11 忍びと責務と知
イリュー――と呼ばれる男は、己を殺した。
どうしたって、そうでなければ生きられなかった。
男は東の島国で生まれた。産まれた時より仕える主のいる人生だった。日々技を磨き、主の命令を遂行する。主のために生き、主のために死ぬ。仲間とは、その生き方をより高度に貫くため、用意されているものにすぎない。
次代の主も決まっていた。主のご嫡男、若君だ。男は、その陰ながらの護衛に抜擢された。ところが気づけば、陰ながらに収まらなくなっていた。堅物気味である当代に比べて、次代は為すこと言うこと破天荒だった。表の護衛をまくこと数知れず。屋敷の脱走は常習。血相を変えた家臣が走る道の脇で、小作人に混じって田植えをしているなんてこともザラ。そんな次代は影で仕える男を、当たり前のように人として扱った。道具として身を律するばかりの男を同じ人間だと、大きさは違っても形は同じ五本指を合わせてみせて示した。時にはどう頑張っても振り切れない男に癇癪を起こしながら、男の名前を恨みがましく呼んだ。満ち足りた時だった。
けれど破滅はいつの間にか躙り寄り、運良く脱走していた次代だけを連れて男は逃亡することになった。追っ手を警戒し、ひとところに落ち着くこともできず、逃げ回る日々。それでも次代は明日をいつだって明るく語った。二本松の爺が腰を悪くしたらしいから稲刈りを手伝ってやらないと。手習いの子曰くの書がおもしろいから続きが楽しみだ。今年も庭の柿は渋柿の癖においしそうな色に染まるんだろう。警戒に疲弊する男を、次代の語る未来は慰めた。
そんなある日、自分達以外の生き残り達と合流することができた。それが男の緊張の糸を切ってしまった。生き残りは無謀な奪還計画を次代に提案した。当然却下し、機を見る判断となった。
なのに、次代は生き残りと消えた。次代の手慰みに男が教えた調薬が、その決定的な隙を作った。
『民が望むなら応えるのが主君だ』
薬を盛られ眠る直前、子どもではない顔で笑う次代を見た。
数日後、次代の首は生き残り共々、晒された。その首を奪って逃げ、追い込まれて海に飛び込んだ。それは死ぬ選択だった。死のうとした。
『じゃあ夢見が悪いから生きてね』
打ち上げられた浜辺で、決まり切っている二択が覆された。
だから己を殺した。死にたがる自分を殺し、生きることを選んだ。
一番の欲を欠いて暮らすことは、忍びの性分に合っていた。塔の都市に馴染み、そこにあっておかしくない人間でいる。だから塔を昇った。この都市ではそれが普通だったから。だから《塔を昇る者》から落ちた。昇ることにあるべき欲を欠いていたから。
民の望みに応えるのが主。
その主に尽くすのが忍びだ。
なのになぜ、一緒に連れて行ってくれなかった。
逃亡の日々に安息はなくとも、灯のように揺れる幸福はあった。言葉を交わした。笑顔を交わした。主従であることを逸脱できないとしても、関係性はあったはずだった。主としては不適格な弱さすら、知っていた。死なせることも死ぬことも、怯える本性を知っていた。無謀な蜂起になど、賛同するような人間ではなかった。
なのにあの日、まだ幼い面に大人の顔で、主は責務を受け入れた。
そうして、忍びを置いていった。
なぜ最期まで――従わせてくれなかった。
※ ※ ※
表戸を叩く微かな音に、イリューはほとんど眠れていなかった意識を明確に覚ました。寝台を降りる音は最小に、庭とも言いがたい露天の通路を過ぎて玄関へと向かう。戸の隙間に来訪者の姿を確認してから、イリューは錠を外して扉を開けた。
十全に旅装を整えたアレクセイが、そこに立っている。
「夜分に申し訳ない。急ぎのためマスター殿に居住をお伺いしました」
通りを照らすランタンで、アレクセイの姿は大きな影の塊に見える。まばたき、イリューはその表情に焦点を合わせる。
