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10 きのこと到達と急報

「ものの見事にはまり込んだな」

「面目ございません……」

 地図を間に、イリューとエーミルは向かい合っていた。身長が変わらないため、俯く角度も同じぐらいになり、傍から見ると左右対称に見える。

「まさかあんな地点に《貫鳥》の巣ができてるなんて、不運でしかないね」

「盾が抉れました。あのくちばしの硬度はどうなって……」

 ぼやきながら、二人の脇からティボーとアレクセイも地図を覗き込む。

 男四人で見つめる先は、地図上の三日月型の沼だ。ちょうどその凹みの部分に踏み入ってしまい、一同は進路調整のため、進行を停止していた。

 《貫鳥》。全長に比べて割合の大きなくちばしを持つ、二階樹林地帯で見られる鳥類だ。とにかく縄張り意識が強く、繁殖期は巣周辺への敵対生物の立ち入りを徹底的に排除しようとする。中心の巣に気付く前に、先にほぼ無音の素早い突撃に遭遇することになるので、樹林地帯では警戒される生物の一種だ。

 攻撃前のホバリング、その羽ばたき音に気づいたイリューの一声で、何とかアレクセイの防御は間に合った。だが改良して熊の爪すら防いだ盾ですら、凹みは刻まれた。巣の位置が確認できない場合、反転して退避するしかない。その後も大きく迂回が必要であり、お陰で予定が狂って現在の状況にある。

 横に寝かした三日月型の、左から右へエーミルが指を走らせる。

「やはり遠回りでも逆側まで避けるのが正解になりますか? 沼は例の」

 挑戦前の情報収集で、沼は話題に上がっていた。記憶を頼りにエーミルが顔を上げてうかがうと、イリューがどこか明後日の方向を見ている。かと思ったら、急に行動を開始した。無造作に木を登り始める。

 少し経って。

「きゃあ!」

 離れて休んでいた女性陣が悲鳴を上げるのも仕方ないビジュアルの物体が、イリューの登った木から落ちてきた。赤黒い、血の色をした、ナメクジに似た生き物だ。叩き落された衝撃にか、ぬらぬらとした表面を光らせてのたうっている。色のせいか、腕ほどもある大きさのせいか、臓器めいた気色の悪さがある。

「これをうら若き乙女の前に、いきなり晒すのは感心しないね」

 何より本人が嫌そうに、ティボーが苦言を呈す。

「《沼蛭》、名前そのまま沼の木だとか地面だとかにうじゃうじゃいる血吸いヒルだ。沼に足を取られて移動力が落ちてる間に、入れ食い状態になる」

 言って、イリューは謎袋から取り出したちびた短剣を投げた。沼蛭に当たった途端、皮が裂けて血が大きく飛び散る。

「まともに相手するとこれを浴びることになる。汚れるだけで儲けにもならない。どれだけ近道でも、わかってる奴らは沼には近寄らない」

「……親切はわかるけど君、本当に実演は必要だったかい?」

 ティボーの一言に、イリューは一同を見渡した。女性陣の顔色は悪く、エーミルも顔を引きつらせている。アレクセイは何だか張り付いたような微笑を浮かべている。

「わかりやすいと思ったが」

「今すぐ出発しましょう」

「夢に見そうですぅ……」

 エーミルの決意は想定内だが、リヴの苦悶は想定外で、イリューは目を瞬く。

 漂う微妙な空気に、アレクセイは一度手を打って意識の切り替えを求めた。

「方針が決まったので動きましょう。隊列は通常通りに戻して問題ありませんか?」

 先程までは貫鳥の標的を維持するため、アレクセイが隊列の最後尾に移動していた。

 イリューはかけられた問いに、ティボーへと横目を向ける。集団行動の知識は、イリューよりティボーの方が蓄積が長い。

「念のため、しばらくは僕が後ろにつけよう」

 次のティボーの行動は、経験的な無意識だった。言葉と共に辺りに投げた視線は、不確定要素をなくすためだけの最後の確認でしかない。

 その視界に、違和感を捉えた。

 元々湿度が高い樹林地帯だが、沼が近くなると植生の違いか、木漏れ日が少なく薄暗くなる。樹皮は苔むし、地表には蔦系の植物が生い茂っている。足を取られやすく、躓きやすい。ゆえに余計、冒険者は沼に近づかない。

