第1章ー8 「晴香の決意」
目の前での出来事を認識するのに、少しばかりの時間を要した。
自身の身勝手で樹が大けがを負い、自分も殺されそうになっていた。突如樹が立ち上がり、手に持った刀が青く煌いた。そして、
気が付いたら、ジャイアントオークの身体には大穴が開いていた。
「————え?」
ひどくかすれた声が、口から洩れた。あまりのことに対応できず、体が置いてきぼりを食らう。
「神谷、くん?」
想い人の名を、この状況を作った張本人の名を呼ぶ。だがその声に返事はなく、突き技を発動した構えのまま、樹は硬直する。晴香の世界から音が消え、異様な沈黙があたりを支配する。チリチリと、刀身の周りに青い粒子が待っているだけだ。
ぐらり……。
不意に、樹の身体が傾く。あっと思った時にはすでに遅く、前のめりに地面へと倒れこむ。
「神谷くん⁉」
慌てて抱き起すも、樹は目を覚まさない。脱力した身体は想像以上に重く、上半身を持ち上げるのがやっとだ。だが——、
「熱っ⁉」
思わず、樹の身体を取り落としそうになる。晴香を襲ったのは、想像もしなかったほどの高熱。それも、常人が出すようなものとは一線を画すほどのものだった。優に四〇度は越しているだろう。さらに、傷口を見て驚愕する。
蒸気が出ていた。
一昔前の巨人漫画のように、晴香からは患部が見えなくなるほど蒸気が勢いよく吹出し、じゅうじゅうという焼けるような音を立てている。人間ができることではないその所業に、晴香は言葉を失う。
だが、それだけではなかった。腹部からの蒸気が少し治まると、そこには明らかに先ほどよりも縮小された傷口が。唖然としている今この間にも、筋肉が盛り上がり、血管が生まれ成長し、その上を皮膚が覆っていく。煙を上げる傷口がどんどんとふさがっていく。それに比例して、樹の身体が、少しずつ細くなっていた。
全く動くことができず、ただただ状況を見守ること数十秒……、
煙が消える。樹の身体からは、傷口がすっかり消えていた。
「……すぅ……すぅ……すぅ……」
耳を近づければ、少し浅いがしっかりとした呼吸音が聞こえる。これは、完治したと考えていいのだろうか。
「……………………」
意味が解らない、現実が呑み込めない、理解ができない。こんなことは人間ができることではない。いや、超速再生など、どんな生物であっても不可能だろう。一体、樹の身体で——、
——何が、起きてる、の?
唖然とし、そんなことを考えてしまう。もちろん、答えるものなどいない。
「……ォォォォォォオオオオ」
「⁉」
いや、いた。欲しかった答えではなく、恐怖の二文字を押し付けてくる怪物が一匹。
鼓膜を震わすうなり声に晴香が顔を上げれば、そこには動く物などなく、いるのは機能停止したオークがいるだけ。
……ピクリ。
そのオークの指が、致命傷の傷を負ったはずのオークの指が、かすかに動いた。それは見間違いなどではなく、
ピクリ、ピクリ……
何度も、何度も、痙攣とは違う動きを行う。その可動範囲は、数センチから数十センチへと、少しずつ広くなっていく。四肢の筋肉が動き出し、穴の開いた腹部はそれをふさごうと盛り上がる。だが、完全には塞げず血は止まらない。目は濁った光を取り戻し、開いた口からは血がしたたり落ちる。
「オオオオオオオオォォォォッ‼」
腹を貫かれてなお、致命傷を負ってもなお、晴香を、樹を握りつぶさんと右手が伸びる。逃げなきゃと、そう思ってはいるのだが、足が動くことを拒絶する。
——嫌、嫌、嫌!
