1章1
暗闇。
深い深い暗闇に居た。
そして。
目覚める。
瞼を開く。視界が確保される。
見慣れた白い天井が見える。ここは俺が四人家族で住んでいる家の二階にある自室だ。そして俺は床にそのまま寝ていた。
体を起こす。長く床で寝すぎたように、体が硬く重い。
欠伸が出る。目を擦る。
ふと疑問。
俺は、何をしていた……?
頭が混乱する。時間間隔が狂う。狂っている。
寝る前の記憶と今が全く繋がっていない気がする。
いや、そもそも。
"寝たのか?"
落ち着いて、意識が目覚める前の記憶を辿ろう。
いつも通りに、高校生である俺は学校に通い、家に帰り、妹と遊び、勉強、予習復習をし、食事を摂り、風呂に入り、就寝、した、はず。
した、のか?
分からない。
分からなければ、手っ取り早く誰かに訊けばいい。
妹、明梨に訊くか、母さんか父さんか。誰でもいい、家にいる誰かに訊く。
部屋から出る為にまず立ち上がった。
そして、ようやく気づく。
この、俺の部屋に、俺以外の誰かが居た。
顔を右横、斜め下に向ける。
そこには、少女が座り込んでいた。
「……っ」
少なからず驚愕し、後退る。
見知らぬ少女だ。妹ではない。壁に凭れて四肢を投げ出している。
何故、という疑問よりも、魅入られた。
不思議、という言葉がこれほど当てはまる人物を初めて見たからだ。
髪色は、一色ではなかった。見る角度によって移り変わる、オーロラの様な、虹の様な長髪。今の角度では白髪に見える。
瞳も髪と同様、万華鏡の様に色が移ろっていた。今の角度からはエメラルドグリーンに見える。だがその瞳の焦点が合っていない。瞳孔も光を宿していない。
呼吸はしているようだが、微動だにせず弛緩した様子からは人間的な生気というものが感じられなかった。
驚愕が収まってくると、疑問が思考を席巻する。
何故見知らぬ少女が此処に居る?
明らかに普通ではない容姿の少女が、俺の部屋に居る理由。考えても、今ある情報では判断がつかない。
なら情報を得るだけだ。
「君は、何故此処に居るんだ?」
「…………」
無反応。聞こえていないのか、見えていないのか、はたまた反応が出来ないだけか。
「返事をしてくれないか」
少女の目の前にしゃがみ、目を合わせて大きめに声を発するが、返答はない。
肩を揺すっても、身動ぎ一つしない。
これは、今すぐのコミュニケーションは諦めた方がいいか。
不可思議極まりない存在だが、アプローチが意味を成さないのなら時間を浪費するだけだ。
――いや、待て。よく見ると。
「この子……もしかして奇跡か?」
奇跡、俺の友達の空城奇跡だ。俺には女子小学生の友達がいる。
しかしこのような不可思議な色合いをしてはいなかった筈だ。日本人で黒髪黒目の少女だった筈だ。その所為で今の今まで奇跡だと気づけなかった。
何故こんな事になっている。
分からない。
反応がないのだから本人に聞き出すことも出来ない。
思考を先の方に戻す。此処に留まるより、誰かに訊きに行く方が先決だろう。
部屋を出ようと立ち上が――
服が掴まれた。
振り向くと、奇跡が虚ろな瞳を向けて俺の服の袖を引っ張っていた。
「気がついたのか?」
「…………」
返答はない。けれど此方を向いて掴んでいる。
「ついてくるのか?」
「…………」
返答はない。
立ち上がってみた。すると、奇跡も立ち上がった。
足を踏み出すと、同じく足を踏み出した。
ついて行きたいようだ。
こちらとしてはこの部屋に一人残していくよりついてきて欲しかった。ならば是非もない。奇跡の手を握り、連れて行くことにした。
部屋を出て右隣にある妹の部屋のドアをノックした。
「明梨、いるか?」
言葉は返ってこない。
ドアノブを回してみると開いた。妹の部屋は無人だった。
階段を下りて廊下からリビングに入る。誰も居ない。
いつもなら、此処に家族は集まる。仕事に行っている時間なのだろうか。そこでふと気づく。そもそも今日は何日だ? いや、何月何日だ?
