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異世界幻想曲《ファンタジア》  作者: 紅(クレナイ)
第一章 『アルトレイラル(召喚編)』
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第1章ー5 「この世界は…」

 パチパチと、目の前で薪が爆ぜる。簡易固形燃料が砕ける度に、中に配合されている何とか成分特有の青い火の粉が生まれ、暗転した夜空へとゆらゆら舞いながら吸い込まれていく。晴香はその前にうずくまりながら、生気のこもらぬ虚ろな瞳でただその様子を見つめていた。


「ほら。もらってきた」


 不意に、ほのかに湯気の立つ陶器製のマグカップを握った手がすぐ目の前へと差し出される。他でもない、いままでずっと行動を共にしてきた少年、神谷 樹のものだ。


「……ありがと」


 力のない声で礼を言い、マグカップを受け取る。そして、それが何なのかを確認すらせずに一口含み、続けてひと思いに飲み下す。


 中身は、非常用の粉ミルクだった。熱すぎず、かといってぬるすぎず、絶妙に温度調節がされた甘い乳白色の液体は、身体を内側から柔らかく温める。


 隣に樹が座る。気を使っているのだろう。後藤はあれから席を外しており、ほかの大人勢もこちらに来ることはない。


「…………」


「………………」


 沈黙が下りる。何も話す気になれない。先ほどの話は、晴香を黙らせるには十分なものだった。


「…………信じ、られないよな」


 ホットミルクをすする音が聞こえる。横から聞こえたその言葉に、晴香はこくりと小さく頷く。うつむきながら、自分のカバンを撫でる。 


 これがオブジェクトなら、どんなによかったことか。どんなに救われることか。

 しかし悲しいかな、一緒に足元に置かれたARデバイスが、そんな想いを残酷に打ち砕く。


「雨宮は、さ。その……聞いてたのか?」


 両ひざに顔をうずめながら無言で首を振る。そっか、という一言の後、樹はまたホットミルクをすする。


「神谷くんは……落ち着いてるね」


 言葉がこぼれた。息が詰まったような、咳を無理にこらえたような微妙な沈黙が一瞬降りた。


「————騒いでもなにもならないからな。それに、ここにいるのは俺たちだけじゃないし」


「それは、そうだけどさ」


 あまりにも予想通りな回答に、我知らず苦笑する。

 そうだった。自分の知る、神谷 樹とはこんな人だった。


 歳不相応に落ち着いていて。そうかと思えば、ちょっとしたことにこだわって、つまらないことで意地を張る。無鉄砲に見えて実は策士で、周りのことをよく見ている。いまだってそうだ。その落ち着きに、どれだけ助けてもらったか。普段よりも増して、その落ち着きがうらやましい。


 異世界。


 そんなものは、ラノベやアニメや映画といったフィクションのものだとばかり思っていた。そして、その思いは今も変わらない。いや、変えたくはない。助けが来ない、死んでしまうかもしれない。認めてしまえば、その事実を直視しなくてはならないから。


 ここはゲームの中——ここに来てからずっと、そう信じていた。ここはゲームの世界で、ここに来たのも、連絡がないのも、全て運営サイドの不手際で、もう少しすれば助けが来る、それまでこの世界を楽しめばいい、と。


 だって、普通はそんなこと考えないではないか。ワームホールを作るのだって,宇宙何個分ものエネルギーが必要と知っているのだ。異世界に飛ばされるなんてことは理論上不可能。物理法則を捻じ曲げるようなことなどできるはずもないのだ。


 だが、後藤の話を聞いて、あの傷を見て、問題はそこではないことを悟った。

 そもそも、ここが現実世界だった時に一番不都合なのは死んでしまうことなのだ。どんなに楽しいVRゲームであろうが、死の可能性があるならばそこは紛れもない異世界だ。


 ここが現実世界だろうが、VR空間であろうがそんなことはどうだっていい。ここでは、自分たちは怪我をする。怪我をするなら痛みを伴う、感染症の心配だってある。もちろん、死んでしまうことも……。


