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憧れの姫君が、目の前に

 その人生で、どうしても手に入らないものを願う。


 第二王女ユスティアナは、劇場へ足を運び、華やかな舞台を目にする機会には恵まれていた。だが、王女の身で舞台に上がることは、どうあってもありえない。


(うつくしい光が注ぎ、音楽に彩られた夢の世界……。演目によって、同じ役者たちが演じているとは、到底思えないほどにめまぐるしく変わる人間模様。表情、目つき、口ぶり。舞台の上では、数多(あまた)の人生が次々と展開されていく)


 王族専用の貴賓席から、ガス燈に照らし出された舞台を見つめ、今日も至福の吐息をもらす。

 劇作家にして演出家のエドワルトの舞台「愛と野望のオフィーリア」は、千秋楽まであと三夜。ユスティアナは初日から通い詰めているが、さすがに休演の日をのぞき全公演、今晩で二十回目とあっては、王宮から同行してくる兄姉の姿もない。さりとてそこは、滅多な相手を招ける席でもなく。

 結果的に、ゆったりと品良く整えられ、居心地の良いソファの置かれたその部屋は、ここ数日ユスティアナただ一人のもの。

 かぶりつきで舞台を眺めているうちに、時間は瞬く間に過ぎてしまう。

 最後の最後、演者たちが舞台に並んで客席に礼をする瞬間も、たまらなく好きだ。


(気の所為かもしれないけれど、最近、オフィーリア役のアドリアーナさんがこちらを見てくれて、目が合うように感じて……。あんなに綺麗なひと、社交界でも滅多にいない。ひと目だけでいいから、もっと近くで……)


 かなわぬ思いに身を焦がし、胸の痛みに耐える。もちろん、王族特権を振りかざせば近くで会うことも話すこともできるかもしれないが、ユスティアナとしては、気が進まない。思い起こせばここ数年、毎日この劇場に席を確保してもらっているだけでも破格の待遇なのに、この上自分が役者たちの休息時間までつきまとい、引っ掻き回すなど、あってよいはずがない。

 ただ演劇を見せてもらえれば、それでじゅうぶんなのだ。

 幕が下りたあとも、席を立たずに余韻に浸ること、しばし。


(王女に生まれ、王女として生きる。その境遇に不満など持たないようにしてきたけれど……。わたくしはうらやましいのね。「自分以外の別の人生を演じる生き方」そう、役者という職業が)


 見目麗しく、感情表現豊かな舞台役者たちを、ひとびとは口々に褒めそやす。中には本気の恋心を抱き、熱を上げる観客もいるらしい。それは王侯貴族とて例外ではなく。けれど彼らは心の底では、役者を同列の人間とは見ていない。あくまで、平民の仕事。「自分たちのような」高貴な人間がつく職業とはみなしていない。

 それゆえに、焦がれる思いも憧れもねじれて、蔑みとしか思えない言葉がその口から吐き出されることもしばしばだ。


「舞台の上で自らを見世物としているのだ。体を売っているも同然だろう。いまさらお高く止まってどうする」


 厚い布で仕切られた廊下から響いた、男の声。ユスティアナは、ハッと息を殺して耳をすました。


 * * *


 貴賓席は、王族専用以外にも、仕切られた小部屋として並びにいくつかある。そこに至る廊下は、劇場の入口からして一般の席とは別になっていた。少なくともこちら側に出入りできるのは、貴族階級やその従者のみ。

 本来ならユスティアナも、護衛を兼ねた従者を控えさせておかねばならないのだが、「さすがに毎日見る気にもならないでしょうから」ということで、観劇の間は自由行動を許していた。興味なさそうに側で立たれていると気が散るので、そうしてくれた方がありがたい。一般客とは席を隔てられた劇場内で、我が身に危険が迫るという心配も特にしていなかった。


 しかし今、廊下から伝わってくる気配に妙な胸騒ぎがある。

 供がいないとあっては、「見てきて」と言うことはできず、自分で探るしかない。

 立ち上がって、足を忍ばせて仕切りの布に歩み寄ったところで。


「離せ!! あんたこそ、その辺のごろつきと何が違うっていうんだ。私は、芸を売っているのであって、体を売っているわけじゃない」

「それの何が違うんだ。高く買うと言っているのに、さらに値を釣り上げようと言うのか。強欲な」

「話のわからない男だ。自分が振られているというのが、まだわからないのか! 触るな、外道」


 拒絶の叫び。

 粘りつくような男の声が、どんな欲望を相手に押し付けているか。まざまざと伝わってきた。

 それはユスティアナにも覚えがある。二年前、十五歳の頃。貴族の屋敷で開かれた舞踏会に参加した夜。王族の顔も満足に覚えていない下級貴族の男に、誘いを受けたのだ。お嬢さんに恋の手ほどきをしてあげよう、と。腰を抱かれた瞬間の不快感は、今でも思い出すとぞっとする。

 すぐに、近くにいた兄王子ロベルトが気づいて、その場で「無礼者」と一喝して追い払った。その後、男がどんな憂き目を見たかは知らないが、ロベルトが制裁を加えたのは容易に想像がつく。王女の尊厳を傷つけた愚か者として。


(わたくしは、「王女」だから守られる。だけど、知っている。これは女性の、人間の尊厳を傷つける行為。このような扱いは、誰であれ、されてはならない。この男性は、おそらく相手が自分に逆らえない身分だと踏んで、これほど傲慢に振る舞っている。許せない……!)


