5話-2 獣との対峙
ブロブロは立ち塞がった大男をじっくりと見定める。この獣が人間と遭遇するのは初めてではない。今までも何人もの人と出会い、襲ってきた。理由はない。ただ目に入ったから殺す。中には自分を狩猟することが目的の浅はかな愚か者もいたが、相手にならなかった。草食であるブロブロが人間を食べることはない。獰猛な野生の本能の赴くままに殺してきたのだ。
勇猛に立ち向かってくる者も、愚鈍な野生動物と油断する者も、その場に怯え動けなくなった者もすべからく葬ってきた。ある時はその大牙で串刺しにし、肉塊になり下がったそれを高々と掲げた。こうして出来た牙の傷はブロブロの誇りである。またある時はこの巨体でぺしゃんこにして、地面にこすりつけてきた。
あの大男たち――アイアスたちと出会ったのは偶然だ。普段は、この山ではなく、隣接する山の山頂近くで悠々と暮らしていた。だが、豊富だった餌である山菜の実りが最近悪くなり、新たな餌場を求めて、この山まで移ってきたのだ。そして、二人と会敵し、本能に従い彼らへ襲い掛かった。
ブロブロは人間の言葉を理解できない。人の悲鳴も怒声も、他の動物の鳴き声と変わらない。この獣が感じ取るのは、その者が持つ特有の臭いだけである。
アイアスの臭いをゆっくりと嗅ぎ取る。今までにない臭いに、鼻を引くつかせた。
これは、今まで戦ってきたどんな人間よりも濃い、強者の臭いだ。追いかけていた時は、弱者の臭いや山菜の臭い、薄い甘い臭いが混ざり合って良く分からなかった。強者と甘い臭いも持つ変わった人間だが、強者であることに変わりはない。油断をすれば、こちらが怪我をしてしまう。
ブロブロは前足の蹄でザッザッと土を蹴る。ぬかるんだ足元だが、強固な蹄でなら、固まった部分まで踏み込める。ブロブロは全力で走っても問題ないだろうと判断した。いつも通り、全力で突進してなぎ倒してしまえばいい。強者であろうとなかろうと、自分の全力に勝てる人間など、存在するはずがない。
先にいる大男は出方を窺っているのか、その場から動く気配はない。大木の陰に身を潜ませている老婆を横目で見る。こちらも動く気配はない。なに、どうせ弱者なのだ。あの大男を殺した後に、ゆっくりと追い詰めればいい。
ブロブロは再びアイアスのほうへと目を向ける。
アイアスの心は落ち着いていた。初めて対面した時は前例のない生物との遭遇に、事実焦っていた。しかし、作戦を組み立て、有利とはいかずとも対等な地形まで逃げるすることが出来た。あとは相手を圧倒すればいい。やることが決まれば、心は波から凪へと変わっていく。
この状況で、アイアスは師匠からの言葉を思い出していた。
「用心棒とは、何かを守るため常に敵を圧倒できなければならない」
普通の勝利では駄目。辛勝なぞもってのほか。楽勝をまざまざと見せつけることが出来なければ、守るべき人を安心させることができない。
普段ならば、鎧を身にまとい、盾を構えて相手の突進を待ち構える場面である。しかし、手元に得物は持ち合わせていない。そもそもあの荒波の中で失くしてしまったと彼は思っている。ならば、得物がないと十分に戦えないのか。
その答えは否である。
アイアスは、ドン! と利き足である右足を前に踏み出し、中腰になる。両の掌を開き、胸の前で構えた。師匠から教わった武術の受けの型である。
構えを見て、ブロブロはおかしな立ち方だと思った。その立ち方がどういった意味を為すのか、野生生物にそんなことは関係がない。ただ、純粋な力でねじ伏せる。それしかなかった。獣が、脚を止める。
一瞬の静寂。