拒絶はするも、身体が動かない。
——まだ、死にたくないっ‼
こんなところで死んでたまるか。こんな理不尽で死んでたまるか。まだまだやりたいこともあるのだ、お礼を言っていない人もいるのだ。それなのに、こんなところで死にたくない。
樹を抱き寄せ、ぎゅっと目をつぶる。だが、そんなことをしてもここから逃げられるわけではない。オークの手が近づく。晴香と樹を握りつぶさんと迫る。
一メートル、〇・八メートル、〇・六メートル、〇・四メートル————、
「それは感心しないな」
少年の声が響いた。
刹那、
衝撃が、晴香たちを襲った。続いて耳に届いたのは、メキメキと何かがきしみを上げる音。そのコンマ数秒後、オークの悲鳴じみた叫びが耳をつんざく。
目を開ければそこには、騎士がいた。
歳は晴香たちと同じくらいか、それより少し年上。純白のマントと鎧を身に着け、腰にはバランスを崩すほどの大剣が取り付けられている。短く切られた金髪の髪をなびかせ、少年は体勢そのままこちらを振り向く。
「やあ、無事だろうか」
「………………」
声が出ない、言葉が出ない、またもや現実から置き去りを食らう。
「もう大丈夫だ。我々騎士団が、君たちを守る」
晴香を見て問題なしと判断したのか、少年は苦笑しオークへと向き直る。
少年の顔を確認するや否や、オークは激情の声をとどろかせた。鼓膜が破れるほどの声量に、思わず耳をふさぐ。
「無駄だよ。そんな力じゃ、僕は倒せない」
ギリリと、力の均衡が崩れる。少年の手がオークの手に食い込み、出てはいけない音を響かせる。
「君を相手に、剣を抜く必要はない」
バキンッ!
オークの手首から、何かがへし折れた音がした。
「————————ッ⁉」
声にならない悲鳴が、大気を震わす。拳を押さえ、オークは数歩後ろに下がる。
「ありがとう、後ろに下がってくれて。これで僕も——」
「——加減なしで戦える」
少年が消えた。そう錯覚してしまうほどの、目では追えない速度で前に踏み込んだのだ。現に今、少年の拳はたたらを踏んだオークの顎を下からとらえていた。
オークの首が、垂直に跳ね上げられる。激しく脳を揺さぶられ、オークの足元がふらつく。その足元を、少年が蹴り払った。
支えるものを失った巨体が、大きく後ろに傾く。脳震盪を起こしているため、手をつくことすらもできない。自分が倒れかかっていることすら気づいてはいないのかもしれない。
「後は頼みますよ。ミレーナ様」
言うが早いか、巨体が燃え上がった。
何かで炙られているのではなく、オークの体そのものが燃料となり発火している。それゆえに、自力で火を消すことが出来ない。
オークが悲鳴を上げる。消せない火を消そうと、必死にもがく。
「さあ、ルナ。魔法の試験だ」
「はい」
「⁉」
気づけば、二人の人間が晴香の隣に立っていた。片方は銀髪の少女、もう片方は髪色の判別はできないが長髪の女性。
少女が両手を前に突き出す。掌が、立ち上がったオークを正面にとらえる。
「アーク・ウィル・ステェートゥ——」
少女が詠唱を始める。両掌の前に揺らぎが生まれ、透明な球体が生成される。それは詠唱を進めるごとに、どんどん大きく、回転を増す。この技を、晴香は知っている。
「——レイス!」
《ブレイク・ショック》風系統の高ランク魔法だ。
オークがこちらをにらみつけ、補足する。
詠唱が終わると同時に、爆風をまき散らして風玉がオークめがけて直進する。
最後の力を振り絞り、走り出す。
肥大することなく、高出力を保ったままそれは直進し、
爆散した。
解放された風玉は、強力な衝撃波を与えた後、すさまじいほどの上昇気流へと変化する。周りの木が根っ子ごと持ち上げられるような風の檻にオークを監禁し、火を巻き込んで火災旋風となる。
すべてが収まり、視界が晴れた時、
オークは、立ったまま絶命していた。
「……さて」
