第1章ー7 「異世界の牙」
またまた難産でした。ですが、ボリュームは多いですよ。
空に、赤い煙が見えた。
赤い発光体が、同じく赤い煙をまき散らしながら空高くを昇っていた。間違えようもない、あれは信号弾の光だ。
全員が、再度固まる。
「緊急事態! キャンプに戻るぞ!」
後藤が声を張り上げる。
大柄の男性が青年を担ぎ、真っ先に元来た道を戻り始める。それに続いて、他の仲間たちも山を駆け下り始める。雨宮の手を引き、俺も歩き出す。
助けには、行かない。もともとそのための信号弾だ。
怪我や事故なら、青の信号を上げることとなっている。赤ということは、何か事故とは別の命の機器にさらされたということなのだ。そんなところに、俺たちが行ったところで何もできない。むしろ、俺たちにまで危害が加わる。赤の信号弾は、逃げろという合図なのだ。他の班からの、命を燃やした合図なのだ。それを無視できるものか。
だが、
「————?」
不意に、影が身体をおおった。同時に、首元を撫でられるようなあの嫌な感覚が、俺の身体を駆け抜ける。思わず、身体が動きを止める。
木の幹が、空を舞っていた。
いや、正確には木の幹ではない。なぜならそれは、持ちやすいように一部分を削るといった人為的な加工が施されていたのだから。この場合、あれはこん棒と呼ぶのが正しいのではないか。
訂正しよう。こん棒が舞っている。俺たちの身長よりも大きい——長さも、太さも、おおよそ人が扱うものではないそれが、放物線を描きながら頭上を通過していく。
次の瞬間、ズドンという音と共に地面が揺れ、土煙が舞った。
茶色い煙が一斉に広がる。あちこちから悲鳴が上がる。
「おえっ——えほっ、えほっ、えほっ」
舞い上がった砂が、身体にぶつかる。とっさに顔を隠すが、すき間をぬって入り込んだ砂が肺に侵入し、大きくせき込む。
だんだんと、砂ぼこりが晴れる。視界から、茶色い砂の幕が消えていく。
すぐ近くに、こん棒がめり込んでいた。
「「…………………」」
共に言葉を失う。状況が理解できず、身体が完全に止まる。
赤黒く塗装され、さらに真っ赤な液体が滴るこん棒。人間が扱うにはどう考えても無理な代物。それが、俺たちの道をふさいでいた。
突然の状況に、思考が停止する。頭の中が真っ白に染まり、目の前に広がる重要証拠が脳に入って抜けていく。
一秒、二秒、三秒、四秒…………。
「遠藤ぉぉぉぉぉおおお⁉」
叫び声が、木霊した。その声で思考が再開し、この状況が最悪なものということをようやく理解した。
あそこには、ついさっきまで怪我人を担いだ人がいた。そしていま、彼らのいるはずの場所には巨大なこん棒が。そして、周りには赤い液体を伴った大小さまざまな何かの塊が、そこかしこに散らばっている。
確証はない、信じたくもない。だが、この状況から考えて、そうなのだろう。
あの赤いものは鮮血、周りに散らばる塊は彼らの残骸。
彼らは、ここで命を落としたのだ。
「————全員散れぇぇぇぇぇええええ‼」
後藤の声が響き渡る。聞くや否や、俺は雨宮の手を強引に引き森の中へと飛び込む。道なんてない、だがここにいれば確実に死ぬ。
遠くへ、遠くへ、少しでも遠くへ——!
——ブオオオォォォォ————ッッッ!