 知ってはいるが、馴染んではいない風景の中、ティボーはある木の根元に目を留める。

「待ちたまえ」

 今にも走り出しそうだった全員を短い一言で制止し、ティボーは木の側へと歩み寄った。密集した蔦は膝下ぐらいまであるが、踏みつける形で上から足を下ろせば中身はなく、編み上げ靴が湿った土にぬかるむ。木に近づき、後二歩まできたところで、ティボーは蔦を引っ張った。茂った全体が揺れ、雨粒か朝露かもわからないものが散る。

 蔦を引きちぎり、覆いを取り払った木の根元には、『それ』があった。

「《人もどき》だ、運が良い」

 息を呑む後方の人間とは違い、ティボーの声には少なくない高揚がある。

 それは朽ちた人間の遺体のようなものだった。一見、木に凭れかかってこと切れた死体にも思える。

「頭が、ない?」

「いいや、そうじゃない」

 恐る恐る呟いたリヴに、ティボーは否定を返す。

 その片手が肩の辺りを掴み、体勢を前傾にしてみせた。

 晒された首元から覗ける中には、黒い土らしきものが詰まっていた。妙に真新しさのある、異国感のある見慣れない衣服の中に、予期していたような肉体の痕跡はない。それは人を模して作った鉢植えのような、もしくは土で作った人形に衣装を着せたような、奇妙なオブジェだ。観察者が人間であった時のみ、言い知れない歪さが滲み出る。

 初見の一枚四人組は、戸惑わざるをえない。

「未発見のものか?」

「おそらくね」

 一方、三枚の二人は淡々と検分する。動かすのに合わせて、服で固められていたあちこちから土が零れ、驚いた虫が這い出してくる。シグリッドが少し身を引いた。

「解説は君が? 僕が?」

「……俺だと余計が多いんだろう。頼む」

「自己を顧みることは進歩の一歩目だ。頼まれよう」

 話がついて、ティボーはアレクセイ達を振り返った。

「塔には、僕達以外に踏破を目指していたものの痕跡が見られる。その者を、都市の民は《人もどき》と呼んでる。何せ姿を見ることもないから、多分二足歩行指は五本で、僕らと同じ形状をしていたらしいという推察を、その所持品から推察することしかできない」

 不意打ちでティボーはアレクセイに手のひらほどの物を投げつける。

 危なげなくアレクセイは片手で受け止め、そこに視線を落とした。手の中には、《謎袋》があった。イリューもティボーも使っているため、何度も目にしている。

「そしてそんな彼らの痕跡から得られる物品は、いつも我々の常識を大きく上回る。代表的なものは驚異の収納力を誇る謎袋、これは大抵の《人もどき》の服と同時に見つかる。そして、それに何が入っているかは運次第だ」

 容量未知数の《謎袋》、温度調整される《テント》、出口を指す《方位磁針》。思い返す塔産の物品が、塔ではなくその《人もどき》に由来することを、アレクセイは初めて認識した。それはもはや、塔の神秘にも近しく感じる。なのに、道半ばで朽ちてしまったのか。それも判別できない服と所有品だけが、痕跡として残されている。魔法にも等しい力を持ちながら、塔に敗れた《人もどき》。

 思考の波に攫われそうなところで、ティボーが大袈裟に腕を広げる。

「さぁさ、お楽しみの時間だ」

 促しに、アレクセイは顔を上げた。取り出す仕草は何度も見ているので知っている。振り返って誰もいない地点に向けて、アレクセイは袋に左手の印を触れさせた後、手の中にあるものをその場に転がすようなイメージと共に実際に手を動かした。

 直後、地面に謎の物体がばらばらと一塊で出現した。

 ティボーとイリューがアレクセイの両脇を過ぎて近づき、しゃがみ込んで会話を交わし始める。

「外れか?」

「未解明品が多いね。――ああ、でもこれはわかりやすくていい」

 言って、ティボーはアレクセイに向かって手を上げた。その姿勢のまま止まっている。今度は投げないらしい。

 近づいて手を差し出すと、その手の上に平べったくて丸い物体が乗せられた。感触は金属の冷たさで、覗くと透明度の高いガラスの向こうに、一から十二の数字の円陣と、動く針がある。

「懐中時計、ですか?」

「飛び切り丈夫で狂いのない、ね」

 それ自体はアレクセイも高価だが見たことがある。ただティボーの一言に、今も一秒一秒刻まれる時の重みが一気に増した。これは《人もどき》が活動していた時からずっと、壊れることなく今までの時間を刻んできたことになる。