 想像する……想像してしまう。


 傷を負ってしまった自分。現実と変わらぬ痛みが走り、しかし痛み止めも薬も医者もいない。食料が底をつき、体力が落ちる。高熱が出る。お荷物となった自分は、他が生き残るため見捨てられる。もうろうとする意識の中、去ってゆく仲間たちだけが鮮明に映る。そのうち獣にも見つかるだろう。ゲーム同様、どう猛な目を光らせながら晴香に食らいつく。悲鳴を上げてる晴香の身体をむさぼる、身体中が痛く気絶しそうな意識が痛みで覚醒させられ足が千切られ腕がちぎられ腹は食い破られ頭に牙が食い込み頭蓋にひびが入る音が直に響きパキンという乾いた音が耳に入りそして————


 ———————ッ‼


 パキリッ


 甲高い音とともに最後の固形燃料が爆ぜ、最後のあがきとばかりにひときわ大きな火柱が立ち昇る。そして、炎は急速に力を失い、気がつけば残りかすが燃えるのみ。


 動悸が収まらない。先ほど脳裏に浮かんだ光景が頭から離れない。このさき、少なからず起こる可能性があるのだ。もし、もしそのときになったら……。


「……帰れ、ないの?」


 意図せず口が動いた。


 正解なんか誰にもわかるはずがないのに。訊いても意味がないことくらい解っているのに。帰ってくる答えなんて解りきっているはずなのに。だっていまの質問には、後藤が答えを出しているようなものなのだから。それなのに、そんな意味のない問いが漏れた。


 いや、おそらくすがりたいのだろう。他でもない、神谷 樹という少年に。


 いままで、その持ち前の分析力と実力で、幾度となく高難易度クエストを攻略してきた樹なら。現実世界でも、晴香の持ちかける様々な依頼を、嫌がりながらも解決してきた樹なら。もしかしたら、この状況を打開できる何かを見つけ、後藤の話を、雨宮 晴香の不安を否定してくれる、そう思ったのだ。


 答えなど、とっくに分かっているはずなのに。もしかしたらという淡い期待を捨てきれず、そう呟く。

 神谷 樹という少年に、その強さに、甘えてしまう。


「……解らない」


 無理だとは言わなかった。


「もしかしたら、いま考えてることも全部杞憂で、本当に未公開の新技術を試されてる可能性もある。空からアナウンスが流れて、あとで謝られるかも……」


 だが火に照らされた顔は、悲痛に歪んでいた。そしてその表情こそが、どんな言葉よりも如実に、真実を語っていた。


「……だけど、もしそうだとしても、どのみち異常事態だ。同意なしのフルダイブは重罪だ。そんな事すれば、会社は間違いなく潰される。それを平気でやるような会社が、まともなはずない」


 おそらく、続けられた言葉は樹自身にも向けられているのだろう。いまの状況だけを分析するために淡々と可能性だけを列挙していく。樹が落ち着くためによくする動作だ。だがそれ故その言葉は何よりも確実で、何よりも残酷。微かにすがる淡い幻想を、情け容赦なく叩き壊していく、無慈悲な宣告だ。


 最後まで言うことはなかった、それがおそらく樹なりの優しさなのだろう。だけどもその優しさは、この場では一番つらいものだった。だって、良い知らせなら隠す必要はないから。その沈黙こそが、答えなのだから。


 訊かなきゃよかった、いまさら後悔する。


 でも、訊かずにはいられなかった。それもまた事実。


 答えなんか知っている。その事実をあえて意識の外へと追い出し、ここが安全なのだと頑なに決めつけた。運営からの助けが来ると、そう信じたかった。


 認めたくなかった。いままでの生活に戻れなくなってしまうかもしれないということを。命の保証などなく、下手をしたら死ぬかもしれない世界に取り残されてしまったということを。  

 