「国元の兄が病に倒れました。急ではありますが、約束の報酬をお渡しして、立つことにしました」
無表情とは言い難い、心の全てを覆い隠す、貴族的微笑。影の中で、瞳の色が見えない。
「過分な御助力に対して礼を尽くさず去ることをお許しください。シグリッド嬢達もこんな慌ただしい別れになって申し訳ない、大変感謝していると」
差し出された袋は見た目の小ぶりさに反して重い。何度か受け取っている通り、金だろうとイリューは確認もしない。硬貨の定まっていないこの街では一般的な支払い方法だ。各国硬貨も出回ってはいるが、鋳造の配合具合が公開されていないため、信用はやはり落ちる。
「本当に、感謝してもしきれ」
「継ぐのか、家を」
問いかけに、一瞬の間が空いた。
「治す手立てを探します。その上で力及ばないとなっても、兄には継嗣がおります。中継ぎを果たすとしても一時的でしょう。爵位の在り処より、権勢の維持が頭の痛い話です。私は兄ほど、出来がよくないもので」
今夜やっと、少しの緩みがその自嘲に漏れた。
けれどまばたき一つに、アレクセイは表情を引き締める。
「それでも、全力を尽くします」
それが責務だと、アレクセイは自ら負っている。その重さが、愛する者達の幸福と比例していることを、アレクセイは受け入れている。
「お別れを。貴方に出会えたことは、望外の幸福でした」
告げた後、少しの沈黙と静止があった。
イリューはそこで、口を開くことができなかった。
アレクセイが背を向ける。大きな影は去り、小さくなって、夜に溶けた。
※ ※ ※
息を殺す。無防備に寝入るその瞬間を狙い、首筋に刃を突き立てる。
熱を殺す。対峙の硬直に意思を見せず、警戒を解いた隙に目潰しの薬液を顔面に見舞う。
己を殺す。吹雪く空に唸りを上げる横を、世界に感知されない歩みで進む。
荒野を、雪山を、天上洞穴を越えて、――イリューは竜の前に立った。仰ぎ見る巨体は人の五倍は下らず、熱波を吐く口は人を丸呑みにするのに足りる。頭を伏せ気味に警戒の音を喉で鳴らす存在に、イリューは跪いた。
「慈悲を、賜りたい」
俯く視界に、竜の動きは見えなくなる。他の個体ががなり立てる鳴き声は洞窟に木霊し、頭に響いた。不快な空気の揺れを耐えながら、微動だにせず反応を待つ。
ごっ、がっと、喉のつまりを吐き出すような音が頭上でする。濁る音が徐々に澄み、一つの呼吸に辿り着く。
周囲の竜が、一斉に静まる。
「「《落ち児》が、何用だ」」
音は無用に大きく、発声で震わせる空気はイリューの身体すら揺らす。一つのはずの音はぶれ、音節の繋がりも不自然な、それでもそれは、人が話す言語だった。
ざらついた足元の岩肌を見つめ、イリューは口を開く。
「この先へ、お通しいただきたい」
言葉の半ばから不満を孕んだ空気は熱となってイリューの皮膚を焦がした。
「「分不相応な」」
「我が身の不足は百も承知!」
苛立ちの言葉に、大きく声を重ねる。更なる不興の前に、左手の甲を腰に下げた袋に掠めさせ、手のひらを隣の空間に向ける。
現れたものの重量に、ずんと地面が震えた。
おびただしいほどの死骸だ。絶命した獣や虫が、イリューが指示した空間に出現した。一階、二階、三階、四階、そして五階。各階の強敵とされる生物が、そこには転がっている。
竜の言葉は、ない。
顔を上げないまま、イリューは発声のために深く息を吸う。
「春待ちの期とお見受け致します。御身に捧げるべく、こちらを」
告げるべきことを告げれば、後は裁定を待つが如く、ただ待った。
「「……小賢しい」」
感情の見えない発声。ずしっと巨体が踏み出す振動が、イリューにも伝わる。黒い眼を、イリューは閉じた。
「「――だが不足を許すのも上位の役目だ」」
重なる死骸の足を口に咥え、上空に放ると竜は開いた口に迎えた。
「「珍味だ。百の肉を知るは我が子の力となろう」」