 その途方もなさに、アレクセイは圧倒される。

「《テント》はやっぱり二階では出ないか」

「あると便利だがな。お前のは四階か? よく個人所有を許されたな」

「うちは発見者優遇制でね。半端な共有思想こそ、揉め事の源だ」

 そんなアレクセイをよそに、ティボーとイリューは平然と会話を続けている。

 塔と生きる経験値の差が、そこには厳然とある。

「さて、あまり悠長にもしてられない。これとあれをなおして、進行を再開しようじゃないか」

「これと、……あれ?」

 感傷を無視して提言された内容に、アレクセイは不思議に首を傾げる。

 ティボーが指を立てた。その先は足元の謎の物品の山に向く。そちらはアレクセイにもすぐ納得できた。ただ指は次に、《人もどき》を指す。土の詰まった、服を。

「その軽蔑を露わにした顔は分かりやすくて嫌いじゃないが、勘違いするんじゃない。《人もどき》には解明できていないことが多い。ゆえにそれにまつわる全てを謎袋所持者は責任として仕舞っておく。それから変にこれだけ残して、次の発見者がぬか喜びさせては可哀想だろう」

 合理的だ。合理的ながら、命であったかもしれないもの、その外側の衣服とはいえ、所持し続けるという己の倫理を覆す行いに、アレクセイは沈痛に両目を閉じる。

「仕留めた獲物を剥製にして屋敷に飾るのと同じだ」

 明後日の方向からの説得が飛んできた。目を開き、説得の主であるイリューと見つめ合う。何だか諦める踏ん切りがつく。

 木の根元へと歩み寄る。しゃがみ込んで先に軽く冥福を祈る。謎袋を持った手を、ゆっくりと《人もどき》の服へと近づけた。

 衣装が消えた後、どさっと土は崩れて、逃げ遅れていた虫達がまだ散り散りに飛び出す。

 傍らに立った気配に、アレクセイは顔を向けた。同じようにイリューが横にかがむ。その、じっと物言わぬ横顔を見つめる。

 イリューは、崩れた土に無造作に手を伸ばした。

「《人もどき》の跡にしか生えない珍味のきのこだ。今夜の夕食で食べ――」

「ません」

 掲げられたきのこを目に、アレクセイは即座に否定を口にした。他の一枚三人も、思いを同じくしてイリューの持つきのこを見つめている。

「……本当に希少価値の高い、おいしいきのこなんだよ」

 珍しくティボーがイリューに肩入れし、小さく呟いた。



 ※  ※  ※



 息が、苦しい。身体は重く、崩れかける膝に、足が沈み込む錯覚を覚える。

 先へ先へ、アレクセイは駆けている。

 敵の出現。盾をかざして一撃を逸らし、誰かの攻撃で仕留めてもらう。終わればまた走る。

 先へ先へ、アレクセイは足を動かす。

 辿り着きたい場所へ向かって、一歩でも進む。

 遠くとも、厳しくとも、その踏み出した一歩分、必ず近づいているのだから。

 先へ、先へ。

 ――あの人の、隣へ。



 はっと、大きく息を吸う。深い呼吸は、嗅ぎ慣れない木材の匂いを吸い込んだ。目を開くと木造建築の天井だ。壁を伝って室内を眺めると、変わった六角形の造りが捉えられる。その中央辺りで、床に敷かれた編み草の上に寝かされている。

 目を瞬き、何かぬるい風が流れてくる方向へと顔を向ける。

 イリューが頭ほどもある大きさの葉っぱで、あおいでいる。

「起きたか。他の奴らはティボーと認定に向かってる」

 《認定》と聞いた途端に、意識を失う前の情景が脳裏に蘇る。


 見上げても視界に入りきらないほどの巨木。幹の太さは大人が数人手を繋いで囲おうとしてもまったく足りないほどで。その幹を中心に木製の螺旋階段が設けられており、樹上に登れる仕組みになっていた。上には点々とツリーハウスが太い枝を足場に建っており、冒険者達が思い思いに行き交っていた。


 そう、二階から三階への踊り場に辿り着いたのだ。そこで気が抜けて、倒れた。

 声を発しようとして、先に水分を欲した身体が周囲に視線を走らせた。察したイリューに革水筒を差し出される。上半身を起こし、一気に飲み干す。

「疲労と水分不足、暑さからくる意識喪失だ。後半集中し過ぎて補給を怠っただろ」

「面目、ないです」

「問題はあるが、そう気にするな。割とある。過酷さは人間を限界から容易に踏み切らせる。そうでしか、突破できない領域もある。実際、後半のお前の動きは目を見張るものがあった」