それを確認した少女はほっと息をつき、女性は足元にいる晴香の方へと視線を向ける。
「その少年を私の家へ連れていく。君もついてきなさい」
「あ、え————……」
「大丈夫、結界が張ってあるから、変な奴らは入ってこれないよ。もちろん、魔獣も」
少年にまでそう言われては、晴香には選択肢などなかった。
◆◆
「飲んで。温まるから」
「う、うん」
「大丈夫。変なものは入れてないから」
「あ、ありがとう」
苦笑とともにそこまで断言され、おずおずとではあるが、銀髪の少女から差し出されたココア色の液体を受け取る。一口含み、こくりと飲み込むのを見届けると、少女は優しげに微笑む。
「……甘い」
口に含んだ瞬間、甘未がやさしく舌をなでる。飲み込めば、もう一口ほしくなってしまうような名残惜しい風味が口内に残る。砂糖のような活発的な甘味かと思えばそうでもなく、どちらかといえばミルクなどの自然の甘味に近いか。
「ミルガっていう飲み物なんだ。私のお気に入り」
害はないよと言わんばかりに、少女も同じものをコップに注ぎ飲み込む。顔がほころんでいて、嘘をついているわけでもなさそうだ。
ミルガが冗談抜きでおいしかったため、会話を忘れしばらくはその味を堪能してしまう。一いくら飲んでも飽きないその味は、一口ごとに氷のように凝り固まった何かを、温かく優しく溶かし崩していく。
「あ、あの、えーと」
「ルナ」
「ルナさん。さっきはその……ありがとう」
「ううん、いいよ。私が進んで、助けろって言ったわけでもないし。お礼なら、ミレーナさんに言って」
「でも、それじゃあわたしの気が収まらないから。それと、神谷くんの分も、ありがとう」
「そっか。それじゃあ、ありがたくもらっとくね。どういたしまして」
ニカっと、ルナと名乗った同年代の少女は明るい笑みを浮かべ、ばさりとフードを下ろす。ルナの頭についていたものを目にし、晴香は言葉を失う。
耳だ。それも、明らかに人間のものではない耳だ。
銀色の髪と同じ、銀色の耳。それはすこしとがっており、動物園でよく見る狼のような形をしていた。
「ああ、これ? 私は人狼族だから、ハルカとは少し違うね。怖がっちゃったらいけないと思って隠してたんだけど、隠そうか?」
「ううん、別に大丈夫! ごめん、ちょっとびっくりしちゃっただけだから」
「そっか、ならよかった。ミレーナさんたちも全く気にしないから、つい慣れちゃってて。驚かせてごめん」
気まずいような雰囲気と、申し訳なさそうな感情を混ぜたような顔をして、ルナは頬をかく。話し方と内容から察するに、彼女は快活というより結構さばさばした性格なのかもしれない。
だが見た目の割には落ち着いており、ひょっとしたら晴香より年上なのかも。だとしたら、敬語は使うべきだったかもしれないといまさらながら不安になる。
「ミレーナさんって、むこうで話している人?」
「そう、私の親兼お師匠様。魔法を教えてもらってるんだ」
「…………魔法」
魔法――その単語が当たり前のように出たことに、解っていても戸惑ってしまう。その魔法を、物理法則を超越した奇跡を目の当たりにし、ここが異世界なのだと認識してもそれはどうしようもない。知識が、経験が、常識が、何より晴香の心が、現実として受け入れることを拒絶する。
「? ……どうしたの?」
晴香の違和感に気が付き、ルナが口を開いたところで、
「すまない、遅くなった」
ひとりの女性——ルナがミレーナと呼ぶ――が入室してきた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。スレンダーな体形で、少し隈が入ってはいるが声には覇気があり背筋もまっすぐ伸びているため全体的には健康に見える。肩まであろう長い髪を荒くまとめており、研究者……それも研究一筋あとは知らん、な性格の人間という印象を受ける。