人のものではない雄たけびが、知性を持つものが上げるはずのない咆哮が、すぐ後ろで木霊する。地響きと悲鳴が、鼓膜だけでなく全身に突き刺さる。ごめん、ごめんと詫びながら、ひたすら森の中を走る。
走る雨宮が、嗚咽をこらえながら走る。零れ落ちる涙を必死にぬぐい、俺の後に続く。
ひときわ大きい咆哮が、森中に響き渡った。
◇◆
「はぁ……はぁ……はぁ……」
「はぁ……はぁ……はぁ……はぁ……」
大樹を背もたれにし、荒く息をつく。気を抜けば胃の中のものを全部戻してしまいそうで、絞り出すように呼吸する。
肺が悲鳴を上げている。心臓は破裂しそうなほど鼓動し、全身の細胞に酸素を送る。それでも間に合わず、身体のあちこちが酸素を求め喘ぐ。ドクリッ、ドクリッと、こめかみの血管が脈を打ち、身体中が熱い。
「はぁ……はぁ……うぇっ」
青い顔をして、雨宮がえづく。背中をさすりながら、俺も木にもたれかかり呼吸を整える。若いことが幸いしたのか、十分かそこらで、呼吸が安定し始める。思考に回す酸素を確保できるようになる。考えるのは、先ほどのことだ。
さっき、人が死んだ。
土煙で見えなかったが、間違いなく人が死んだ。さっきまで青年を担いでいた遠藤という人物が、青年と共にこん棒に潰された。
周りに広がる肉塊と、円状に広がった血しぶき。その中心にはこん棒がめり込んでいて、そこにも鮮血が飛び散っていた。いま思えば、赤黒い塗装はこれまでに殺された誰かの血なのではないだろうか。これほどのことが起こっているのに、何もなかったというのはないだろう。それから、確信したことが一つ。
ここは、仮想空間じゃない————。
いまなら言える。はっきりと断言できる。なぜなら、技術的に不可能なのだから。
VR技術は人類が到達できる進化の究極型だ。半身不随の子たちが自由に走り回れる場所となり、叶えることのできなかった夢を体験できる世界となった。一生寝たきりの人や終末医療患者にとっても、そこは自分の障害を忘れられる唯一の世界だ。究極——人類が到達したいと願い、半ば不可能と謳われていた文句だ。
だが、究極故にその先はない。
システムの構造上、プログラムの構造上、仮想世界の解像度を二〇四二年現在以上に上げることは不可能。それがはっきりと示されたのは、VR技術が開発されてすぐのことだった。
これ以上の解像度は望めない。これ以上高性能の物理エンジンは搭載できない。
二〇年かけて、人類は進化の終着点に到達してしまった。だからこそ、VR世界にはこれ以上の発展はない。
そして、今現在において、先ほどのようなグラフィックは再現不可能。何かが飛び散る瞬間、何かが飛び散った後の残骸、この二つはそれぞれ別の演算を使用する。VR空間に接続できる回路は技術上ひとつ。グラフィック化すれば必ずラグが生まれる。あんな高解像度なものは再現できない。
だとすれば、だとするならば、
この世界は間違いなく————、
「さっきの、何?」
思考を遮ったのは、雨宮の声だった。息は落ち着いたようで、肩は上下していない。体育座りで顔をうずめ、ポツリとそう呟いた。
「……解らない」
「だよね」
「…………」
「ねえ」
「ん?」
「ここ……ゲームのなかじゃないよね」
「そう、みたいだな」
驚くほど淡々と、会話が進む。お互い、たいしたリアクションもしない。というより、俺の方はできないだけだが。喜怒哀楽、すべて含んではいるのだろうが、どう表現すればいいのかが解らない。感情が麻痺しているというのはこのことを言うのか。
「後藤さんたち、無事かな?」
「無事だ」
「?」
「無事だ、きっと……」
気が付けば、むきになるようにそう答えていた。その答え方に、雨宮が目を丸くしている。自分でも驚く。一瞬の後、その理由がなんとなく解った。
おそらく、俺がそう信じたいのだろう。あの人たちは生きていて、ちゃんとキャンプに戻っている。あれが最善の方法だったのだ、俺がいなくても何とかなった、そう確信したかったのだ。
俺が逃げたことを、正当化するために。