 身体に満ちた水分に、一息ついて目を閉じる。思ったより身体自身が水を欲していた。頭はまだ、ぼんやりしている。

「よくやった」

 視界を閉じた世界で、その一言はやけに大きく聞こえた。

 あぁと感嘆を心で呟く。まだぼんやりとする意識のまま、喜びで胸を満たす。

 その額に、何かが触れた。

 薄く、目を開く。

 ひやりと、温度差のある手が額に添えられている。

「落ち着いたら認定できるか? 帰るのはいつでも良いが、認定だけは早めにした方がいい。まかり間違って認定前に出てしまったら、ここまでの行程がパアになる」

 少し冷たい感触を捕まえて、頬を寄せる。しばらくすると熱が溶け合ってしまって、名残惜しく唇に触れさせる。

「……聞いてるか?」

 問いかけに、アレクセイは徐々に目を見開いて、手のひらを慌てて解放した。

「認定、ですね。すぐに、でも」

 動揺に舌がもつれる。

「まだ万全っぽくはないな。無理するな、しばらく横になっとけ。お前が許可するなら、他の奴らは先に帰らせてもいい」

 言われて少し落ち着いたはずの熱が、またぶり返しているような心地がして、アレクセイは大人しく体を横たえる。床は固く、心地いいとは言い難い。

 けれどイリューの送る緩やかな風が、汗ばんだ肌を冷やしてくれる。

 しばらく無言で、ただ風を感じた。



 足を踏み入れた巨木の洞は少し涼しかった。苔むした大岩を一度見上げる。見えない上部分から水が溢れ、中腹と下段に臼状の溜まり場を作って滝のように繋がっている。その下段、一階の認定場と似た臼状の水溜りに、アレクセイは両手を差し入れる。

 黒い滲みがゆっくりと寄り集まり、紐状になっていく。構成されるものは、アレクセイの見慣れた言語だ。

 《塔を昇る者》。

 その下に、続きがある。

 《自制》。

 ポカンとアレクセイは感動ではなく、呆然と、水に浮いた母国の文字を見つめる。

 《塔を昇る者》に次ぐ、二つ目の認定。自分を象徴する、最たる特性。

「証明人を呼ぶか?」

 問いかけに、咄嗟に返答できない。

「どうした?」

「イリューは、読めますか?」

「まったく、一字一句たりとも」

「では……証明人を」

 イリューが離れていっても、アレクセイは水から手を引くことができなかった。

 上から振る水が、音を立てる。一階より水は明確に冷たく、今のアレクセイには心地良かった。

 少しの逃避の後、アレクセイは再び水に浮かぶ文字に焦点を合わせる。

 《自制》。

 何を。どこまで。

「はぁ、かくも紳士、騎士たるや恐れ入る。まるで修道士だ。この世に《自制》を認定される御仁があろうとはな。それで、いつ教会の門戸を叩く予定だ? 手向けに戯曲でも書いてやろう。さぞかし手堅く単調な脚本になるだろう」

「……なぜいるんですか」

 ひょっこりと横から勝手に覗き、戯言の洪水を浴びせかける男に、アレクセイは苦く返す。

「愚問だな。責任者に代わって彼女らを送り届けた僕に、告げる言葉にしては少々知恵の回りが遅い。君の状態如何で支える役がいるだろう。自分が可憐な乙女とは程遠いことを自覚しているか? 疲労している従卒には荷が重い」

「それは……お手数おかけしました。ありがとうございます」

 憤然と振る舞うティボーに、アレクセイは素直に感謝した。一度去った上で戻ってきたらしい。便利だと、アレクセイは思ってしまう。降りることができない《塔を昇る者》に対して、ティボー達、一枚落とした者は踏破済みであれば、開始地点や踊り場を任意で行き来できる。採取や依頼で生計を立てようと思えば、結構な財が築けそうである。

 ただそれを良しとするかは、《塔を昇る者》であった精神次第だろう。落ちたことを、受け止められるか。

 アレクセイの見立てでは、ティボーは諦めていない。自己愛を認定された男は、愛する自分であるために努力を惜しまない。

 それに対してイリューは。

「印さえあれば塔と外部は簡単に行き来できるのに、ここの踊り場は随分としっかりした施設が備えていますね」

 話を逸らす口振りで、先程施設で休憩していた時に浮かんだ疑問を言葉にする。

 ティボーが、どこかうんざりと表情を曇らせる。

「留まる場所があるということは、そこに利点があるからだ。緊張感を途切れさせたくないという理解及ばぬ戦場好きや、ここを拠点とする狩人や採取人を除外すれば、理由は加齢だ」

