4章
ダイニングにあるキッチンでココアを入れている最中、溜め息が思わず漏れた。
さすがに疲れた。
あと、残っている敵は何人だ。
三人か。これで半分。
ゆっくりしたい。
湯気を上げるマグカップを二つ持ち奇跡の元へ向かう。
奇跡のテーブルの前にカップを置いた。
「ありがと」
奇跡はココアを啜る。俺も隣に座って啜る。ココアは甘く、落ち着く。
俺はあの戦いの時、止まった世界で長年の修行をした。
何年も奇跡と会っていなかったようなもの。
だが、それを奇跡は千年体感している。
俺は数年だけだ。
いや、数年でも、だけといえるほどの長さではなかった。
だから俺は千年経てはいないけれど、その辛さを実感した。
あの孤独の精神疲労は凄まじい。
俺は強くなるという目標があるからまだ気力を奮起出来た。
だが奇跡はそれすらもなく千年独りだったのだ。
心が壊れるのは当然で、壊れた心が回復したのは本当に奇跡的な事なんだ。
奇跡の死なないでという言葉には、どれほどの思いがあったのだろう。
「奇跡、甘いか」
「うん、甘い」
「うまいか」
「おいしいよ」
奇跡との時間には安らぎを感じる。
独りで居るのは、寂しい。
数年の孤独を経て痛いほど理解している。
一人で居ることを好む事は出来ても、独りで居る事は出来ない。
人の心はそう出来ているのだろう。
失う事への恐怖は以前より高まっている。
奇跡が居なくなれば、俺の世界は絶望的に色褪せるだろう。
奇跡は守る。
最初からそう決めてはいたが、より強くそう思う。
これは誓いだ。
時は穏やかに過ぎて行く。
時だけは何が起こってもただ過ぎて行く。
何か奇跡に言いたかったが、いい言葉は浮かばなかった。
口にしても、安っぽいような気がして。
そうして、世界は変貌する。
瓦礫だらけの灰色の世界が視界を埋め尽くす。
深紅のワンピースを着た金髪女がやって来た。
どす黒い紅の瞳を此方へ向けている。
「ゲヒャヒャヒャヒャヒャヒャ」
「話は」
「ハハハハハハハ」
「通じない、か」
これまで通り、戦うだけだ。
エレミオーラの固有結界、光景が変わる、豪華絢爛な屋敷へといつの間にか居た。
異能力の刀が右手に現出する。
光り輝く刀身を、自らの腹に突き刺した。
「【異能外装】」
衝撃波と白光が爆発の如く吹き荒れる。
流線型の全身鎧を纏いし純白の戦士へと変身した。
右の銀、左の白、二刀を手に構える。
「ヴェアアアアアアアアアッッ」
エレミオーラが変身していく。
姿が変わるにつれ木が軋み割れる様な音が響いた。
下半身が鈍色の大きな蜘蛛の腹と化し、そこから蜘蛛足が八本生え出てくる。
蜘蛛の体から生えている様な人間体の上半身は陶磁の如く綺麗で、しかし顔面は怪物の牙が生え揃った大口であり醜悪だった。
同時に飛び掛かる。
両断せんと振るった刀は消失した。
エレミオーラの醜悪な大口にて、喰われたのだ。
空間ごと削ぎ落とすかのような咬合。
事実、空間ごと喰っているのだ。
無音で喰い殺し消滅させている。
振るった二刀目、これも喰われた。
再び手に生み出した二刀、薙ぐ、薙ぐ。
喰らう喰らう、刀を喰らわれる。
俺の腕から生えた刃がエレミオーラの腕を切り裂いた。
「ヴェアウッッッッ」
刀は喰われる、だが圧倒出来る戦力差だ。
エレミオーラは緑色のオーラを纏った。
蜘蛛の怪物は、急激に強くなる。
押される。
放つ剣撃は喰われ、生やす刃をも喰われる。
奴の、速さが光を超える足で、放つ刀の連撃を叩き落とされ喰われる。
先程までの圧倒など幻想であったかの様に苦境へと移っていた。
俺は強くなったはずだ。
自惚れではなく、修行をして確かに強くなった確信がある。
現に佐藤涼音という強敵を倒した。
エレミオーラは、佐藤達よりも遥かに強いとでもいうのか。
そこまでの差が仲間内にあったのか。
それとも、この緑色のオーラが特殊なのか。
オーラを纏った瞬間から、エレミオーラは急激に強くなった。
刀を振るえば、蜘蛛足に叩き落とされた。
次を振るう前に上半身の人間体、女の拳に殴り飛ばされる。
華奢な女に見える方も、化け物相応の膂力と身体能力を誇っていた。
蜘蛛足で串刺しにしようとストンピングが幾度と襲いかかる中を、転がって危うく回避していく。
転がった流れで膝立ちになりながら左の刀で蜘蛛腹に斬りつける。
硬質な蜘蛛足に阻まれた。
別の足に跳ね飛ばされる。
再度槍の様な蜘蛛足を突き出された。
腹を貫かれる。
鎧を容易く貫通していた。
両腕を蜘蛛足で串刺しにされる。
磔にされた状態で、大口を開けた怪物が迫る。
腕を喰われた。
足を喰われた。
腹を喰われた。
四肢を喰らわれ、激烈な痛みが奔る。
血だらけで、あっさりと死にかけた。
視界が変わる。
いつもの異能力が見せるビジョンだ。
――私は、お兄ちゃんを待っていた。