もしかしたら、自分の思考を一番客観視できるのはこんな状況なのだろうか。驚くほどすんなりと、自身の思考を観察できる。ああ、つくづく自分が嫌になる。
「そう、だよね」
その思いには気づくはずもなく、雨宮はなんとか笑みを浮かべる。
「じゃあ、わたしたちもできることやろうよ」
よしっ、という掛け声と共に立ち上がり服についた泥を掃う。その図太さに驚愕する。
まだ顔は青い。声が少し震えていることからも、万全ではないことが伝わってくる。それでも、雨宮は立ち止まらなかった、前に進むことを選んだ。本当に、何が雨宮をそうまでさせるのか。
割り切ったというのが本当なのだと、場違いにもこの場で実感した。
◆◇
辺りを散策したところ、すぐ近くに丸く開けた場所が見つかった。薄暗いのも、嫌な雰囲気なのも相変わらず。だが、ひとつだけさっきまでとは違う部分があった。
「これは……馬車?」
「——の残骸だろうな。だいぶ時間が経ってる、苔も生えてるし」
苔が生え、色が変わり、いくつもの切れ込みが入ったソレは、いまにも崩れ落ちそうな様子で目の前にたたずんでいた。
雨宮が恐々とソレに触れる。俺の読みは当たっていたようで、雨宮が触れた側から馬車らしき何かはボロボロと崩れ、木くずへとなり果てる。
「うへぇ」
「……でもこいつは新しいしなぁ」
ばっちぃ物を触り、しかめっ面で拭う雨宮をしり目に。折れた剣を拾い上げ、呟く。
拾い上げた剣は、中ほどからぽっきり通れていた。しかし、その表面にはまだ金属光沢が見られ、さっきの残骸のように年代物とは到底思えない。そのアンバランスさに首をかしげながら、周りを見渡す。
有り体に言えば、剣の墓場だった。
大剣、片手直剣、短剣、細剣——大小さまざまな刃物が放射状に散らばり、地面に突き刺さっている。中にはさびたものも含まれてはいるが、見た限りではそのほとんどがまだ光沢を残しており、新しいものではないかと推測される。そして、そこに寄り添うように掛けられた革製の装備品。
俺たちが見つけたのは、人工物。
それもただの人工物ではなく、戦うことを目的とし、相手を殺すことだけを追求したもの。それでいて、いまの日本では使う機械などまずない代物。簡単に言えば、異世界産の人工物だった。
「これ、折れてるのって……」
「多分、さっきのあいつだろうな。戦って死んだんだ」
「ここは……お墓、かな?」
「だろうな」
遺体がないなら、回収できないのなら、せめて墓でも作っていこう。ここに眠る戦士の戦友たちは、そう考えたのだろうか。折れた剣と、そこについてた皮防具を元の位置に戻し、黙とうする。雨宮もそれに倣い、しゃがみ込み手を合わせる。
「文明レベルは、中世くらいか」
「でも、十三世紀には銃があったから、もしかしたらもっと前かも」
「だったら、敵わないわな」
こくりと、雨宮もうなずく。
俺たちを襲ってきた何かの正体は見ていない。だがあのこん棒から察するに、人間よりはるかに巨体で、それなりの知能は持っていると考えるのが妥当だろう。だとすれば、それは人間の力じゃ太刀打ちできない。有効打すらも与えられない。
それは闘いと言わない、はっきり言って蹂躙、ないしは捕食というのがふさわしい。想像してしまったのか、雨宮の表情は暗い。沈黙が下りる。そのとき——、
「……⁉」
ピクリと、雨宮の肩がはねた。
「どうした——「しっ!」」
俺の口をふさぎ、黙ってろと目で訴えかける。その後、雨宮が目をつむり耳を澄ます。
「……やっぱり、聞こえる」
「なにが?」
「何かの声。さるぐつわされた人が出すような声」
「は?」
「あっち!」
そう言って、向かって左側の茂みの中へと飛び込む。離れるわけにもいかないため、雨宮を追いかける。
雨宮の勘違いではないことが、すぐに解った。
——————。————! —————ッ‼
茂みに近づくにつれて、何か籠ったような音が聞こえだした。機械が発するような規則的なものでもない。もっとこう、生物的な不規則さを感じる。
「神谷くん! 人!」
先に茂みの中へと入っていた雨宮の言葉に、俺の足も早まる。
「神谷くん、持ち、あ、げて」
そこには、ひとりの青年がいた。
