増し、そのうち――厚みを得る。
腰を抜かして座り込んだ弟に、アレクセイも気遣う声一つかけられなかった。異常事態に心拍数が上がる。それでも正気でいられるのは塔での経験と、その黒が誰かを思い出させたからだ。
黒々とした、影。
浮き出た球面状の土台の上、三角に突起した二つの間に、何かある。恐る恐る、アレクセイはしゃがんだ。すると当然影は小さくなり、手を伸ばせば届く距離になる。挟まっているのは、どうやら小さな薬瓶らしきものだ。見つめていても動きはなく、ゆっくりとアレクセイは手を伸ばした。手に取った感触は間違いなくガラスだ。重みがなくなると影はすぐに、平たく薄く戻った。
小瓶の中では薄桃色の液体が揺れていた。その首のくびれには紐が結わえられ、小さな紙片がついている。親指ほどのそれに、目を凝らした。
――信じるなら。
塔標準語の短い文章。几帳面とも言える四角四面な文字。主語も述語もない一文は、末尾に記された署名でアレクセイにとって意味を持った。
部屋を駆けだす。廊下を走り過ぎる中、アレク坊ちゃん!?と懐かしいたしなめ方をする侍女頭の声が耳に入ったが、アレクセイは止まらなかった。
叩き開けた扉の向こう、騒々しさに兄は起きていた。むくんだ目蓋の下、うっすらと、自分と同じ薄い蒼の瞳が見上げている。
『塔の都市で、出会った人がいます』
真っ直ぐに寝台へ近づき、脇に置かれた椅子を無視して、床に直接跪く。近づけば独特の臭気が鼻を突き、肌は乾燥して淀んだ色をしているのがよく見えた。
それでもその瞳を揺るがず見つめ返して、アレクセイは言葉を紡ぐ。
塔で出会った人。心に空洞のある人。それでも誰かに、手を差し伸べられる人。その人の力を借りて塔を昇ったことを語る。
『あの人は私に、何も望みませんでした』
どこまでも与えるだけで、期待しない。
次男たるべくほがらかに面倒見良く。貴族たるべく誇り高く鷹揚に。騎士たるべく高潔で強く。幾つもの役割。あるべき型は押し付けられずとも自ずと悟れた。叶える力も才も、アレクセイは備えていた。
なのに男はアレクセイに、何者であることも、どうあるべきかも、何も求めなかった。
それが心もとなく、思いがけず心地良く、思いのほか悔しかった。
だから二枚の認定を果たしたのは、当初の目的通りであり、勝手な恩返しでもあった。けれど男の実力はそこまで行ってもはるか遠い。年齢も思ったより上で、どうやら子供扱いで世話されていたのではないかと疑惑も増えて。
脱線しかける話を中断し、大切に両手で包んでいた薬瓶を、兄に見えるように掲げる。登場から得体の知れない、どう考えても怪しい液体。
『あの人を信じる私を、信じて飲んでください』
頭がおかしい説得だと、アレクセイ自身思っている。
けれど、これが最善だと信じる。
それに値する信頼を、アレクセイは抱いている。
『……お前が、甘え……られるような……者か』
全てを聞いて、そう呟く兄の顔は、笑っていた。
起こったのは、奇跡だ。
※ ※ ※
夢うつつに、寝台の揺れを感じる。
塔の都市での目覚めはいつも汗だくだ。多少慣れても、西北出身のアレクセイにとってこの都市は暑い。
目蓋を押し上げ、今日の始まりを受け入れる。
視界に、黒髪黒い瞳の男の顔が写る。
「起きたか。寝苦しそうだったな」
ぱちぱちと、大きく二、三度まばたく。
「イリュー」
呼びかける名に、頷きが返る。様子を伺うために寄せられていた顔は近い。支えについた手で、寝台が揺れたようだった。
じっと、近いままの顔を見つめる。何か、どこか、欲しかったものを孕む瞳の色。
「違っていたら……自意識過剰で笑っていただきたいのですが」
渇いた喉が音を口にすると痛む。無理やり滲み出させた唾液を飲み込み、アレクセイは覚悟の言葉を口にした。
「もしかしてイリューは、私に好意を持ってくださっていますか?」
直球過ぎるほどの問いに、目の前の顔は表情を変えることもなく答える。
「あるな」
アレクセイは瞬発的に上半身を起こした。合わせて身体を引くイリューの手を取って、握る。
「仲間と、友と、思っていただけていると?」
身体を起こしたイリューを見上げつつ、確かめる。騒ぐ胸の内を押さえつけながら答えを待つ。
「まぁそういうのも悪くないが、どちらかといえばもう少し、俺が勝手に焦がれてる方だ」
