冬の匂い
「私、なんだか泣いちゃいそうだよ」
彼女はそう言った。
僕は窓の外に広がるグラウンドを眺めたままで尋ねる。
「なんで?」
彼女は少し笑って答える。
「愚問だよ」
彼女の長い髪が揺れる。
よく意味が分からないけれど、僕はそれ以上は追及しない。
彼女はいつもそんな感じだったから。
彼女は僕の席に座り、そっと机に頬を載せる。
グラウンドでは野球部がキャッチボールをやっている。
「冬の匂い……するね」
「冬の……?」
僕は彼女を見る。彼女は顔をあげ、また少し笑う。
「冬の匂い。優しい匂いよ。春よりも、夏よりも、秋よりも」
僕は周りの空気の匂いを嗅いでみるけれど、特別変わった匂いはしない。
「匂い……分からないよ」
僕の言葉に彼女は軽く首を振る。
その仕草にどんな意味があるのか僕にはよく分からない。
「あと少しで卒業、だよ?」
と彼女。
突然話題を変えるのは彼女の癖だ。
三年間付き合ってきて慣れっこの僕は軽く頷いて見せる。
僕たちしかいない教室は、静かだ。
「大学、決まった?」
「まだ」
僕は短く答えた。
一番触れてほしくない話題だ。
「卒業したら……もう会えない、よね」
確認するように言う彼女。
正直なところ、僕もそれが一番の気がかりだった。
何か答えなくちゃ、と僕は思う。
彼女も明らかに僕の言葉を期待していた。
でも僕は、ここ一番のところで勇気が出せずに逃げてしまう。
「冬の匂い……今、してる?」
そんなことを口にしてしまう。
情けない男だ。
彼女は一瞬ひどく哀しそうな顔をした。
けれど、いつもふわふわと掴みどころのない彼女はすぐにその感情を隠してしまう。
「……うん。してるよ、今」
「優しい匂い?」
こくん、と彼女は頷く。
「とっても優しい匂いだよ。でもね……」
彼女はまた微笑んだ。
「でも、何?」
僕は尋ねる。
本当はそんな匂いの話なんてどうでもいい。
言わなきゃいけないもっと大事な言葉が、本当は僕の中にずっとあって、今がそれを言うべき時なんだってことは分かっている。
でも、今さらそれを口にするのが照れ臭くて、かっこ悪くて、どこか怖くて、言えないでいる。
だから僕は彼女に喋ってもらうしかない。
臆病な僕の心を沈黙が押し潰してしまわないように。
僕の大好きな、ふわふわと掴みどころのない、けれど素直でかわいい彼女が僕の言葉に促されてまた口を開く。
「でもね、冬の匂いは優しすぎてね、その匂いがする度に切なくなって、泣きたくなっちゃうの。胸がきゅーってなってね。……本当だよ?」
疑ってる?という目で彼女が僕を見る。
大きな瞳が、夜に出会った猫みたいにぱっちりしていてかわいい。
「僕にもそんな匂い、分かるといいのにな」
僕は言った。
本心だ。
彼女が本当だと言うのなら、本当なのだろう。
僕はそう思う。誰が何と言おうと。
「今、してるのに。とびっきりの冬の匂い」
彼女はちょっと首を傾けて僕を見る。
「私にしか、分かんないのかなぁ。こんなに優しくて切ない匂いなのに」
僕は何度か空気を吸い込んでから、首を振った。
「ダメだ。分かんない」
「そう……」
残念そうな彼女。
それきり、沈黙。
彼女はまた僕の机に頬を載せて、ゆっくりと目を閉じる。
僕は悩んでいる。
心臓の鼓動が、外に聞こえてもおかしくないくらい、大きく鳴っている。
言わなきゃ。
心の中でそう言ってみる。
うん、そうだ。
言わなきゃ。
……と、そこまではいく。
その次が出てこない。
ダメだ。
とにかく、声を出さなきゃ。
「……えーと」
僕は切り出した。
何て間抜けな切り出し方だろう。
でも仕方ない。これが僕の精一杯だ。
彼女が目を開けて身体を起こした。
ぱさりと頬にかかった髪を指でそっとかき上げる。
「あのさ……」
と僕。
彼女は僕の方をじっと見ている。
頬がほんのりと赤い。
怖じ気づいて目をそらしてしまいたくなるけれど、心の中の弱い自分を励ます。
上手く次の言葉が出てこない。
僕は彼女の目をじっと見ている。
彼女も僕の目をじっと見ている。
僕らは互いに見つめあったまま。
多分、僕は耳まで赤くなっていただろう。
不意に彼女が小さく笑った。
声を出さずに口だけ動かす。
何と言いたいのか、すぐに分かった。
(がんばって)
僕も、自然に笑みがこぼれた。
そうだ、何も緊張することなんかないんだ。
僕は、僕が彼女と一緒にいる間中ずっとずっと心の中で思ってきた言葉を、口に出しさえすればいいんだ。
僕は彼女の目を見つめながら、深呼吸を一つして、唇を噛んだ。
彼女も笑顔を引っ込める。
僕はゆっくりと口を開いた。
彼女の瞳がたちまち潤んでくるのが分かった。
僕がその大切な言葉を口にしようとした時、僕の鼻をふわりと優しい香りがついた。
すぐに分かった。
それは冬の匂い。
どの季節よりも厳しい季節。
でも、どの季節よりも温もりを感じることができる季節。
だからこそ感じられる匂い。
彼女の言うとおりだった。
不覚にも、僕まで泣きそうになった。
けれど、伝えることは伝えなくちゃ。
僕は今まで温めてきた大事な言葉を、そっと彼女に手渡す。
そして、今度は彼女の番だ。