トキはゆっくりと〝女〟になった
カウアンはトガル国の南端に馬を走らせていた。
数年前に海から侵攻してきたティング国の残党が村を荒らしているとの情報が入ったからだ。
トガル国各地に散っていた部隊を集めて残党を倒すことは出来たが、村は壊滅状態だった。
隊を撤退させたあと自分も戻ろうとした時、ある家屋で細い声がする。生存者かと中に入ると、賊の刀身を受けたであろう男が息絶え絶えに訴えてきた。
曰く、娘を村の奥にある森の大木のうろへ隠したと。
「どうか娘だけは、どうかトキを……」
頷くカウアンに、男はわずかに笑みを浮かべ息を吐いた。
カウアンは踵を返して馬を走らせる。
ぽつりぽつりと顔に伝う雨をもろともせずに。
トキはトキという名前だったことを知らない。
行く先々でたまに名前を聞かれた時、カウアンがこの子はトキというようだ、というから自分の名前はそうなんだな、と思うぐらいだ。
トキは小さい頃の記憶があまりない。
一番初めに覚えているのは、つむぎの木のうろの中で震えていた事だ。雨が降り出し湿った空洞は暗く、小さい子どもならその暗さに恐怖を覚えてもいいと思うのに、逆にその暗闇に頭を突っ込んで震えていた。
そんなトキを引きずり出したのがカウアンだ。保護したのだとあとから聞いたが、トキにとっては恐怖の対象だった。
闇雲に手足をバタつかせて逃げようとするのを片腕で小脇に抱え離さないほどの大男。息を切らして恐る恐る見上げると、逆光の中で浮かび上がる短髪の鈍い色味の金髪と鋭く青い眼がこちらを見ていて怖かった。
無言でもう片方の腕がこちらに伸びてきて、ぎゅっと目をつむっていたらふいに身体が浮き上がる。
言葉なく腰と足を抱えられて肩に頭があたるとバサリと布を被せられた。
「そのまま瞑っていろ」
囁かれた声は低く、掠れていた。
近くの木に繋いでいた馬に乗せられ森から出た瞬間、トキはカウアンの言葉の意味を肌で感じる。
霧雨の中でも所々に上がっている煙、熱風と共に匂う家屋が焼ける匂い。
言葉なく息が上がっていくトキを抱えた男は集落を横目にその場を離れていく。馬の振動にもみくちゃにされながらトキはカウアンの胸にすがった。
それ以来、トキはカウアンと共に居る。
一年、二年とカウアンと過ごす内にトキは言葉を習った。カウアンはどちらかというと寡黙な男だったが、トキが読み書きができない事を知ると日々の合間に少しずつ単語を教えてくれた。
「これは〝木〟だ」
「き」
「太い木、細い木を組み合わせて〝火〟をつける」
「ひ」
「その近くに〝肉〟をかけると、焼けて食べられる」
「ひく」
「〝肉〟」
「にく」
「そうだ」
トキが一つずつ単語を覚えていくたびに、カウアンの目が細まる。その仕草が好きで、トキは何度も土に言葉を書いて練習した。
三年、四年目にはカウアンがただの旅人ではない事にも気づく。普段はもっぱら野宿での移動が多いのに、ときおり大きな街に入っていくのだ。そこには必ず民家の常宿があり、親しげに話してくる人々がいて歓迎を受け、トキを早々にベッドへ放り込むと夜中まで話している様子だった。
ときどき、その会話の中に〝あの子〟という言葉が聞こえる。五年ほど一緒にいると、この場合の〝あの子〟という単語はトキの事だとわかるようになってきた。
六年目には、その中に〝女の子〟や〝女〟という単語が混じることも。
「今はまだ」
カウアンがそう言ってこの話を止めるのを聞いてから眠るのが常宿での日課だった。
だから、別れる時が来るなんて欠片ほども思ってもいなかった。
「トキ、今日からお前はここに居ろ」
たくさん旅をしてきた中でも一年に一度は必ず寄る比較的大きな街の宿屋の一室で、カウアンはトキに告げた。
「今日から?」
「ああ、今日からここで働くんだ」
「カウアンは?」
「俺はまた旅に出る」
「トキも行く」
「だめだ。トキはここに居るんだ」
トキは目を見開いた。カウアンを見ると、あの細い目をしている。
「トキ、お前は〝女〟になった」
「〝おんな〟」
「先月、血の道が通っただろう。あれが通るとトキは〝子供〟から〝女〟になっていく」
子供、女、という言葉をよく耳にしていた。いつだったか夜中に聞いた単語を思い出しながら、指で机をなぞる。