 家族に、もう会えなくなってしまったのだということを。


「————解んないよ。どうして、どうして、わたしたちなの」


 解っている。こんなこと、訊いても意味がないことくらい。

 返事はない。あったとしても気休めにもならない。もう、どんな言葉をかけられても立ち直れる気がしなかった。マグカップを握る手に力がこもる。


「わたし、何もしてないのに……どうしてこうなっちゃったの……?」


 理不尽だ、どこまでも理不尽だ。自分が何をしたというのか。


 これまで普通に生活し、それなりに充実した人間関係を築いた。法を守り、おおよそ非行少女がとるような、過度に親を失望させるような行いもしていない。


 不公平だ。これが罰だというのなら、罰が下るのならば、自分だけではなくほとんどすべての生徒、学生という立場のものがすべからく受けるべきだ。それなのに、なぜ自分だけがこんな目に合わなくてはならないのか。


 解らない、解らない、解らない。いくら考えても、その理由が分からない。

 ぽたりと、涙が頬を伝い手の甲へと落ちる。自分でもわからないほどたくさんの感情が、心の奥底で渦を巻いている。それを表に出すまいと歯を食いしばる、必死に心にふたをする。


 これ以上、樹に失望はされたくない。


 樹は、元々人づきあいが得意ではない。いや、人と接するのを恐れているというのが正しいか。そんななか、どうにかこうにか信用してくれるポジションにまではなったのだ。そこに至るまでに、樹が他人を拒絶したことは何度かあり、それを間近で見た。


 全てを拒絶するような、冷たい視線。射られた者の言葉を強制的に凍らせるような、絶対零度の視線。一度それを向けられれば、取り返しのつかない溝ができる。そんなのは、まっぴらごめんだ。


 いま、分が普通じゃないのはだれが見ても明白だろう。もちろん、樹も感じ取っているはずだ。そんな中で、感情を爆発させたくはない。


 泣いてもどうにもならないのに、ただただうるさいだけなのに、それをわかっていながら涙することの何と滑稽なことか。自分ですらも嫌になるのに、樹が見たらどう思うのか。


 それなのに、押し殺した感情は強まるばかり。閉じたふたをこじ開けようと、暴力的に荒れ狂う。静まれという頭の命令を、全く受け付けない。


 ダメだ、ダメだ、静まれ、静まれ、静まれ、静まれ、静まれ————、


 そのとき、


「……?」


 ふわりと、あたたかいものが頭に乗った。そしてそれはゆっくりと、優しく、頭の上を移動する。


 ——これは、樹の手。


 そう認識した瞬間。心の中で何かがはじけた。


 ぽたり……


 言葉はない。樹は無言で、頭をなでる。


 ぽたり、ぽたり……


 樹の手から頭へ、頭から全身へ、言葉では表せない何か温かなものが広がっていく。

 涙を流しているのに気が付いたとき、もう手遅れだった。


「ぅぅうっ…………ああぁぁぁぁぁああ‼」


 ふたが外れる。感情が暴発する。あふれ出た感情に理性が振り回され、身体の支配権がなくなる。

 反則だ。こんなの反則だ。


 嫌われまいと、失望されまいとこらえてきたのに。そんなことは必要ないと言われてしまえば、抑えきれないではないか。


 泣く、泣く、泣く。


 大声を出し、まるで赤子のように泣き叫ぶ。いつの間にか樹にすがりつき、胸に顔を押し付ける。この手を放してしまったら、今度は樹までもがいなくなるような気がし、言いようのない恐怖にシャツを握る手には力がこもる。その間も、いま他をなでる感覚は消えない。



 ため込んでいた感情を吐き出すまで、晴香が泣き疲れて寝てしまうそのときまで、

 そのぬくもりは、消えることがなかった。


 ◆◇


 規則正しく、身体が上下する。上半身を包み込む確かな温もり。そして、頭にかかるわずかな重み。まどろみの中、ぼんやりと知覚したのはこの三つだった。


 ——あったかい。


 覚醒前のぼんやりとした頭では、そう思うことが限界だった。


 身体が、何か温かいものでおおわれている。毛布でもかぶっているのかと思ったが、それにしてはやけに温かい。熱がこもっているという感覚ではなく、熱源そのものを抱いているような——そう、湯たんぽに近い。


 思わずぎゅっと抱きしめる。どこかで経験のある硬さが腕を押し返す。だが金属というには柔らかすぎる。それに、なにか嗅ぎなれない匂いがする。やっぱり湯たんぽではない。


 それに、なぜだかとても安心する。まるで、天日干しした布団の上で昼寝したような、あの心地よさだ。布団というものは、なぜあれほど眠気を誘うのか。ほら、いまも自分のことを優しく抱きしめて——、


 ……抱きしめて?