俺のいるところから数歩先が小さな段となっており、その下に雨宮がいる。そこに青年は落ちていたようで、それを雨宮が段の上へと上げようとしている。身体はロープで拘束されており、外せないとあきらめたようだ。
「雨宮は上に上がれ! 俺が下から持ち上げる」
「解った!」
◇◆
「クソッ、クソッ、クソッ、あいつら、俺置いて逃げやがって」
助けた男は、飯田だった。泥だらけになった金髪を掻きむしり、与えた水と食料を乱暴にあおる。口から出るのは、この場にいない、自分を置いて行ったという仲間への悪態ばかり。正直言って、聞いていてあまり気持ちのいいものではない。
「それでよ、俺たちはここに着いたら捕まっちまったんだよ」
「誰に?」
「武器持った奴らだ。そいつらが俺たちを殴って縛り上げた」
「なぜ?」
「俺が知るか! 訳わかんねぇ言葉しゃべるしよ。俺が何したってんだ」
相当腹が立っているのか、質問すると、飯田は噛みつくように答える。ちなみに、俺は敬語を使っていない。使う気になる相手ではなかった。
「テリトリーに勝手に入ったから捕まえた……とか?」
「それが近いだろうな。——で、そのあとは?」
「ああ? それから————」
ここで、変化が起こった。
先ほどまで、自分の周り全てへの恨み辛みを吐きながらしゃべっていた飯田の言葉が、だんだんと小さくなる。
言葉は途切れ途切れになり、間が開くようになり、会話中に何かを思い出す動作をとり始め、ついに言葉が止まる。
「それからー……えーっとー……ダメだ」
「何が?」
「覚えてねぇんだよ」
「覚えてない?」
「おお」
どうやら、飯田の記憶は昨日の夜までで途絶えているらしい。苛立たしく金髪を掻きむしりながら記憶を探ってはいるようだが、どうあがいても出てこないようだ。土手から落ちたときのショックが原因だろうか。飯田だけがここにいるということは、飯田を取らえた奴らはどこに行ったのだろうか。
「で? これからどうすんだよ。あそこ戻んのか?」
「おあいにく様、こっちも遭難した身」
「チッ、使えねぇ」
あんまりな態度に、雨宮の顔が険しくなる。そして、まともに相手をしても仕方がないと思ったのか、視線を外して俺へと耳打ちする。
「どうするの? 神谷くん」
「選択肢は二つ。ひとつは頂上を目指してそこからキャンプに向かって降りる。もうひとつは、この場に残る。これだけ手が加えられてるなら、もしかしたら誰かが来るかもしれない。確証はできないけど」
「でも、歩き回ったらアレに会っちゃうかも」
「それも否定できない。まあ、ここにいても同じかもしれないけど」
「そうだよね……どうしようか」
「————残る……残る? 冗談じゃねぇ、冗談じゃねぇぞ‼」
「「⁉」」
突如、飯田が大声を上げた。
「ここに残るなんて冗談じゃねぇ! おい、お前ら! 俺は絶対ここにはいないからな!」
落ち着かせようとする手を振り払い、よだれが垂れているのも構わず飯田は怒鳴り続ける。よく見れば焦点は定まっておらず、息も荒い。身体が震えており、顔は青く、顔からは滝のような汗が流れ続けている。どう見ても普通じゃない。
「おい、何隠してる!」
「あいつが来るんだよ⁉」
「あいつ……」
「そうだ、俺以外みんなあいつに食われた! 思い出した、思い出した! こんなとこいたくねぇ‼ いるなら勝手にしやがれ‼ 俺は逃げる‼」
まさか、まさか……
嫌な予感がし、急いで辺りを見まわす。目に映る情報を、片っ端から脳にたたき込んでいく。
折れた真新しい剣、木のない土地、そして姿の見えない化け物……
—————————⁉
絶句した。
ここが最も危険な場所だとすぐに合点がいった。俺は大きな勘違いをしていたのだと、いま気が付いた。
もし、この折れた剣が、飯田たちを捕らえたやつらのものだとしたら。飯田の仲間が、自力で逃げ出したのではないとしたら。それを、奴らが追いかけていったのではないとしたら……。
いまこの状態になったのは、誰のせいだというのか。
答えなど、決まっていた。
「雨宮、飯田! 下に降りるぞ!」
いますぐ逃げなければ、大変なことになる。
