姫君の喝
その次の日。
エドワルトが貴賓席に現れることはなかった。
誰も座ることのないソファの隣が、妙にわびしく感じられる。
(劇を見に来たのだから、幕が上がればそれだけで良いはずなのに。わたくしの心だけが変わってしまった。観劇に観劇以上の何かを求めるだなんて、グレン子爵と変わらないわ……)
一昨日、アドリアーナ(の、ふりをしたエドワルト)に無体を働いていたグレン子爵に関して、ユスティアナはすでに手を打っていた。王宮内の関係部署に連絡をし、「叩いて埃が出るようであればそれなりの処罰を」と伝えている。そうでなくとも、ユスティアナの素性を把握していながら、傲岸不遜に振る舞ったところからして、王家への敬意を持ち合わせていないのは明白であった。そういう輩は、間違いなくすでに背信行為に手を染めている。探れば不正のいくつかは出てくると、確信していた。
ユスティアナの訴えに耳を傾けたのは、実務に秀でた能力を発揮している兄王子のロベルト。「実は前から目をつけていた。一気に叩こう。一両日にでも破滅させてやる」と請け負ってくれた。
素早い対応は、ユスティアナの怒りであるとともに、アドリアーナを、ひいてはこの劇場そのものを守りたいという強い意志によるものであった。
それが裏目に出たと、このとき思い知ることになる。
いつもと様子が違い、劇場内がざわついている。それもそのはず、幕の上がる気配が一向に無い。
何かあったのかと、ユスティアナは待ち続けていたが、やがて舞台袖から現れた役者のひとりが「オフィーリア役のアドリアーナが急病のため、今日の公演は休止です。明日はまだ未定」と告げた。
待ちわびていた客たちは、口々に何かを言いながらも席を立ちはじめた。だが、「散々ひとを待たせてその対応は何事か、こんな一座は潰れてしまえ」という野次もさかんに飛び交い出した。
劇場の係が数名出てきて懸命に対応をするも、あちらでもこちらでも個々に多勢が詰め寄り、押し切られそうになっている。
ユスティアナは、もっとよく様子を見ようと、客席にせり出した手すりから身を乗り出した。
「この分じゃ明日の最終日も公演できないまま終わりだろうな」
聞こえよがしの大声が耳に届いた。
それを受けて、「そうよねえ。無理よねえ」と近くの御婦人方も話しつつ、声を荒らげて騒いでいる一部の客に怯えるような目を向けて、足早に出口へと進む。
(急病で幕を開けられないと説明したのに、係員に罵声を浴びせたり、明日は休演だと勝手に決めつけたり。劇場が荒れている空気をわざと作ってるひとがいる……!?)
さすがにおかしい、とあたりに視線をすべらせれば、アドリアーナに面差しの似た青年、エドアルトまでが数人に囲まれて怒鳴りつけられている。
それを目にした瞬間、ユスティアナはさらに身を乗り出すべく、腰高の手すりに片足をかけ、扇を開いて頭上高くかざした。
「静粛になさってください!! 道理のわかる方はすみやかにお帰りを。明日は未定と発表があったのに、勝手に休演などと憶測で噂を流すのも大変よろしくありません。係員を怒鳴りつけるなどもってのほかです!!」
普段から、声の通りをよくするための、発声練習は欠かさない。王家の必須スキルなのである、大声は。
思った以上にその声は劇場内に響き渡り、場が静まり返る。やがてそれが王家の貴賓席から発せられたのだと幾人かが気づき、静かなどよめきが広がり出した。
青の目を見開いているエドアルトとも、目が合ってしまう。
(やっ……てしまいました)
片足を乗り上げ、扇を掲げて注目を集めての大喝。
とても姫君にふさわしい所業ではなく、帰ったらそれはそれは父王や母、兄や姉に「また、突拍子もないことを」とたしなめられることだろう……。「いいえ、これは必要なことでした」と断固として主張しましょう、と思いながら、ユスティアナは扇をぱちんと閉じた。