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盾の用心棒と白の魔女  作者: 海藻 若芽
用心棒と白の魔女
12/26

5話-1 獣

 その獣が獣道を辿ってきたのか、それとも木々の間から飛び出してきたのか。少なくとも気づかれることなく、この距離まで近づかれたことは、アイアスたちにとって大きな痛手だった。

 現れた獣はその場で蹄を鳴らしながら、今にも突進してきそうな面構えで獲物を見据えている。


 アイアスは突然現れたその獣を瞬時に観察する。

 それはまるで球体状の黒い塊だった。全身にまとう真っ黒な毛は怒髪天のように逆立っている。頭から大きな弧を描く背中は頂点がアイアスと肩を並べるほどもあり、でっぷりした横幅は狭い山頂への道を塞いでいる。二人を捉えた瞳は非常に大きく、成人男性が握る拳ぐらいはありそうだった。誇らしげに伸びる大牙は用心棒の腕に負けず劣らず太い。そして、いくつもの切り傷や欠けは歴戦の猛者であることを示していた。


「ぶろぉぉぉぉぉおお! ぶろぉ!」


 獣がもう一度咆哮を上げる。

 木々を揺らすほどの咆哮がアイアスたちの耳をつんざく。マリは耳を塞いで膝を折ってしまったが、アイアスは直立して、動向を窺っている。


「ブロブロじゃぁ~! どうして! この山で見たことなんてなかったのにぃ!?」


 ブロブロと呼ばれた獣は、悲鳴を上げたマリを睨みつけた。目と目が合った瞬間、マリは短く息を吸い込むと石像のように一瞬にして固まってしまった。

 まずい、これはまずいぞ!


 アイアスがこの獣を見るのは初めてである。しかし、用心棒としての経験が、警鐘を打ち鳴らした。このままここで襲われでもしたら、自分もマリさんもただでは済まない。それだけの危険性を、あの獣から感じ取ったのだ。

 あの剛毛に覆われた巨体は確実に自分よりも重量がある。それに、脂肪が大部分を占めているわけではないだろう。あの中身はほとんどが筋肉で固められている。あの牙は一体何体の動物を、いやもしかすると人間も屠ってきているかもしれない。


 こんな足場の悪い坂道で、あの塊と正面からぶつかればこちらが押し勝てるわけがない。道を外れ、木々の間をすり抜けるようにするか。あの巨体なのだ。こちらが狭い間を縫っていけば、撒くことが出来るかもしれないとも考えた。しかし、それは俺が地形を把握していたらに限る。無計画に飛び込めば、根や落ち葉が密集した地面に足を取られて、思うように進むことが出来ない。少し隠れたところで、あの大きな目が俺たちを見失うことはない。もし振り払えたとしても、麓まで下山できるまでに足を滑らせでもしたら、死ぬことには変わりない。

 そして何よりも、マリだ。マリはこの状況に縮み上がってしまっている。こうなってしまっては真面に走れない。野盗や暗殺者に襲撃され、うずくまってしまう人たちを何度も守ってきたアイアスには見慣れた光景である。


 ならば、どうするべきか。アイアスは作戦を瞬時に練り上げると、行動に移る。


「マリさん、失礼します」

「へあっ!?」


 アイアスは振り返ると、マリの膝裏と項に剛腕を回し、強引に持ち上げた。硬直していた本人は素っ頓狂な声を上げるが、事態の把握が出来ていない。支えを探して空をさ迷っていた腕がアイアスの首に回った。それを合図に獣から踵を返し、振り返ることもなく疾風のごとく駆け下りていく。

 慣れていたと思い込んでいた道も、登りと下りでは求められる筋力も、スピードも全く違う。しかし、脚を止めている暇はない。一瞬でも脚を止めれば、背後から聞こえてくる地面を駆ける激しい音に距離を詰められてしまう。自分の足音と重なって聞こえづらいがまだまだ諦める気はないようだ。そもそもアイアスたちは、何故自分たちが追われているのか。相手の虫の居所が悪かったのか、知らず知らずのうちに縄張りに入ってしまったのか。理由はいくらでも思いつくが、それを悠長に検討している暇など全くなかった。


 行きは変化のないと感じていた景色が矢のように流れていく。どれくらい降りてきているか、その指標も立てられないが、徐々にだが迫ってきている殺気だけはビシビシと肌をひりつかせている。マリに見てもらうことも考えたが、首を絞めかねない強さでしがみ付く老婆には酷な話である。

 ばらばらと、地面に転がっていく山菜を踏みつけながら、アイアスはあることを思いついた。上手くいけば、足止めできるかもしれない。彼は足元の、長靴越しの僅かな感覚を頼りに、足を地面の土を削るようにして蹴り上げた。


「ぶろぉ!」


 アイアスの狙いが見事に命中する。蹴り上げられた山菜たちがあの大きな目に当たり、ブロブロが怯んだのだ。悲鳴に似た鳴き声を上げたブロブロの足音が一時的に止んだ。それでも脚を動かし続ける。まだ戦える場所までたどり着けていない。更に脚の回転速度を上げる。当たって怯んだとしても、追ってこなくなるわけではない。用心棒が想定していたよりも、向こうは俊敏だ。ならば、決死の疾走でこちらも森を駆け抜ければならないのだ。

 体感にして、一時間――実際のところは二十分程度――だろうか。アイアスは見えない足元に変化を足の裏に感じた。地面が平面になってきている。正確には平らになり始めているのだ。彼は俯瞰するように前方へ視線を向ける。まだまだ木々に覆われ、光は見えない。


 ならば、この辺りが頃合いだ。


 アイアスはここで初めて振り返る。ブロブロはしつこく二人を追ってきたようで、傾斜の上からこちらを見下している。獲物が立ち止まったのを見て、ブロブロは一旦脚を止めた。ブロブロもあれだけの巨体で走ってきたのだ、息も切れていると思いたい。だが、アイアスにはそれが舌なめずりしているように見えた。

 アイアスはマリをゆっくりと降ろす。


「念のため、適当な木の後ろに隠れていてください」

「あ、アイアスさんはどうするんです?」


 マリはアイアスの指示通り、近場にあった大木の後ろに隠れながら聞いた。アイアスは少しだけ振り返ると、作り笑いではないにこやかな笑顔でマリに言った。


「あれを、倒してきます」


 用心棒として、一人の老婆を守るため、アイアスはブロブロと相まみえた。

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