しかし————、
「——ぃ、ぃぃぃぃいいい……」
飯田が、固まっていた。その顔は青ざめ、まるで生まれたての小鹿のように膝を震わせている。さっきまでは、慌てるようなそぶりはしていたものの、ここまで怯えた表情はうかべていなかった。視界の片隅に映る雨宮も、同様の表情をしていた。
——……ォォォォォォォォォ……
何か、微かな呼吸音のような音が、俺の耳に響く。幻聴であってくれ、そう願いながら、俺は再度耳をそばだてる。
——ォォォオオ
いや、幻聴ではなかった。
俺たちのすぐそばを吹き抜ける風音に混ざり、うめき声、雄叫び、そのどちらとも取れるおどろおどろしい何かが、先ほどよりも確かなものとなって俺の耳に届いた。首先がチリチリと焼けるような錯覚に陥る。本能がガンガン警鐘を鳴らす中、俺は、ギギギ……と油の切れたロボットのようなぎこちなさで、音のする方向へと振り向く。
そこで、もう遅すぎたことを知った。
俺たちを優に超す巨体。
全身は黒くくすんだ緑色の皮膚に覆われ、頭部についている目はひとつ。
口からは濁ったよだれが零れ落ち、地面にシミを作っている。
神話の怪物 《ジャイアントオーク》。
トールキンの怪物が、ひとつしかない目を見開き、十数メートル先で俺たちを見据えていた。
◆◇
トールキンが生み出した怪物、ジャイアントオーク。それはカリバー・ロンドでも存在し、凶暴な性格とその並外れた攻撃力・防御力で、幾多のプレイヤーたちをデスペナルティーに追い込んだボスモンスターだ。
ゲーム内では、倒せない相手ではない。レベルを上げ、レイドを組めば、決して倒せない相手ではない。
だがここは現実だ。俺たちは事象を改変させる魔法も、鉄すら切り刻む剣戟スキルも、痛覚キャンセラーも、HPバーすらも持っているわけではない。攻撃を食らえば痛みでのたうち回り、急所に当たれば一発であの世行きだ。もちろん、コンティニュー画面など出てこない。
——考えろ、考えろ、考えろ考えろ考えろ!
止まりそうになる思考を無理やり回転させ、状況を整理し打開策を探る。
——走って逃げる……いや、その前に殺られる。あのこん棒投げられれば終わりだ。何か、何かあいつの気を逸らすもの……。
——石……は論外。食べ物……俺たちの方がうまいだろうな。何か飛び道具……。
「……!」
あった。攻撃用ではないが、確実にあいつの目をつぶし、隙を作るためにうってつけのものが。
「——雨宮。ゆっくり下がれ」
小声でそう言い、雨宮と飯田を後進させる。その間に、リュックを下ろし、中からお目当てのアタッシュケースを取り出す。
シングルアクション・センターファイア式信号拳銃。震える手を押さえつけ、手探りで弾を取り出す。いくつか弾が落下した音がしたが、気にせず一発をつかみ色を見ずに装填する。
幸いにも、オークは俺たちを舐めきっており、その顔には不快感と吐き気を掻き立てる気持ちの悪い笑みが浮かんでいる。足取りもゆっくりで、まるで俺たちが逃げられないことを確信しているようだ。
チャンスは一回。それを外せば、次弾装填の時間はない。
かかれ、かかれ、かかれ。
食いつけ、食いつけ、食いつけ、食いつけ——。
オークは大股で歩くため、距離は残り数メートル。勝利を確信したのか、身体をかがませ、顔を俺に近づける。
距離、約二メートル。
後ろに隠した信号拳銃に、不具合がないか確認する。
距離、約一メートル。
撃鉄を引く。カチリと、金属的な音が響き信号拳銃が狂気の塊を帯びる。
距離、約八十センチ。
——いまッッ‼
右人差し指が、絞られる。引き金が動き、撃鉄が落ちる。丸く見開かれたオークの目に、閃光が直撃した。
「——————ッ」
耳をつんざくような悲鳴が、森中に木霊する。どんなに理解不能な生物でも、それが悲鳴であることはすぐに解った。いままで何もしてこなかった人間が、顔を焼くほどの攻撃をしたのだ。そんなこと、だれが想像できるだろう。
オークは大きくのけ反り、眼球を押さえこん棒をめちゃくちゃに振り回す。それを見ることもなく、俺は後ろ二人に叫ぶ。
「走れぇぇぇぇぇえええ‼」