カレンダーを振り仰ぐ。
年代は記憶と同じ、月は、一月?
確認してもピンとこなかった。
テレビで日にちを確認しようとリモコンを手に取り電源ボタンを押す。点かない。テレビは点かなかった。
スマホで確認しようとポケットを探る。ない。スマホを探しにリビング、また二階に戻って歩き回る。だが見つからない。
ネットで確認しよう。パソコンの電源ボタンを何度押しても起動しない。
――どういうことだ。
静寂が支配する家に立ち尽くす。
違和感が増大していった。
奇跡の事といい、何かが確実に可笑しい。
その違和感に対して焦燥感が募ってくる。
とにかく確認しなければ、今は情報が欲しい。
奇跡の手を引いたまま、家を出た。
太陽の陽射し、熱くもなく、寒くもない。過ごしやすい気候だ。
歩き出す。歩いて行く。違和感は更に降り積もり堆くなっていく。
静か過ぎる。
誰も見当たらない。
町は、静寂に満ちていた。
音が、俺達の足音、息遣いしか聞こえない。
音が少なすぎて耳鳴りがする。
数十分は歩いた。見えるのは、住宅街、公園、俺の通う学校、その全てに人が見つけられなかった。
どういうことだ。
何処か、何処か、人は居ないのか。
冷や汗が垂れる。動悸が早くなる。もどかしさが限界値まで高まる。
何もかも分からない。奇跡が何故こんな状態なのか。何故人が一人も歩いていないのか。そして俺は何故記憶が混濁しているのか。
何も、分からない。
分からないんだ。
人に会いたい。
奇跡は反応を示してくれない。
話せる人、事情を教えてくれる人に会いたい。
探そう。まだ家の周辺を見て回っただけだ。何処かしらには人が居るだろう。例えこの町にすら居なかったとしても、町外、国外、何処かには。
「奇跡、人を探しに行こう」
返答は期待していない。ただ話しかける事には意味があると思った。
町の外に向けて進行方向を変えた、途端。
後ろに引っ張られる。
振り向くと、奇跡が握っている手を引っ張って俺の進行を止めていた。
まるで、行くなと言いたいかの様に。
「行ってはいけないのか?」
奇跡が、頷いた。
明確な意思表示反応を、目が覚めてから初めてしてくれた。
「奇跡が行きたくないのか?」
少女は頷く。
「俺は行ってもいいのか?」
首を振った。
「奇跡はここに俺と二人でいたいのか?」
不思議な色をした少女は頷いた。
今は桜色の髪とライトブルーの瞳に知覚する。
「なら、帰るか」
奇跡は頷く。
俺達は家に向けて歩き出した。
しばらくは奇跡とのコミュニケーションの進展に労力を費やしてみよう。
――――っ。
即座に振り向いた。
何もない、誰も居ない。
今。
視線を感じたような。
……気のせいか?
立ち止まり思索に耽っていると、奇跡に手を引かれた。
気のせいだろう。何の音も聞こえないのだから。
俺達は再度歩き出した。
家に帰り着いた。
とりあえず二階に上り自室に戻る。
奇跡は座った。俺も座った。
さてどうする。
ジッとしていても何にもならない。奇跡とどうにか話したい。
「そろそろ話してくれないか」
「…………」
今の角度では奇跡が赤髪紅眼に見える。
「無理なのか」
「…………」
水色髪黄色目。
「何故そうなった」
「…………」
茶髪黒目。
未だに瞳は光を宿さない。
それから何度も話しかけたが、進展はしなかった。
外が暗い、夜になってしまった。
そうして腹が減らない事に気づいた。
何故だ。
だが、人にとって食事というものは必要だろう。食事は人を人足らしめる一要素だ。
「何か食べるか?」
「…………」
金髪碧眼。
自室から出て、一階のダイニングに向かう。
キッチンの横にある冷蔵庫を開けた。肉やら卵やら野菜やらと、食材はある。俺の記憶としては元々これほど食材が入っていたかどうかは定かではない。
そんなことは今はどうでもいいか、あるのなら食べるだけだ。
豚肉とキャベツと卵を取り出し、調理を開始した。