「ん……ふぅ……?」


 これ以上ないほどの安心感と言い知れぬ心地よさに、もう少しだけと再び眠りの世界へ旅立とうとする意識が、違和感に気づく。その途端、ふとこのぬくもりの正体が異様に気にかかった。

 温かい、だけど柔らかい。抱き着けば、なぜか抱きしめ返してくる。湯たんぽとも違う、布団とも違う。何なのだこれは……。


 段々と意識が覚醒していくが、こいつの正体が一向に解らない。なぜかそれが無性に悔しい。

 ああそうか、目を開ければいいんだ。

 飛び込んできたのは、視界いっぱいに広がる黒。その黒い何かは規則正しく上下を繰り返し、晴香の上半身をわずかに上へと持ち上げる。


「……?」


 何だろうかこれは。

 寝袋? いや、寝袋は動かない。だとすれば、抱き枕の線も薄いか……。


 だとすれば、本当に何なのだ? これは。


 眠気と格闘しながら記憶を探るが、ぼんやりとした頭にはその作業すらも難しい。そもそも、晴香の記憶には発熱し、自分から動き、それでいて柔らかいものという物体が存在しない。というか、そんなものがこの世にあるのだろうか。


 記憶にないものは仕方がない。記憶漁りを早々と諦め、ゆっくりと視線を上へ持ち上げる。



 目の前には、あどけない表情で眠る、神谷 樹の姿。



 柔らかいもの=樹の身体。熱源=樹の身体。黒=樹の服。晴香を抱きしめてきたもの=樹の腕。

 抱きしめていたもの=樹の身体。


 ・・・・・・=‼


「…………。ッ⁉」


 一気に意識たたき起こされ、そうかと思えば次は思考が停止する。


 ——う、うそ⁉ なんで⁉


 完全に覚醒状態となった頭に、昨日の光景が鮮明によみがえった。

 樹に縋りつき、赤子のように泣く自身の姿。その頭を、樹が優しくなで続ける……。


 すべて、晴香自身の行いからきた結果だった。


「あっ……あぁぁぁぁぁぁぁぁ……っ!」


 途端に顔が羞恥の色に染まり、訳の分からないうめき声を上げ慌てて樹の胸から離脱する。幸いにも樹の眠りは案外深かったようで、すこしうめき声を上げた後再び夢の中へと潜っていった。眠りが浅いと言って寝不足に悩んでいた樹には珍しい。これ幸いと、いまのうちに乱れた服を整える。


 おそらく、ずっと樹にすがりついて泣きじゃくった後、そのまま自分は泣き疲れて寝てしまったのだろう。予想が正しければ、樹は縋りついた自分をそのままにし、ずっと頭をなでていてくれたことになる。


 珍しい、樹なら放り出してもおかしくないのに。わたしは放り出されないほどの信頼関係は築けていたんだ、とこんな状況にもかかわらず頬が緩む。


 ——そうだ、神谷くんは、こんな人だった。


 神谷 樹に確かな恋心を抱いたのは、いつのことだっただろう。


 第一印象は、はっきり言って最悪だった。あの頃の樹は、いまとはほとんど正反対。不真面目で無口。人と関わることを極端に嫌い、すべてに無関心な視線を向けていたあの頃の樹は、常に他者と距離を置いていた。


 晴香が面倒ごとを持ち込んだ時もそうだった。目的を達成するために、その他のすべてをめちゃくちゃにする。言うなれば、安眠を確保するために周りをすべて焼け野原にしてしまうような戦法。そうすれば誰も頼っては来なくなる。樹は言外にそうほのめかしているようだった。