雨宮が走り出す。それを追い抜き、下に下れそうな道を瞬時に探す。かなりうっすらとだが、向こうに人が踏んだものらしき道があるのが解った。
雨宮たちを、そこに誘導しようとしたそのとき、
「何してるの⁉ 早く‼」
声が響いた。思わず、振り返る。
雨宮が叫んでいた。その声の先には、面に座り込み動かない飯田の姿があった。完全に、パニックになり正気を失っていた。
「…く、くるなぁぁ……。あ、あ、あっちいけぇぇ」
いま逃げればその可能性も高いのに、いま逃げなければ死んでしまうのに、理性を失った身体は動くことを拒絶する。動かなければ助かると、そう考えてしまっている。
完全に理性を失ったその手が、投げ捨てた信号拳銃に触れる。
「来るなぁぁぁぁああああ‼」
引き金を引く。次弾が装填されていないため、もちろん発射はされない。
耐え切れず、雨宮が走る。次に取ろうとした行動に、冷や汗が走り思わず叫ぶ。
「バカ‼ 触るな‼」
想像してほしい。
目の前に、正体不明の怪物がいたとする。それに今まで、自身の生死の運命を握られていたとする。そんな中、後ろから触られたらどう思うだろうか。
少なくとも、仲間などとは思わないだろう。
「いまのうちに、早く——」
「うわああああああああああぁぁぁぁ⁉ 触るなぁぁぁぁあああ‼」
「あ、ちょっ⁉」
雨宮の腕が、強くつかまれる。後ろに倒れる反動で、雨宮の身体は前へと押し出される。
前には、血走った眼をしたオークが。
雨宮の目が、大きく見開かれる。その目は、困惑と動揺が混ざったものだった。
なぜ、自分が前へつんのめっているのか。そして、自分が身代わりにされたのだということに気づいた時の動揺。
思わず、走り出す。
周りの光景が、スローモーションのように鈍化する。
金棒が、振り上げられる。誰にやられたのか、どうしてこうなったのか、オークは良く知っている。だが、視力の低下した眼球では、人間の個体差を見分けることなどできるはずもない。憎悪は、飯田一人に注がれる。
つまり、その前にいる雨宮は、ただの障害物でしかないわけで——。
——届け、届け、届け‼
かつてないほどの勢いで、雨宮のもとへ走る。
金棒が、ゆっくりと下がり始める。雨宮の体勢では、回避することなど到底不可能。
雨宮の服に、手が触れる。
そのまま服をつかみ、抱き込むようにしてオークとの壁となる。
ガツッ
左腹部に、衝撃が走る。
ナニカが持っていかれる感覚が脳へと届き、続いて襲ったのは横向きの激しいG。痛みはない、だが、骨が軋みを上げているのを他人事のように知覚する。
そこで、時間拡張の感覚が元に戻り。
景色が回る。二、三度の衝撃が襲う。
視界が、暗転した。
◇◆
頬に、あたたかい何かが落ちる。それは一度ではなく、そして絶えることのなく続く。
「…やくん! 神…くん! 神谷くん‼」
雨宮が、呼んでいる。
膠で張り付けたような瞼を強引に開ければ、視界の隅には大粒の涙を湛えた雨宮の顔が。顔の向きからして、どうやら俺は地面に寝っ転がっているらしい。そこまで考えて、先ほどのまでの記憶が戻る。
感覚のない手を動かし眼前に持ってくれば、その手には明らかに鮮度の違う赤い血液が。指を切ったとき出る静脈血ではない。心臓から送り出され、酸素をたっぷり含んだ動脈血の色だ。
不思議と痛みはない。だがさっきの記憶からして、どうやら、俺の腹部が丸ごと引きちぎられたようだ。
「あ……あ、ま——」
声は続かず、小さくむせる。
「大丈夫だから‼ 大丈夫だから‼ すぐに止めるから! ごめんね、痛いけど我慢して」
そう言って、雨宮は俺の腹部を圧迫する。保健体育の座学で習う、直接圧迫止血法だ。
——……無理だって。雨宮。
痛みがない所為か、俺は不思議と冷静だった。
まずその止血法は、傷口が解る程度の怪我に使うものだ。肉がえぐれていて、どこが傷口なのか解らないような怪我には意味がない。それに、動脈が破れていたらもう血は止まらない。
「はぁ……はぁ……。何で、何で止まらないの⁉ とまれ、止まってよ⁉」
それに、痛みが解からないのだ。