あと、すっごい美人。
「ルナからの紹介通り、私がミレーナだ。一応研究者……という立場だ。君は……ハルカ、でよかったかな?」
雑な自己紹介の後、椅子を引いて座りながらミレーナが尋ねる。
「はい。雨宮 晴香です」
「アマミヤ ハルカね、了解した」
「ミレーナさん、自分の紹介雑くないですか?」
「他は君が言ってるだろう。何か付け足すことでもあったか?」
「いえ、ないですけど……」
「じゃあ、問題ない」
ルナが腑に落ちないような、納得いかないような表情を浮かべ、それを見てからからとミレーナが笑う。性格は、ルナ落ち着かせて年齢をそのまま上げたような性格。それが、二人が一緒の時間を過ごしてきたことを連想させる。
「ミレーナさん」
「うん?」
「先ほどは、わたしたちを助けていただきありがとうございました!」
立ち上がり、腰を折って頭を下げる。二人はすこし面食らったのか一瞬沈黙が下り、続いて二人が同時に苦笑したのが解った。
「わたしたち……か、君は優しいな。いいえ、どういたしまして」
顔を上げれば、ミレーナは優しそうな笑みを浮かべながらこちらを見ていた。
「あの子については心配しなくていい。痕は残ってしまうだろうが、傷口もふさがっているし、呼吸も安定している。もう一、二日で目を覚ますだろう」
それを聞いて、安堵し大きく息をつく。一気に身体の力が抜け、椅子に座り込み背もたれに倒れかかる。晴香の姿を見て、ルナとミレーナが再び笑みを浮かべる。
「さあ、そうと解れば話してくれ。君たちがなぜあそこにいたのか」
◆◇
「二日⁉」
晴香たちの身の上を話し始めてすぐ、ルナが驚愕の表情を浮かべ、続いてそれはあきれを含んだものへと変わっていく。
「よく無事だったね」
「えーと……けっこう危険だった、とか?」
「魔術師、魔法士——いわゆる戦闘職という者でなければ、自殺行為だな。普通なら一日と持たん。君が遭遇したジャイアント・オークなんかは、そこらの戦闘職でも単独ではまず死ぬ」
冷や汗が流れた。まさか、あの状態がとてつもなく危険な状態だったとは思いもよらなかったのだ。騎士とミレーナがあの場に駆け付けたことが最高の幸運だったらしい。
……だが、だとしたら――、
頭の中に、樹以外の仲間の姿が浮かぶ。
「ミレーナさん。私たち以外には、誰かと会いましたか?」
「……いや、私が見つけたのは君たち二人だけだ。騎士たちからも、他の人間がいたなんて情報は来ていない」
「そう、ですか」
「君たちは運がよかったのさ」
ミレーナは、隠しも誤魔化しもしなかった。目をそらさず、ひと言ひと言ただ誠実に、晴香に真実だけを伝えた。全滅したという言葉を避けたのは、研究者として確証のないことを言いたくはなかったのか、それとも彼女なりの優しさだったのか。
見つけていない。その言葉は、この状況下では生存は絶望的であると言っているに他ならない。晴香たちの力では、あの山での製造は不可能だ。見つかっていないのならもう、いや、たとえ仮に生きていたとしても、これから生き残ることは難しい。どっちにしろ、絶望的だ。はっきりとそう解り、晴香は動揺を隠せない。
あの後、彼らはどうなったのだろう。一撃でやられたのだろうか、それともキリストを売ったユダのように、あのジャイアント・オークにかみ砕かれたのだろうか。それとも、今なお生き延び、死の恐怖に耐えながら、森をさまよっているのだろうか。
キャンプにいる人たちはどうなったのだろう。火を焚いていれば見つけられるかもしれないが、その報告もないということはつまり。
…………。
……………………。
…………………………………。
「……話は、明日にしよう」
唐突に、ミレーナがそう言った。
「いえ、でもっ」
「ひどい顔だ。今夜はゆっくり眠った方がいい」
自分が、震えていることにようやく気が付いた。