「〝女の子〟から〝女〟?」
「そうだ」
滑らかに指が正しく文字をなぞっていくのを見たカウアンは、また目を細めて頷いた。トキが一番好きな仕草。
カウアンの口元が微かに緩むから。
「今はまだ分からないかもしれないが、その内、身体も変わっていく」
「体」
「ここは行商の拠点だ。いろいろな国の血が混ざり合ったこの街ではお前のその髪や目も目立ちはしないだろう」
そういって、カウアンはトキの伸びた黒髪を一房つまんで撫でた。普段は一つにまとめているが、寝るときだけ紐を緩めて垂らしている。カウアンと出会った頃は短かった髪は腰あたりまで伸び、それ以降は間を置いてカウアンが揃えてくれていた。
カウアンの青い瞳に映るトキは、細く貧弱な子供から艶やかな黒髪と同じ色の瞳を持つ少女に変化していた。
「語彙は少ないが、お前はトガル、ハイネン、グランドの言葉が分かる。この街であれば片言でも三カ国語を読み書きすることが出来れば重宝されるだろう。宿で働くのもよし、語彙を伸ばせば役場で働くこともできるかもしれないからな」
こんなに長く話すカウアンを初めてみた。トキは言葉なくただただ彼を見つめる。
カウアンが教えてくる言葉は常に三つの種類があり、それを覚えたらまた次の単語へと移っていっていた。
旅をしているとその土地によって言葉は少しずつ変化する。だが、聞き取りにくい場所でもだいたいは三つの内のどれかに似通っていて話すことができた。
どこの土地でも一人で買い物の使いができるようと、ただそれだけの為に教えてくれていると思っていたのに。
トキはカウアンが長く話してくれた言葉も聞き取り理解はできるが同じように話すことはできない。だから、いつも言葉より行動が先立つ。
おもむろに立ち上がると、真向かいに座るカウアンの膝にすっと入った。太い首筋に手を回して離れないように抱きつく。カウアンも承知で落ちないように柔らかく腰を支え、宥めるように頭を撫でてくれる。
「離れたくないか」
「うん」
「だが、それでは俺は仕事にならん」
「カウアン、仕事できない?」
「ああ。〝子供〟はいいが〝女〟は連れ歩くには向かない」
トキはそれなら、と顔を上げた。
「トキ、ずっと〝子供〟のままでいる」
「それは無理だな」
カウアンはなぜか目を細めた。頭を撫でていた厚い手のひらが降りてきて、頬をゆっくりと包む。
「トキはもう〝女〟だ。俺の目にはそう映るし、いずれ誰の目にもそのように映っていく」
どういう意味なんだろう。言葉は分かるのに、意味が分からない。ただ、カウアンが〝女〟だというならばトキはもう一緒に旅に出ることはできない。それだけは分かる。
「いや。トキも一緒に行く」
「ここに居ろ。ときおり様子を見にくる」
「いやっ、いつも一緒がいい! いや! 離れるのいやっ!」
カウアンは大きくため息をつき、まぁ、そうだろうなと呟いた。そして泣き出したトキの背中をさする。
出会った当初、棒切れのように背骨が浮いていた背中は薄いながらも柔らかな曲線を描くようになってきた。
フードを被らせ、男物の服を着させても店先の商品に伸びる陶器のような腕を凝視する露天商が増え、子供だ、縁故の少年だと偽るには苦しくなってきた。
心の中の嵐が少しずつ凪いで呼吸が静まった頃、カウアンが一つ方法がないわけでもない、といった。
「俺の身内になるなら……いや、年の差といっても体格差でもって無理か」
「いやぁあ」
「ああ、ちがう。うぅん」
カウアンは椅子の上であぐらをかくと、トキも持ち上げてあぐらの上で膝立ちにさせた。そうしてやっと目線が合うのだ。トキの身体が育たなければ何もかも始まらない。
「トキ、お前は〝俺の女〟になる覚悟はあるか」
「〝女〟はいやっ」
「ちがう、〝俺の女〟だ」
女と俺の女のちがいが分からない。トキはしゃっくりを上げながら首を傾げた。分からないときの合図だ。これをするとカウアンはもっと丁寧に教えてくれる。
「俺の女とは、あー、俺のものになるということで、あー……まぁ、なんだ、〝夫婦〟になるということだ」
「ふうふ?」
「ああ、綴りはこうで、そうだ、トガルはラグー、ハイネンはラグハン、グランドはランバン」
「全部、Laからはじまる」