異能力者が世界を混乱に陥れて、なにもかもおかしくなっちゃって。
どこに行けばいいのかも分からなくて。
私は、家の自室のクローゼットの中で震えていた。
お兄ちゃんが帰って来るのを待っていた。
お兄ちゃんが助けてくれるのを待っていた。
「お兄ちゃん、早く帰って来て……」
丸まって頭を抱えて、真っ暗なクローゼットの隅に居る。
どれくらいそうしていただろう。
物音が聞こえた。
多分、玄関を開ける音だ。
「だれ……?」
階段を上る音。
「お兄、ちゃん……?」
恐怖と期待が綯い交ぜになりながら、ただ待った。
自分から出て行くのは、怖かった。
この部屋のドアが開けられる。
足音。
クローゼットの前で止まる。
ギイ、と音を立ててクローゼットが開けられて。
「……っ、お兄ちゃん!?」
お兄ちゃんが来た! と思った。
思いたかった。
絶望の中で一筋の希望が降りてきたと、信じたくてそう呼んだ。
「ミツケタ」
降りてきたのは、絶望だった。
金髪の、女の人。
だけど下半身が蜘蛛だった。
「いや、いやっ、いやあっ!」
押し倒されて、蜘蛛の下半身に圧し掛かられた。
上半身の女に掴みかかられる。
「お兄ちゃん助けてえっ!!」
助けて。
「いただきます」
肩を食べられた。
抉れて血が噴き出し溢れる。
「痛い痛い痛い痛いよう!!!」
涙が滂沱と流れ出てきた。
人を食べるなんてどうかしてる痛い痛い痛いいやだいやだいやだいやだあ!
「おいしい。おいしい。おいしい」
怪物はとても美味しそうに、顔を血で濡らしていた。
「助けて。助けて。助けてぇ……いやだ、いやだよぉ……」
腕が食べられる。手が食べられる。足が食べられる。お腹が食べられる。首が食べられる。
全身が生きたまま食べられていく。
……お兄ちゃん。
「あ……ああ……ああぁ……」
――呻き声を漏らしながら、明梨の体が痙攣している。
骨一本、肉片一片残らず明梨は喰い尽くされた。
俺はそれを、ずっと見ていた。
目を逸らさず、ずっと見ていた。
俺の妹は、生きながらに喰われたんだ。
――――。
やはりお前らは、俺の大切な人を殺し過ぎだ。
ビジョンから戻ってくる。
異能力のスイッチが切り替わり、栓が外れ溢れ噴き出る感覚。
全身から光が溢れ、衝撃波が圧し掛かるエレミオーラを吹き飛ばした。
喰われた体が再生していく。壊れた鎧が修復されていく。
立ち上がった。
失ったものが多い。失ったものは大きい。
全てを、取り戻せたらどれだけいい。
でも全部終わった後だ。取り戻せない。
どうして。
こいつらが、終わらせたからだ。
「美味しかった。とても美味しかった。貴方も、美味しい」
エレミオーラが初めて理性的な言葉を発した。
美味しかった、それは、明梨の事か。
「そうか、美味しかったか」
「美味しかった」
「殺してやる」
両の刀、その刀身に異能の力である光が纏わり付く。
全身からも白い光が立ち昇る。
踏み込み、前へ。
エレミオーラも同時に飛び掛かってきた。
蜘蛛足が縦横無尽に繰り出される。
刀を、振るった。
二刀を揮った。
エレミオーラの蜘蛛足八本全てを斬り落とした。
二本の腕、人間体の方のエレミオーラに抱きしめられる。
――その大口は緑の光を湛え、蓄え、増大していっている。
何かを放つつもりだと瞬時に悟る。
両手に持つ刀をエレミオーラに突き刺した。
血が噴き出す。
腕は解けない。
そのまま暴れる。
解けない。
自らの全身から純白の刃を生やした。
エレミオーラの全身はズタズタになった。
瀕死。
もうすぐにでもエレミオーラは死ぬ。
俺はエレミオーラを倒した。
――されど拘束は解けない。
時間切れ。
放出された。
感じる。悟る。知る。
エレミオーラが今まで喰らい溜め込んできたもの全てが解放されたと。
その破壊力は、惑星を破壊するほど。
その指向性は、余さず俺に向けられていた。
視界が緑に塗り潰される。
異能力が更に強化されている今でも、抗う術はなかった。
奴は、エレミオーラという異能力者は、強過ぎたのだ。
エレミオーラが事切れる。
同時。
俺の意識も消し飛んだ。
廃墟のビルの一室、円卓の間。
「やったやったっ。エレミオーラちゃんやってくれたっ」
碧花は大層喜んでいた。
エディフォン=ヴォルグマンと二人だけとなった森閑とした一室で、碧花の声だけが響く。
「もうゲームとか言ってられないもんね。はなは死んじゃ駄目なんだよ」
碧花は一剣太郎を危険過ぎると判断しエレミオーラをぶつけた。
「次行ってって頼んでよかったっ」
自分は安全に、一剣太郎を殺す為に。
「あのお兄さん、こわすぎだよ~」
「お兄さんとの遊びより、やっぱり綺麗なはなが生きてることの方が大切だよね~」
娯楽よりも、碧花は生存を望む。
退屈よりも、死を恐れるのが碧花という異能力者だった。
その狡猾さに、一剣太郎は敗北した。