呼吸も荒く、手のひらで指を握れば氷のように冷たい。寒気もしているし、どうやら相当参っていたようだ。
「お風呂、案内してあげる」
ルナがそう言って、晴香の手を握った。ミレーナに一礼し、引かれるままに晴香は歩を進める。
外見からは想像できないほどの長い廊下を進む。その間も、ルナは晴香の手を離さない。
手を握るルナの手は、晴香を包み込む女の子としては硬いその手は、
温かく、どうしようもないほど優しかった。
◆◇
「はふぅぅぅ~~~~…………」
木造の浴槽に溜められた、白く濁った乳白色の湯。人肌よりも少し熱めに焚かれた湯に、全身を包み込まれることから生まれた言いようのない安心感と心地よさから、思わずそんな声が絞り出される。
何気なく両手で湯をすくってみれば、乳白色の液体は両手の溝からこぼれ落ち、ちゃぷり、という音を立てて水面を揺らす。
まさか、こんなところでお風呂に入れるなんて……と、心地よさから遠ざかる意識を何とか引き止めながら、しみじみと思う。
「着替えは後で持ってくるから」そうルナに言われて、半ば強引に衣服を剥かれ浴室に入れば、そこには並々と湯が張られた浴槽が……。あまりの嬉しさに、ボロボロの格好のままルナに抱き着いてしまったほどだ。
「魔法……か……」
湯船に深く浸かり、ポツリと、そう呟く。
樹が発動した剣戟スキル、そしてルナが放った風魔法 《ブレイク・ショック》。どちらも 《カリバー・ロンド》に実装されていた攻撃スキルで、発動効果も似通ったものであった。ルナ曰く、あれがこの世界での攻撃手段らしい。
なぜ、この世界の魔法が、《カリバー・ロンド》と全く同じものなのか。もしかしたら、《カリバー・ロンド》の魔法が、こちらのものを模倣したものなのではないか。だとしたら、ゲーム制作者はこの情報を、どこから手に入れたのか。そして、なぜこの世界では部外者の樹が、その技を使えたのか。まあ、いくら考えても、答えなど解るはずがないのだが。
目をつむり、浴槽の中で足を抱える。温かいはずなのに、体が震えるような感覚に陥る。
オークに襲われた時の光景が、瞼の裏に投影される。続いて、幸運にも避けられた未来が、おぼろげながらに浮かぶ。
もしあの時、樹が立ち上がらなかったら……
かみ砕かれるのか、叩き潰されるのかは解らないが、間違いなく、晴香は死んでいただろう。いや、それ以前に、あの状態に持って行ってしまった張本人は他でもない晴香自身だ。二人なら逃げられた可能性を捨て、樹の生命を危機にさらし、あまつさえ樹に助けられる。間抜けだと、役立たずだと、疫病神だと呼ばずして何と呼ぶ。
そして質の悪いことに、あの時とった行動が間違っているとはどうしても思えない。
生き残ることを考えるのなら、あの場で飯田を見捨てるのが最善だっただろう。事実、自身の生命を危機にさらすような状況なら、見捨てるという消極的な行為は法律で認められている。
樹なら、間違いなくそうしただろう。余裕さえあれば、晴香を飯田から引きはがして連れて行っただろう。しかも、それは晴香のためであって自分のためではない。だから責められない、文句も言えない、言ったところで筋違い。
そして、どうしようもなくなれば、樹自身が身代わりとなるだろう。
寒気がする。
あの、狂気的なまでの自己犠牲を、
拒絶する。
樹のいない未来を、
恐怖する。
死の原因が、自分となることを、
「………………」
天井からの水滴で、波紋ができる水面をぼうっと眺める。
樹に抱いているのは、大半が好意という感情だ。関係ないというスタンスを貫きながらも、身内認定した人物のトラブルは、頼まれれば何があっても解決する。彼を知る者の中に、彼を否定する人物はいない。もちろん、晴香もその一人だ。
だが、好意になる前の感情は、普通の高校生が抱くようなものではなかっただろう。
端的に言えば、危機感……だろうか。