言葉の広義さが、今の寝起きの頭には難しい。せめて母国語であればもう少しニュアンスが拾えたであろう。
焦がれるとは、どういう感情か。
「私は、我が家門は、貴方に返しがたい恩ができました」
「したいからしただけだが、随分大事になったな」
「兄は、全力で報いよと私を送り出しました。王家の騎士職も返上し、身命を賭す覚悟で戻ってまいりました」
「えらく思い切った」
確固たる言葉を聞くために、言葉を重ねる。曖昧な余地など残さぬように、囲いを作る。
「そんな私に、貴方は何を望みますか?」
命を救った恩義の対価を、アレクセイは真っ直ぐにイリューに問うた。
揺るがぬ眼差しが返る。
「お前は何を望んだ?」
質問が質問で返されて、アレクセイは緊張を解いて眉尻を下げた。それはないだろうと、非難を込めて口を開こうとする。
「アレクセイ」
かぶせるような呼びかけは、アレクセイの発声を止めた。
「あの時、強制的に帰ることにならなかったら、お前は何を望んでた?」
言われて思い出す。二つ目の認定を得て、目標はほぼ達成されていた。箔付けであれば充分足りる。
けれど唐突に訪れた終わりに、自覚した。
「――俺はまだ、貴方と塔を昇りたかった」
出会いも交流も、特別なことなど何一つなかった。
ただ、期待に応え、役目を果たし、《自制》で生きてきた男に、イリューは何も望まなかった。最初はきっと興味がなかったから。少しした後は欲がないから。そうなった時、アレクセイは自分からこうありたいと望んだ。助力に応えたい。結果を出したい。この人の、仲間として戦えるようになりたい。
だから、あの時覚えたのは焦燥だ。
まだ早い。まだ帰りたくない。ここにいたい。
まだこの人の、隣に。
だってまだ、この人は。
「そうか」
受け止めて、イリューは目元を緩めた。上向けた口端は、笑みを形作る。
「なら、それが俺の願いだ」
当たり前みたいに、満ち足りた表情で告げる。細められた黒の瞳は、思いの外煌めいて見えた。
願いが、望みが、――欲が、そこにはあった。
あまりに自然な感情の表出に、アレクセイはポカンと口を開けて呆けた。
その間にイリューは包まれた手をそっと抜き、その手の甲が見えるように上に重ねる。
「待ってる」
意味を測りかねて、アレクセイは緩みきっていた口元を引き締める。待たれなくても明日からでもと思いながら、上に乗ったイリューの手に視線を下ろした。
そこに刻まれた印に目を見開く。
羽根とも花弁とも知れない幾何学的な紋様、それによって印された――五枚。
「えぇ……」
思わず子供のような非難の声を上げずにはいられなかった。あれほど見つめていた三枚を、帰ってきてから一度も見ていなかった事実に遅れて気付く。
まるで、意図的に隠されていたかのように。
アレクセイの左手にあるのは二枚。イリューの五枚は、《塔を昇る者》を取り戻した上で、五階を踏破した証と知れる。《塔を昇る者》は降りられない。共に昇るというのなら、アレクセイが五枚に至る必要がある。三階、四階、五階、それは遠い道のりだ。
「朝飯は外に出るぞ。着替えは昨日のうちに洗って干しといたから乾いてるはずだ」
もはや何の未練も名残もない様子で、そんなことを言いながらイリューは部屋を出ていった。
打ちのめされた気持ちで項垂れる。
それでも、アレクセイは胸の熱を感じずにはいられなかった。燻り続けていた欲に灯った、小さな火。
上に、上に、昇らなければならない。昇った分より昇らなければならない先の方が長い。なんなら待ってると言いつつイリューが更に先へ行く可能性さえある。
それでも、追いつかなければならない。
それでも、追いつく。
それが責務で、そしてそれが自分の願望でもあると、アレクセイは今気付いた。
二つが今、重なった。
背筋を伸ばす。寝台を降りて、洗ってもらった着替えを受け取りに行く。
それから一緒に朝食をとり、教えを請おう。新たな仲間を作り、塔を昇ろう。一階ずつ、確かに踏みしめて。
そして最後にあの人の横に並び立つのだと、アレクセイは覚悟を決めて、今日という塔の都市での一日を始めることにした。
結
完結です。
たくさんある物語の中から見つけていただいて、ありがとうございました!