痛覚神経は、実は意外にも表層にある。重度のけが人よりもある程度軽症のほうが騒ぐのはそれが理由だ。
つまり、俺の怪我はもうどうしようもない。
「や、やめぇえぇぇぇぇぇぇ⁉」
視線を動かせば、オークが金棒を振り下ろした瞬間だった。狙いは、もちろん飯田。
グシャっという明らかにおかしい音が、金棒の下から生まれた。
ざまあ見ろ。不謹慎ながらそう思った。
とっさとはいえ、意図していなかったからといえ、雨宮を盾にしたことへの天罰が下ったのだと、そう思った。
あとは、雨宮が逃げればそれでいい。
死ぬのは、怖い。怖くない人間などいないだろう。それ故に、不老不死を目的とする者が現れ、それを題材にした作品が存在し、あの世を想定した宗教というものが存在する。
だがなぜだろう。俺の思考は、死とは別のことに思いを馳せる。なぜ、雨宮をかばったのだろうと。俺の性格じゃ、考えられないことだ。
他人との距離をとり、遠ざけていた俺には。誰かのために動くことなど、あるはずがないのだ。
そのために、距離をとってきたのだから。
頬に、水滴が落ちる。誰のものかは言うまでもない、雨宮のものだ。いまもこうして、血を止めようと必死になっている。もう、止まるはずがないのに。
オークが、こちらに近づいてくる。
テスターと同じ形をしているのだ。『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』オークの中でもそうなのだろう。どうやら、同じ形の俺たちも潰さなくては、気が収まらないらしい。
近づかせまいと、雨宮が信号弾を握っている。だが次弾を装填していない以上、それはアルミ合金の塊だ。
さっさと逃げろよ。そうすれば、逃げられるのに……
◇◆ ◇◆ ◇◆
脳内に、映像が投影される。
全く記憶にない場所……それどころか、日本ですらない。
俺は、そこにいる少女と話していた。
顔はかすれて分からない。だが、状況は今と逆のようだ。
意識が遠のく中、何かが引っ掛かる。
そうだ、逆じゃない。
あのときは。いまよりもっとひどかった。
そうだ、この時、あいつは禁術の反動で死んだんだ。
そして、オレも腹に風穴が開いていた。
また、守れないのか? こんどは、何のしがらみもないのに。
また、殺してしまうのか? どうしようもない状態じゃないのに。
嫌だ、殺させてたまるか。
やっと、願いがかなったのだ。あのときの夢がかなう途中なのだ。
邪魔だけは、させてたまるか。
「……う、ごけ」
動け、動けよ。
「ま……だ」
動け。動け、動け、動け————ッ
腹がえぐられたからなんだ。
足が千切れたわけじゃない。腕が飛んだわけじゃない。頭が取れたわけじゃない。それならばまだ、戦える。
右手が、何かに触れる。
血で滑るが、間違いない。この手に吸い付く感覚を、忘れるわけがない。
地面から抜き去り、ちらりと見る。
——やっぱり。
刀身から柄まで、濁りのない黒で染め上げられたカタナ《連菊》。オレしかもっていない、俺の相棒。
頼む、相棒。
オレの命をくれてやる。だからもう一度だけ——、
力を貸してくれ!
「ぉぉぉぉおおおおおおお——————ッ‼」
力を振り絞り、立ち上がる。
血が噴き出るのも、内臓が悲鳴を上げるのも関係ない。この瞬間だけ保てばいい。
カタナから、青白い光が迸る。
腰を落とし、カタナを真後ろに引き下げる。狙いは胴体、そこを打ち抜けばこちらの勝ちだ。
オークの金棒が迫る。
「どけぇぇぇぇぇぇええええ——————ッ‼」
カタナが、突き出される。
金棒が触れ、まるで布でも斬るかのように、あっけなく貫通する。
勢いは削がれない。それくらいじゃ、どうにもならない。
すべての魔力を込めた一突きは、オークの胸部に炸裂し————、
◇◆ ◇◆ ◇◆
そのときのことを、俺はよく覚えていない。記憶があいまいで、よく思い出せない。だが、最後に見た光景は、うっすらと覚えている。
オークの胸には、ぽっかりと穴が開いていた。
そのまま後ろに崩れ落ち、俺は前へと倒れ込む。そのさなか、視界に誰かが映っていた。
意識を失う、その刹那。
世界が、虹色に瞬いた。
疲れました。