2話-1 目覚め
銀色が揺れている。
アイアスが目を覚ました。徐々にぼやけた視界がはっきりとしてきて、まず白い天井が目に入った。銀色はどこにもない。陽の光を見間違えたのだろうか。
少し間があって思考の回路が動き始める。ここがどこなのか、何故ここにいるのか、自分は生きているのか、それとも死んでいるのか。そんな考えが回路の中を駆け巡った。
何はともあれ、見て確かめないことにはまとまるわけがない。
背中を包み込むような触感から上体を離し、室内を見回す。
一人でいるには広すぎる部屋だった。板張りの床の中央には、幾何学模様が描かれた部屋の半分はある絨毯が敷かれていて、そのさらに中央には、分厚い切り株を切り取ったテーブルが銀色の四本の脚で立っていた。ベッドから対角線上にある扉は閉じられていた。
アイアスが寝ていた快晴の空のような水色の寝台は部屋の奥にある。壁にはめ込まれたアーチ形の窓からは白いレースのカーテンを挟んで日差しが柔らかく射し込んでいる。銀色はこのカーテンを見間違えたのだろうと納得した。
カーテンが風で揺れた。日差しの眩しさにやられてから視線を逸らす。すると、向かいにある乳白色の陶器で作られた化粧台が目についた。化粧台には様々な色に彩られた透明な大小の瓶が置かれている。アイアスはそれが化粧品の類だろうと推測するが、女性への興味が薄い彼にとって、ラベルに書かれている商品名を読んでも違いが分からなかった。
興味がなさそうに目を離すと、反対側に配置されている大きめの衣装箪笥を見つけた。白を基調として縁や両開きの扉の取手が金色の光沢で飾り付けられており、今までのものとは違って豪華さを感じさせていた。特注の品なのだろうかとアイアスが勘ぐる。
しかし、ここが死後の世界なのか?
アイアスは一人首を傾げた。荒波にのまれ、海の藻屑になることが運命づけられていた彼にとって、それは当然の疑問だった。死後の世界の概念は存在しているが、信心深くない彼にとって、関心のあるものではなく、生きていくうえで必要のある分野でもなかったので、詳しいことは学んでいない。
用心棒として生きていくのであれば、最低限の常識以外は不要。学問は興味が出た時に手を出せばいい。アイアスを育てた師匠の言葉である。
だから、自分がそもそも受け入れられる人間かも知らなかったのだ。
アイアスは、立ち上がろうと右腕をついた。途端、骨に刃物が突き刺さったような痛みが彼を襲った。思わずそちらを見やると、右腕には木の板が一緒に包帯が巻かれている。ヒビが入っているな。腕の痛み具合を過去の経験と照らし合わせて判断した。
痛みからして、完治するまで一週間程度といったところか。もう少し早いかもしれない。ひとまずこんな手当てがされているのならば俺は生きているのだろうか? いや、あれだけの嵐の海に落ちて生きていられるなんて、神の御業でもないと無理だろう。
まだ痛みがある右腕を一瞥すると、無事な左腕をついて、起き上がる。そして、改めて自分の身なりを確かめる。
船にいたときは重鎧を着ていたが、船で脱いでしまったので勿論着ていない。鎧の下の、植物のポポポを格子状に隙間なく編んだ、半袖の黄緑色の上下同じ肌着を着ている。
裸足で床に立つと、厚い足の裏に板張り特有の張り付くような冷たさが伝わってきた。
死んでも傷は残るし、冷たさは感じる。どうやら触覚は残るようだ。死んでも肉体の痛みを感じるとは、死後の世界も意外と不便なものなんだな。
アイアスは右腕を迂闊にぶつけないよう庇いながら、左手で扉を開けた。
扉の先は開けた廊下。建物は四角の真ん中をくりぬいて、くり抜かれた箇所は庭になっている。そのため、一見すると部屋からそのまま外に出たような錯覚を覚える構造になっていた。アイアスも例に漏れず、たなびく緑と極彩色の花々がそよ風に揺れる庭の情景に心奪われ、ここが外であると錯覚する。
左右に生えた天井のアーチへと伸びる白い石柱が額縁を思わせ、まるで一枚絵のように映えさせる。いくらでも眺めていられる光景だった。それと同時に、浮世離れした風景画はここが死後の世界であることをまじまじと見せつけられていると、彼は感じ取った。
アイアスは急に物悲しい気持ちになって、鼻の奥がツンとなった。次にこみあげてきたのは、師匠への申し訳なさだった。自分を我が子のように育ててくれた師匠。もらってばかりの相手に、今回で少しは恩を返すことができると思っていたのに。
アイアスは、目頭を押さえて天井を見上げた。
何かの匂いが彼の赤くなった鼻を横切っていった。はっきりとした甘さのある匂いで、どこかで嗅いだ花の匂いだと思い出した。だが、それがどこで嗅いだかまでは思い出せなかった。
行ってみよう。
香りに誘われて、アイアスは廊下を歩き始める。ひたひたと傷一つのない磨かれた鉱石が敷き詰められた廊下を左へと進んでいく。辿っていくと香りはは突き当りにある部屋から漂ってくるようだ。
アイアスが突き当たりの部屋を開ける。
室内は書斎として使われていた。部屋の大きさは寝ていた部屋と変わらないが、物が少ない分、こちらの部屋が広く見えた。正面の壁には純白のカーテンが掛かった窓が並んでいる。
右端の窓を背景に配置された墨をこぼしたような木肌の書斎机と、白いレースを被せた木肌の本棚。書斎机には便箋が丘のように積まれ、本棚には分厚い本たちがお互いを押し合って苦しそうに挟まっている。隣の脚の低いテーブルだけは綺麗にされている。
アイアスは普段から本を読む人間ではないが、死後の世界にも本があるのだと、本棚に詰まっている背表紙を確かめようとする。そもそも文字が読めるのか、という疑問がよぎったが、背表紙の表題は彼が生前使っていた言語だったので、何の問題もなく読めた。
「この世界と創造主について。この世界の成り立ち。神が住む島。これらは神話の本か。かと思えば、有名貴族が選ぶ香水百選。あとはタタイヌの冒険一巻から十巻まで。他にも本は並んでいるが……」
そよ風が左奥のカーテンを揺らした。押しのけられたカーテンから、またあの甘い匂いが流れてきた。
アイアスは、思い出したように窓のほうへゆっくりと歩を進めた。カーテンに手を掛けたところで、足元に伸びる人影を発見して動きを止まった。警戒しているわけではない。だが、死後の世界で初めて会う相手がどのような姿形をしているのか分からず、緊張した。
カーテンを優しくはらい、窓の外を眺める。
向こう側は乳白色の鉱石で造られたテラスになっていた。柵の奥には、先ほど見た庭とは比べ物にならない広さの花畑が広がっている。
アイアスは感嘆の声を上げた。花畑に目を奪われたわけではない。
テラスにいた人に、彼は心を奪われたのだ。