「そうだ、どの言葉も似通っている」
どんな時でも、カウアンは言葉を知りたい時にはゆっくりと綴りと発音を繰り返してくれる。何度も反復してトキが三ヵ国分を覚えると、よし、とまた目を細めてくれた。
「トキ、俺と夫婦になるには時間が必要だ。まずお前はもっと食って身体を丈夫にしなければならないし、俺は拠点をここに定めるとなると上役に相談しなければならない」
「トキ、たくさん食べる。でもカウアンのこと、分からない。もっとやさしくいって」
「お前と一緒になるには、俺は一度ここを離れて仲間と相談して戻ってくる、という事だ。一度は離れる。だが戻ってくる」
「トキはついて行けないの?」
「ああ、まだな」
「〝夫婦〟になったらついていけるの?」
「まぁ、機会があれば。あとは夫婦になれば必ずお前の元へ戻って来られる。これでもうちの組織は家族には手厚いんだ」
その分独り身は飛ばされ放題だがな、と軽く肩をすくめたカウアンは珍しく笑みを浮かべながらトキの涙で潤んだ瞳を覗きこむ。
「俺とずっと一緒にいるには、一度離れなければならない。それは分かったか?」
「うん、でもカウアン、戻ってくる」
「そうだ、戻ってくる」
「いつ? いつ戻る?」
「ながければ半年」
いやいやとトキは首を振る。
「早いと三月」
いや、いやいや。
「わかった、決裁が通らなくても一月後には帰ってくる。それでいいか? 行程からして馬を走らせてもそれぐらいだ」
「うぅ……」
「まぁ、おいおい慣れていくだろう。慣れなければ一緒には居られない」
それは何をおいても一番イヤなことだ、とトキは身体を震わせてやっと頷いた。
「うぅ……いや、だけど、がんばる」
「ああ」
こつり、と額を合わせたカウアンは、それでも寂しくてほろほろと泣き出すトキの涙を唇で受け止めると、身を寄せてきた彼女を抱き上げベッドに寝かせた。
「カウアン、起きるまでそばにいて」
「ああ」
「勝手にいっちゃだめ」
「ああ」
「必ず戻ってくる」
「ああ、よく喋るようになったな。俺が戻ってくるまで言葉を忘れるなよ? あと」
「食べる、勉強する、働く、待つ」
「そうだ。あとは宿の者以外には愛想を振る舞わない事」
「〝あいそ〟?」
「ああ、うぅん……仲良くするのは、俺と宿の者だけにする、という事だ」
「わかった」
前髪をすいてくれる厚い手を忘れたくなくて、何度も話しかけた。眠りたくなかったのに、泣き疲れた反動でトキの瞼は落ちていく。
「カウアン……」
「ここにいる」
「ずっとそばにいて」
「ああ、いずれな」
出来ないことは言わないカウアンがいずれというならば、遠い先かもしれないが一緒にいてくれるのだろう。それならば、とトキはやっと息を深く吸った。
翌日、目が覚めて部屋にはカウアンが居なくて、転がるように食堂へ降りるとちゃんと彼は待っていてくれた。
べそをかくトキに苦笑しながら、一月で戻ると約束してカウアンは宿屋の夫婦とトキに見送られて旅立つ。
有言実行の彼は約束通り一月で戻ってくるのだが、トキの年齢が不明な事をいいことに先に役場で申請をし、受理された結婚申請書と共に上役に遠方配置から拠点配置への申請を出してとんぼ返りをするという前代未聞の所業をやってのける。
その間、トガル国の中核都市にあたるダナンという街の宿屋に東方美人の店子が入ったと近所の若者はいろめきたつが、誰がすり寄ってみても冷たくあしらわれ肩を落とすともっぱらの評判だった。
そんなフラレ組の愚痴に店主は笑いながらやめときな、と忠告する。
「この国を下支えしているクハラ隊、副長の婚約者だ。首が飛ぶ前にやめときな」
それを聞いた若者達はひえっ! と声をそろえて叫び、慌てて襟元を掻き合わせすごすごと退散するのであった。
完
ここまで読んで頂き、ありがとうございます。
小鳩さんに読んで頂きたい一心で書き上げましたが、つたなく……! キラキラにもならず……!
お好きな方に読んで頂ければと願うばかりです。
この作品以外にも小鳩さんブッ刺せ企画には素敵なキラキラほのぼの作品がありますのでお時間ありましたら下記のタグから飛んでいってくださいませ。
ありがとうございました!
2021.12.19 なななん