 さっと布をかきわけて、ユスティアナは敢然と廊下に踏み出した。

 ガス燈のやわらかな光に満たされ、赤い絨毯が敷き詰められた細長い空間。

 胸元がフリルで覆われた真紅のドレスを身に着け、豪奢な金髪を結い上げた女性が、盛装の男性に腕を掴まれてうつくしい顔を歪めていた。

 凄絶な、美貌。


(アドリアーナ……!!)


 ひと目でわかった。見間違えるはずがない。

 今宵の演目「愛と野望のオフィーリア」で主演をつとめていた、役者のアドリアーナ。

 間近で見ると、その美貌の凄みに圧倒される。舞台用の化粧そのままということもあるが、くっきりとした彫りの深い顔立ちに、紺碧の瞳のもたらす印象はひたすらに鮮烈。怒りを(たぎ)らせているせいか、今にもそのまなざしから炎が(ほとばし)りそうに見えた。

 業火を背負った戦女神の如き神々しさで、アドリアーナは忽然と姿を現したユスティアナに目を向けてきた。

 視線が絡んだ。


(生きてて良かった。アドリアーナさんをこんな近くで見られる日が来るなんて)


 思わず推しを前にしたファンとして拝んでひれ伏しそうになったが、そんな場合ではない。ユスティアナは一歩踏み出す。


「なんの騒ぎかと見に来てみれば、グレン卿ではございませんか。ポルペルカ記念劇場の看板役者、アドリアーナ嬢に、いったいどんなご用が?」

「……ユスティアナ殿下。ご機嫌麗しゅう、良い夜ですね」

「わたくし、機嫌は一切麗しくないです。その手をお離しなさい。いかなる理由があって、そのように無遠慮にその方に触れているのです?」


 顔見知りの貴族であり、相手もユスティアナを正しく認識した。そのくせ、咎めをやり過ごし、手を離さない。そのふてぶてしさに怒りが沸き立ち、頭に血が上りそうになる。唇が細かく震える。


(指の跡でもついたらどうするつもり。他人の体をなんだと思っているの……!!)


「殿下の『観劇狂い』は有名でしたな、そういえば。しかし誰もお教えにならないのでしょうか」

「もったいぶった話し方、好きではありません」


 顔の前に、真っ白の鳥の羽に涙型のクリスタルで装飾を施した扇を広げる。激高を押し隠そうとしたが、男にはにやりと余裕のある笑みを浮かべて言った。


「古来より、役者など春をひさぐ仕事。演技で興味をひいて、客をとるのが本業なのですよ」


(このひとが何を言っているかわからぬほど、物を知らぬ「姫君」でなくて良かった)


 ユスティアナは多くの物語や演目に親しんできた。到底歩むことのない人生を垣間見て、知るはずのない世界の言葉を知ってきた。

 だから、相手が何を言わんとし、なおかつユスティアナは知らぬだろうと意地悪く笑っているのか、ほぼ正確に察した。

 ピシャリと右手で扇を畳んで、左の手のひらに打ち付ける。目をそらさずに男を睨みつけ、ユスティアナは場違いなほど優雅に笑った。


「グレン卿、この場は下がりなさい。引き際も見極められぬほど、野暮な方でした?」

「これは驚いた。殿下は、権力を振りかざして下々を引っ掻き回すほど幼い姫君でしたか」


 ユスティアナは笑みを深め、唇の端を吊り上げる。


「ご自分で仰るほど『下々』のつもりなどないでしょう、卿は。その程度の嫌味がわたくしに通じるとはゆめゆめお考えになりませぬよう。わたくしは、卿もご存知のように、権力の側に生まれついておりますの。使い所では出し惜しみしません。よく覚えておいてください。今度お会いしたときに忘れておいでのようでしたら、笑って差し上げますわ。このように」


 言うなり、ユスティアナは声を上げて笑う。

 表情を消し去ってその様を見ていた男、グレンは鼻を鳴らして、アドリアーナを掴んでいた手を離した。腹いせのように突き飛ばすのも忘れない。

 その動きを予期していたかのように、ユスティアナがアドリアーナを抱きとめる。

 至近距離。

 身を任せてしまったアドリアーナは、驚いたように目を見開いて「姫様に、とんだ失礼を」と口走る。ユスティアナは「いいえ、いいえ」と首を振った。これまで遠くから見つめるだけであったアドリアーナをその腕に抱いてしまったことに胸をいっぱいにしつつ、かすれ声で囁く。


「大事な体なんですから」

「お姫様にそれを言われても、俺はどうすれば」


 思いがけず低い声で、困惑したように呟くアドリアーナ。

 グレンはすでに背を向けてその場を立ち去っていた。

 二人きりの場で、目がくらむような美貌を前にして胸がいっぱいのユスティアナであったが、微かな違和感に遅れて気付く。


「……『俺』?」


 アドリアーナはユスティアナの腕からそっと抜け出し、額に手を当てる。その顔には「しまった」と書かれていた。


 

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