完成した。
三つの食材を塩胡椒を振って炒めただけの、肉野菜炒め卵入りだ。俺はあまり料理をしない。
奇跡が動いてくれるのか分からなかったので、お盆に白米と水も載せて自室に戻る。
壁に背を預け座り込む少女の前に食事を置いた。俺も奇跡の前に座る。
料理を人に振る舞うのは初めてかもしれない。
「夕食だ。食べろ」
「…………」
奇跡は動かない。
悪くない香りを肉野菜炒めは発していると思う。けれど奇跡も俺が見ている限り今日は食事を摂っていないにも拘らず、全く腹の虫を鳴らさない、目の前に置かれた食事に目もくれない。
「食欲がないのか?」
「…………」
「それでも食事は摂っておいた方がいい」
「…………」
いくら話しかけようと食べてくれない。
「食べろ」
肉野菜炒めを箸で掴み奇跡の口まで持って行く。
そして奇跡の口を開けようと手を伸ばしかけた時、奇跡は口を開いた。
そこに食べ物を突っ込むと、食べた。
咀嚼している。飲み込んだ。
どうやら食べさせる事は出来そうだ。
俺達は奇妙な静寂の支配する部屋の中、食事を済ませていった。
――――寂れた廃墟と化した巨大なビル。
その一室である会議室に集う六人の存在。
円卓に皆座し、それぞれの様相を露わにしていた。
駒盤に駒が置かれる硬質な音が鳴る。
「新手だ。そう、新手なんだ」
赤髪の青年が声を発した。整った顔立ちをしているのにファッションが御座なりで、だらしのない格好をしている。
「異能力者は他に居ないはずですが」
応じたのは銀縁眼鏡を掛けた少年。青髪で紺色のブレザーを着ている。赤髪の青年と向かい合って座りチェスの駒を指に遊ばせていた。
「いや、あれは私たちとは違うと思う。殺意を持てるでしょ?」
黒髪をポニーテールに括った黒目の少女が口を挟んだ。一般的な少女が着ているような普通に可愛い服を身に纏い、ただ普通に座っている。
「アハハハハハハフヒヘヘハハハ殺戮殺戮生きる生きない生きていない活きる範囲内シュグルススグググググ」
意味不明な言葉を吐き散らしながら自らの腕を掻き毟る血走った目の女。
他の面々はいつもの事だと全く気にした様子を見せない。
「あのちっこいのと同じだ。どうやって現れた。もう誰も居ないはずだが」
赤髪の青年が疑問を呈す。
「分からないなあ」
「どうなんでしょうね」
普通の少女と眼鏡の少年がそう返した。
「クマさんクマさん魚さんを襲わないで仲良くしよ~♪ うん♪ 仲良くする~、仲良くなった~♪」
年端も行かぬ少女の声が響く。水色髪でふわふわとしたドレスを着ている小学生ほどの少女の手には熊と魚を模したぬいぐるみが掴まれていた。
「え~い」
水色の少女は唐突に鋏で熊と魚の人形を刺し、切り、捻じり、綿と布のガラクタへと変えていく。
「きゃはははははっ♪ ズタズタになった―死んだー♪」
無邪気に嬉しそうに笑う少女。笑顔は花の様。
これもいつも通りの光景なので、他の者は一切気にしない。
「まあ何でもいい。この退屈な日々にうんざりしてたところだ。なら、楽しまなきゃ損だよなあ」
「異論はないですが」
「私はどっちでもいいかな」
「はなもどうでもいいかなー♪ きゃははははっ♪」
「グムムンヌアハハゴボホホ殺す殺して笑い笑わない無く泣かない強いから」
赤髪の青年が言うと、それぞれの反応を返した。
「どうですかい」
赤髪の青年が問いながら振り向く、視線の先は部屋奥。
五対の視線がそちらへと集中する。
それを受け、終始泰然と黙し、部屋奥の上座に座していた壮年の男が口を開いた。
「好きにしろ」
ただ一言だけを発し、瞑目するブロンドの髪のスーツを着た壮年の男。髭が野放図に伸びているが、彼の賢者然としている様子から汚らしさは微塵も感じられない。
「よおし、これはゲームだ、楽しませろ」
リーダーの一言を受け、赤髪の青年は嬉々と口を歪ませ、身の毛もよだつ様な笑みを浮かべた。