肉も骨も皮も、臓物も糞も毒も、丸ごと喰らい力に変換する。生物の王の食事を、丸めた背はそのままひたすら待つ。こめかみを汗が伝い、顎先から落ちた。一滴、二滴、岩肌の染みは広がっていく。
「「器はあるか」」
投げかけにすぐさま反応し、腰の袋を手の甲で撫でる。顔は下げたまま、口が広くて大きめの薬瓶を捧げ持った。
より近づく気配。薬瓶を持つ手が震えぬよう、適度に力を抜く。何事が起きているのか、空気の揺れは感じる。掲げる薬瓶の重さの変化を、腕は拾う。重さは持つ手にも降り、濡れた感触がある。
「「面を上げよ」」
従って上げた視界に、赤く満ちた液体を見る。鼻腔を過ぎるのは、鉄錆びた香りだ。その希少性を察して、すぐさまイリューは零れた血に汚れた手で蓋を閉じる。
「「礼だ。それを持って、疾く過ぎよ。《落ち児》の匂いは群れに障る」」
即座に声を発しようとして、渇いた喉がうまく音を紡がなかった。どうにか唾液を嚥下して、それからもう一度口を開く。
「謝意を」
竜はもはやイリューを見てもいなかった。
薬瓶を謎袋にしまい、駆け出す。
五階洞窟地帯は雲を遥か眼下に見下ろす、断崖の洞窟だ。洞窟は塔一階など比較にならないほどの複雑さで縦横無尽に繋がっており、山の壁面側に開いた穴からは時折青空が見える。稀に嵐が起こるが、雲より高い位置にあるこの場はほとんど快晴の中にある。
断崖に張り付く道を走り登る。抜けるような空が誘うのを気にも留めず、足取りも鈍らせはしない。
走って走って――もはや慣れ親しんだ空間の転移を感じる。
世界が、切り換わった。
上下、床と天井は見えど、横に果ての見えぬ部屋。その部屋を、棚が埋め尽くしている。粘土板、木簡。羊皮紙。紙に分類される巻物、綴り。イリューが知る限りの様々な形の文献が、その棚には収められている。
その棚の間に、何かが在る。《何か》。正体の判然としなさに、そう呼ぶしかない存在が、イリューに注意を払った。形容しがたい移動方法で近づいてくる。
《何か》が、震える。
『おかえり、イチイ』
言葉は脳に溢れる。
懐かしい名。この街に染まるうちに消えてしまった名前。発音の難しい名前に戸惑われ、どういう意味かと問われて絵を描いた。木の絵を見た誰かが、知らない単語を呟いた。別の国出身の人間はまた別の言語で呟いた。そこから多数決と、イリューの耳と舌の限界で新しい呼び名が決まった。
イチイは――イリューと多くに呼ばれることになった男は、出迎えたこの《何か》を知っていた。あの竜達のことも知っていた。この空間のことも知っていた。
五階から六階の踊り場、伝説にだけ記される《知の倉庫》。この世の全てを知ることができるという、人類が記録している最高到達点。
イリューはかつて、この頂きに到達したことがあった。観察と回避、およそ冒険者と呼ばれる者達が取らない方法で、イリューは全てを、竜さえも欺き通り過ぎた。だから竜の知性も、生態も知っていた。そうして、この場に辿り着いた。
そして《何か》に問われた。
『さて、君は何が知りたい?』
あの時と同じ問いが、頭に植え付けられる。
問われるのは欲だ。イリューはそれに答えられなかった。だから《塔を昇る者》から堕ちた。五枚目の認定はされず、三枚の降りれる者になった。
イリューはすっと息を吸う。必要があるかも分からない発声を行う。
「俺に、アレクセイ・エルドクヴァールの兄の病を治す方法を」
ざわざわと、《何か》が揺れる。
『いいのかい』
《何か》がより、距離を詰める。生物ではない存在感に、自然とイリューの肌は粟立つ。
『もっと根源的なものを君は求めているようにも見える。単純に得る方法ではなく、なぜそんな婉曲的な知を求める』
望めば全ての知がある場所。神の如き御業すら知ることのできる機会。
眼前でざわめく《何か》に、イリューは冷静に返す。
「何も、変えたくない」
震えが止まる。