樹は、ドライな人間だ。功績を誇ることもなく、見返りに何を求めるものでもない。だからこそ、その成果が明るみになることはほとんどなく、接点のない者からは烈火のごとく嫌われている。それでいいと、彼は納得している。
まるで、自分にかかわる人間を減らしているかのように、そう感じる。結果に伴う副産物が猛毒とまで言えるのも、その考えに信ぴょう性が増す要因だ。
進んで自分を壊しているようにしか、いっそ誰かに壊してくれと言っているようにしか思えない。
理解できなかった、彼の行動原理が。知ってしまった、彼の過去を。恐怖してしまった、彼が考えていることに思い至って。
樹は、贖罪のつもりなのだろう。自分なんかが幸せになってはいけないと、助けられなかった自分にその権利はないと、心の底からそう思っているのだろう。
彼の優しさを知ってしまったから、彼が壊れてしまう瞬間を見てしまうのが恐ろしくなった。そして、その瞬間はそう遠くないと悟ってしまった。
だからこそ、一緒にいた。
どれだけ突き放されても、どれほど拒まれても、あきらめてやるもんかと意固地になった。おせっかいな性格がここで役に立った。最終的に、今のままでいいよとまで樹に言わせたのだ。言いようのない達成感とともに、ふと自分の気持ちを覗いてみたら、
晴香は、樹に恋をしていた。
じゃぶりと、両手を前に突き出し水をかく。
今の状態が、吊り橋効果も含んでいることは否定しない。現実世界なら、ここまで樹のことを考えはしなかっただろう――とも言えないが……。
好きだからこそ、一緒にいたいと思うからこそ、怖い。
樹が死んでしまうことが。なにより、
その原因が、晴香であることが。
ルナ曰く、魔法の素質は万人にあるらしい。使えないのは、師匠に恵まれていないことが大きな原因なのだと。ならば、だとすれば、自分も使えるのだろうか。
自分の性格が変えられないことは、樹からも太鼓判を押されている。それに、この性格が嫌いなわけでもない。飯田の件も、あの行動に関しては何ら悪いこととは思っていない。後悔しているのは、何の力もなかったことだ。だとすれば、力を持てばいい。
「よしっ」
ざばんっと勢いよく立ち上がり、湯をかき分けて浴槽から出る。ルナが用意してくれた服を着て、髪が乾くのも待たずに廊下を進む。
——いた。
ミレーナは、先ほどの居間にいた。晴香の姿を認め、いささか驚いたように目を見開いた後、納得したように微笑んだ。
「お風呂、いただきました」
「そうか。落ち着いたかい?」
「はい。さっきよりだいぶマシになりました」
そこで、口をつぐむ。一瞬の逡巡の後、再び口を開く。
人は、簡単に死ぬ。
強かった人が、死ぬはずがないと思っていた人が、いともたやすく退場する。
いま、ようやく解った。
そんな感情は、安心感は、単なる虚像に過ぎない。ひどく身勝手な妄想に過ぎないのだと。つかもうとすれば消えてしまう、実体のない幻想なのだと。
あの神谷 樹でさえ、ゲーム内ではトップクラスの実力をもつ彼でさえ、現実ではむしろ、常人よりも少し非力な少年に過ぎないのだ。
恐ろしい。
神谷樹は、必ず無茶をする。いままで通りのことを、反射的に行ってしまうだろう。だが、ここはゲームではない。
そんなことをすればどうなるかなど、目に見えている。
——守らなくては。
頼っていてはダメだ。くよくよしていてはダメだ。そんなことをして入れば、今度は彼がどこかに行ってしまう。
守らなくては。
もう、これ以上傷つかないように。
守らなくては。
わたしの想い人を、失わないように。
「ミレーナさん。お願いがあります」
「うん?」
目が覚めれば、樹のとる行動はなんとなく読める。だとしたら、今のままでは対等に渡り合えない。もう大丈夫なのだと、信じてくれなどとは、口が裂けても言えない。
「わたしに—————」
今度は、わたしが——。