ブロブロが動いた。地面を蹴って、アイアスめがけて一直線に駆け出していく。その目にもとまらぬ姿はまさに黒き砲弾。鉄の肉塊となった容赦のない突進がアイアスに襲い掛かる。
一人と一匹が衝突する寸前、マリは目をぎゅっと閉じた。いくらアイアスでもあの一撃を受け止められるはずがない。無残に吹き飛ばされてやられるところを見たくなかった。強烈な破裂音に混じって、ズザザザザと地面を削る音が手で耳を塞いでいても鼓膜を震わせた。マリはそれを吹き飛ばされた彼が無残に転がっていく音だと思った。しかし、恐る恐る目を開けたマリが見たのは意外な光景だった。
アイアスは衝突する直前に右手で大牙を掴み、左手は掌底打ちを仕掛ける。丸太のような腕から放たれた奇襲がブロブロの額へ直撃した。
だが、その一撃をもってしても、ブロブロは止まらない。大抵の相手であれば、これだけで気絶させられるが、予想よりその毛と皮膚は硬く、怯ませるまでには至らなかった。
面食らったブロブロだったが、変わらない勢いで突っ込んでくる。
衝突の瞬間、心地よさすらある破裂音と、強烈な衝撃がアイアスに襲い掛かる。痛撃であったが、鉄板のようなアイアスの胸筋には全く傷一つつかない。勢いまでは殺せず、後方へと押し込まれる。
「ふんっ……!」
このまま押し倒されまいと、アイアスが脚に意識を集中させる。脚の血管が浮き彫りになるほど力を込め、必死に衝突を受け止める。ズザザザザ、と電車道を作ったものの、突進を受け切ったのだ。
ブロブロには、この突進を受け止められたことは些か予想外だった。
今までも突進を受け止められることはあった。あるにはあったのだが、そういった人間は大層な道具を準備していたり、複数人が固まって防御していた時で、生身で、しかも一人の人間にこの突進を受け止められたのは、これが初めてだった。
強者だと分かっていたが、まさかここまでやってくれるとは。
ブロブロは野生としての本能が高ぶるのを腹の底で感じ取った。
アイアスにとって、あの掌底打ちが効かなかったことも突進の衝撃も少し予想外だった。
自分が思っていたよりも、この獣は硬い。奇襲や小手先の攻撃ではダメージを与えられない。だが、その程度ではまだまだ負ける要素ではない。
まだまだブロブロの手番である。この距離ならば大牙の攻撃をあり得るぞ、とアイアスは思った。
ブロブロは口角を上げると――アイアスには笑ったように見えた――大牙を右に薙ごうと顔を思い切り引っ張った。この大牙がわき腹に刺されば、アイアスの腹筋もただではすまない。
……動かない。
ブロブロは剛毛で見えない肌が赤くなるほどにもう一度力を込める。だが、ピクリとも動かないのだ。一向にアイアスへ突き立てることが出来ない。いつの間にか、顔が動かないように左手で頭から押さえつけられている。
ブロブロが鈍く睨みつける。まさか、人間に二度も止められるとは。それに対して、アイアスはにやりと笑って返した。まだまだ余裕があることを示したつもりだったが、ブロブロには今一つ意図が伝わっていない様子だ。
本能が更に高ぶる。この大男はやはり、飛び切りの強者だ。この大男を殺せば、さらなる誇りの糧となるだろう。あぁ、早くこの大牙を大男に突き立てたい。その巨体を高々と掲げ、山を練り歩きたい。自分が最強であることを証明したい。
ブロブロが筋肉を更に膨らませる。僅かに牙が左に下がった。
そのことに気が付かないアイアスではない。彼は上半身だけを仰け反らせ、大牙の軌道から自身を逃がす。右手に掴まれていた大牙の拘束が緩くなる。その隙をついて、ブロブロが思い切り頭を右に薙いだ。手を払い、返す刀でぶちかましてやろうと思っていたのだ。
刹那、ブロブロの視界からアイアスが消えた。