「うさ晴らしをしたいだけだ」
勝手な投影だと、イリューは自分の弱さごと分析できている。
逃亡生活の急な終わり、最後に見たのは大人びた微笑だ。当たり前に責務を受け入れる、少年でなくなった顔。何か言葉をかける時間すらなく、抗い難い眠気に目蓋は閉じた。目覚めると、何もかもが終わった後だった。
置いていかれた。
何もできなかった。
塔の都市で暮らし、認定を受けて評価される枚数を得た。枚数は人を引き寄せるが、イリューが望むものでないと知ると、みな離れていく。決定的になるのは大抵不思議と塔内だ。
置いていかれた。
何もしなかった。
繰り返しの中で面倒になり、誘いを断ることにした。それなのに、アレクセイはまったくめげずに何度も頼んできた。どうせまた短い間と割り切って手助けすれば、思いの外長くになった。目標は達成された。途中で置いていかれることはなかった。後は祝いに宴会でもして、報酬を受け取り、普通に別れるはずだった。そうなっていれば、多分こうはならなかったと、イリューは分かっている。
突然の別れで見たのは、知っている顔だった。自身の欲よりも、責務を果たす者の顔。悲壮も、苦痛もない、揺るぎなく受け入れた者の顔。
置いていかれた。
別れは初めから想定されたもので、多少急になっても、そこに未練などないはずだった。なのに、胸に覚えた苦しさ。別れへの拒否感。
――置いていかないでくれ。
馬鹿馬鹿しい倒錯だ。身勝手な代替行為だ。全て分かっているのに、叫べなかった心の代わりにイリューは塔を昇った。
何もできないわけではない。
何もしないでいれるわけがない。
イリューには認定がある。五階を昇れる、一枚落ちてなお、三枚残る印。イリューには知識と技術がある。五階終端の竜を越すための方策。二度目の隠密は選ばない。無私無欲に至れぬ心で竜は欺けない。だから一階からすべてを再度踏破し直し、事態に対応できるようあらゆる材料を狩った。過敏な繁殖期であるのは不幸中の幸いだった。手段の検討は対峙前についた。
そうやって、己に成せることを為すために、ここまで昇ってきた。
《何か》が歪む。歪んで歪んで、元の雰囲気に収まる。
『奇妙な主張だ。影響し合って変わり合うこそが、君らの生きるという行為だろう。それを望まないとは。……しかし分の悪い賭けと、器に見合った知恵か。両取りする確率として算出したのなら悪くない』
近づいていた《何か》が距離を置き、またざわめき始めた。その体が急につるりと起伏をなくした。そういう形であることを、急に認知できた。その中で、弱い光が明滅している。
待つような静寂に、イリューは誘われて両手を入れる。波紋が広がり、見慣れた黒い紐が踊る。
浮かび上がった文字に、イリューは目を見張る。
『無謀さもない、矮小たるに潰れもしない。あるがままをあるがままに。さて、君は神成りを果たすことができるだろうか』
奥へ、更に手を入れる。光を手のひらでくるみ込む。
「ご冗談を」
一言返す間だけを与えて。
――次元は切り換わった。
身体全体に圧力を感じる。一方で妙な浮遊感。
そして、息苦しさ。
水の中にいた。鼻が痛む。堪らず吐き出した息は、泡になって一方向へ揃って離れていった。そちらが上だと悟って見上げれば、波間の向こうに陽の光がある。
目にも痛みを覚えながら見つめていると、魚影があることに気づいた。魚の泳ぎに方向性が薄い。川のような流れがない。海だと、身体を包み込む水場の巨大さに悟る。
六階。人類に伝承なき未踏の世界で、イリューは海に沈んでいる。
輝く水面を少し眺める。
記憶の情景が浮かび上がる。あの時飛び込んだ海は、ただ暗いだけで光などなかった。
こぽっと再び漏れた吐息が、ゆっくりと浮かび上がって輝き、煌めく水面に消える。
イリューはその光景を目に焼き付けた後、左手の甲に右手で触れた。