 意味がわからず、アレクセイは言葉の続きを待つ。

「二階程度では実感が薄いだろうが、塔内部は歳を取りにくい。確証性があるとも言い難いから、あまり言いふらす者もいないがね」

 ひゅっと、驚愕に息を呑んだ。

「あの男、あの顔で三十……、いや四十だったか。民族的特徴もあるだろうが、でたらめな話だ」

 指し示す男がイリューであることは言わずとも通じた。

 上層階挑戦者が老いない。そのことに最初に気づいたのは恋人だったか、馴染みの娼婦だったか、常連の酒場店主だったか。回復や若返りではない。確かに老いてはいる。だがその速度が一般人とずれていく。特に上層の滞在時間が長い人間ほど、加齢速度が遅くなっているように見られている。

 不変と信じる摂理すら、塔においては絶対ではない。

「塔はよっぽど昇る者と長く戯れたいらしい。大層な趣向だよ。ゆえに一番辿り着きやすい二階に、滞在者が集中する傾向にある」

 ちょうど洞の入口に影が二つ立った。証明人を伴って戻ったイリューを、アレクセイは茫然と見つめる。

 イリューは、アレクセイの動揺に首を傾げている。

 近付いたと思った影はまた、蜃気楼のように遠のいた。



 ※  ※  ※



 出口広場を、アレクセイは淀みない足取りで街の方へと歩いていく。ティボーとイリューはそれに少し遅れて続く。

 ティボーは盛大に顔をしかめて、イリューに顔を寄せて小さく問いかけた。

「君、まさか寝たか?」

「……同衾のことを言ってるならそんな事実はないが、何でそうなる」

「それ以外に君が中年だったことであそこまで心ここにあらずにならないだろう。月夜にしとねを共にした乙女が、朝焼けに腐乱死体だった時ぐらいの衝撃の受けようだぞ」

 こちらからの投げかけに確かに反応はあった。だがその行動はほとんど言いなりで、帰るぞと言えば直接帰還を働かせ、宿にといえばその長い足で歩いている。頭がまともにものを考えられない状態なのは察しが付く。

「人の歳と、二度とイチモツが使い物にならなくなりそうな悪夢を同列で語るな」

「ものの例えだ。何か思い入れがあってこそのショックだと思ったのさ。疑いたくもなる」

「……宿まで俺は送っていく。そっちは?」

「付き添いはいりそうだが介助はいらなさそうだ。なら君だけで充分だろう。先に帰らせてもらおうか」

「分かった」

「報酬と、三階を物見遊山するかどうかの話はまた今度」

「アレクセイ様!」

 アレクセイを後ろから追いつつ話していた二人は、聞き覚えのある声に焦点を遠くに結んだ。人混みが乱れている。一人の少年が群衆をかき分け、押しのけながら、走って三人に近づいてくる。

 エーミルだ。アレクセイの前まで辿り着くと、乱れた呼吸のまま手に持っていたものをアレクセイに差し出す。

「使者がっ、公爵様がっ!」

 取りまとめのない単語の羅列は状況を語らず、焦燥感ばかりが伝わる。アレクセイは突き出された拳から、封蝋付きの手紙を受け取った。その蝋の見間違えることなき自家の紋章と、エーミルからの少ない情報に、アレクセイは急く思いで手紙を開く。

 貴族的な形式のない、短い文面にアレクセイは目を見開く。

「お二方、ご助力ありがとうございました」

 背筋を伸ばす。振り返る表情に、惑いはない。

「訳あって急ぎ宿に戻ります。成功報酬は必ず今日中にでも使いを遣ってお渡ししますので、一旦ここで失礼させていただきます。……エーミル、使者はまだ宿にいるな?」

「はいっ、お待ちです!」

「分かった」

 腰元に手を遣り、剣帯から鞘ごと外した短剣をアレクセイはティボーに差し出した。

「我が家の家紋入りの短剣です、これを保証に。イリューには」

「いらない」

 懐から取り出した認定証明書を渡そうとしていたアレクセイは、イリューの言葉に動きを止めた。

 黒い瞳と、目を合わせる。

「急いでるんだろ、行け」

「……恩に着ます」

 そう言うや否や、疲労を感じさせない足取りで走り出す。足をもつれさせながらも、エーミルもそれに続いた。

「……別に僕だって担保なんていらないよ」

 隣のぼやきを聞きながら、イリューは人混みに消える背を見送った。


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