粉雪
うっすらと目を開けると部屋の中は暗く、ひんやりと冷え切って静寂そのものだった。
ベッドサイドの時計を見て、午前九時半を回っていることを確認する。
こんなに朝寝したのはいつぶりだろうと、悠美はまだぼんやりした頭で考えた。
夫の和人に息子の悠人はいない。
今頃、テーマパークで大はしゃぎにはしゃいでいる悠人とそれに振り回されている和人の姿が悠美の目に浮かんだ。
悠美は灯りをつけ暖房を入れると、フリースのパジャマの上から紺色のカシミヤカーデを羽織った。
とりあえず、ブランチを摂ることにする。
ミルクをかけたフルーツグラノーラに目玉焼き、コーンクリームのカップスープ、レタスをちぎった簡単なサラダはいつもの朝食通りだが、食後の珈琲はインスタントスティックではなく、ミルで豆から手で挽いた。
ガリガリとミルのハンドルを回している時間が悠美は昔から好きだ。でも、悠人を産んでからそんな時間的余裕はあまりない。そうやってドリップ珈琲を飲むのは久しぶりで、胃に染み渡るような一杯だった。
そして、新聞に一面から目を通す。普段は読んでも見出しの活字を追うだけ。夜にゆっくり読もうと思っても家事と育児でくたくたになり、悠人を寝かしつける内にいつのまにか悠美も寝入ってしまう。
『え、明後日?』
『ああ、休みだから悠人は僕が遊園地にでも連れて行く。悠美はゆっくりと休めよ』
そんな会話を和人と交わしたのは一昨夜の夕食後、悠美が皿洗いをしている時だった。
数日前から軽い風邪を引き、体調不良の悠美を気遣ってのことだろう。
今日は丸一日、和人が悠人の面倒を見てくれるのだ。
風邪自体はたいしたことないのだが、一人の時間をなかなか持てない悠美には願ってもないことだった。
今日この日が来るのを悠美は昨日一日中待っていた。
もうすぐ三歳になる悪戯盛りの悠人には苦労のしっぱなしの日々。
幼児向け番組の着ぐるみのテレビ体操を真似してはしゃぎ、スーパーに買い物に行けば好きなスナック菓子のおやつをねだって駄々をこね、果ては部屋中を走り回っては転んで泣き出す悠人。
それは、初めての子に男の子を授かった悠美には覚悟していた以上のものがあった。
珈琲を飲み干し、新聞を読み終えると今度はレディグレイの紅茶を丁寧に淹れた。ひときわ薫り高いその紅茶の葉は来客用で、やはり普段はそれほど口にすることはない。
そして、頂き物のデメルのクッキー缶を抱え、リビングのソファで楽しみに録画していたEテレの特番『バレエの饗宴』を二時間、じっくりと鑑賞した。
新国立劇場バレエ団のプリンシパルが踊る『ラ・バヤデール』のニキヤとソロルのパ・ド・ドゥは静けさの中で繰り広げられ、殊に優雅で見応えがあった。
悠美は夢見心地にその非日常を堪能した。
ああ、こんなゆっくりとした毎日を過ごしたい。
テレビを消し掃除をしようと現実に戻り、しみじみ悠美がそう思ったときだった。
あら、雪……?
ふと窓の外に目を遣った悠美は、ちらついている粉雪に気がついた。
いくら遊園地が楽しいと言っても今頃、悠人は寒さに震えているのではないか。悠人の機嫌に振り回されて和人はおろおろしているに違いない。悠人が泣き出したら、和人はどうあやすのだろう。
そんなことが不安で、心配で堪らなくなる。
悠美はやはり、夫を慕い、子を愛する母親だった。
雪の中帰ってくる和人と悠人の為に今夜は、悠人の好きなメークインのじゃがいもが一杯入った温かいクリームシチューをホワイトソースからじっくり煮込もう。
そして、和人とはとっておきの赤ワインで乾杯しよう。
ちらちらと舞う粉雪は辺りを純白に染めてゆく。
その銀世界の煌めきに、悠美は確かな家族の幸せな絆を思う。
本作は、銘尾友朗さま主催『冬の煌めき企画』、2023年・武頼庵さま主催『幻想の中の雪企画』参加作品でした。
作中イラストは、「AIイラストくん」を用いて作成しました。
銘尾友朗さま、武頼庵さま、そしてお読み頂いた方、どうもありがとうございました。