 そんな中、ぶつかり、怒り、失望しながらも、不意にあることに気が付いた。

 それが、何かに怯えているからこその行動なのだと。


 あの頃の樹が何を恐れていたのか、どうしてあのような行動をとるようになったのか、晴香は卑怯な手段で知ってしまった。そして、そのことを樹はまだ知らない。


 樹の過去を知ってからは、晴香の気持ちは急速に変化していった。


 最初は、気に掛けるだけだった。


 いつしかそれは消極的なものから、話しかけ、デートに誘い、文化祭に巻き込んだりと、積極的になった。

 気が付けば、樹だけを見ていた。樹だけに見てほしかった。


 いつの間にか、樹のことが大好きになっていた。


 なぜ過去を知っただけでそうなっていったのか、晴香自身にもよく解らない。だが、きっかけとなる想いははっきりと解る。


 ——わたしは……君のことをもっと知って、そして、力になってあげたかったんだ。


 その気持ちにだけは、うそ偽りない。

 もう十分泣いた、十分困らせた、十分元気をもらった。


「もう……くよくよしてても仕方ないよね」


 普段はとても頼もしいのに、不思議と年齢不相応な幼さの感じられる寝顔に微笑みながら、跳ね飛ばしてしまったブランケットを優しく被せる。


、ありがと。もう大丈夫だから」


 いまはまだ、苗字読みだが。いまはまだ、名前で呼ぶのは気恥ずかしいから。これが精一杯。

 心なしか、樹の表情が、少しだけほころんだような気がした。


 ◆◇   ◆◇   ◆◇


 この訳の分からない世界に飛ばされて二日目。幸運にも、天気は快晴で湿度もそれほど高くない。日本の都会ならば、年に一度あるかないかの絶妙な気候。


 朝食を済ませた後、用事がないなら辺りを散歩するのもやぶさかではない。現に、普段の俺ならば勝手にやっていただろう。都会の喧騒から逃れ、若草のじゅうたんに身体をうずめ、鳥のさえずりをBGMに雲を数える。


『普通ならば』の話だが……。


「……………………」


「…………」


 沈黙が、痛い。

 俺たちは壁片をはさむようにして向かい合ってにしゃがみ、ひたすら無言でマグカップを乾燥洗剤で磨く。お互いの姿は壁片にさえぎられて見えない。


 そもそもこの役割だって、一人でやるつもりだった。


 キャンプに残っている人数分ごみは出る。彼らが使ったマグカップと食器も、誰かが後片付けをしなければならない。そうすれば、残りの人員はキャンプの探索に回せる。


 だからこそ、自ら志願した————心を落ち着けるために。昨日のことを、忘れるために。


 なのに、なぜか雨宮が付いてきてしまった。その真意は解らない、話そうとしないのだ。付いてきたはいいものの、それからかれこれ十数分、作業を始めてから一言も発していない。その理由として思い当たるのはひとつしかない。


 昨日のことがフラッシュバックする。いまさらになって羞恥心に襲われる。

 あのときの表情も目の裏に浮かぶ。


 突然身に降りかかった理不尽な運命に対しての困惑と怒り、同時にどうにもならないことを悟り、深い絶望にとらわれたあの表情も。必死に感情を押し殺そうとするも、どうしても抑えきれずに頬を伝ったあの涙も。


 その姿は、もろく今にも崩れてしまいそうなその表情は、言い知れぬ衝動となって、俺の心を締め付けた。


 そして、気が付けば雨宮を抱きしめていた。


 ——我ながらないだろ……あれは。


 あのイタイ行動を忘れようと、無心にカップをこする。だが、こすればこするだけあのときの行動が脳内で延々リピート再生される。


 雨宮の頭をなでる自分、泣きじゃくる雨宮を抱き寄せる自分。そのまま寝落ち、起きてみれば俺一人。食事中黙り続ける雨宮と、なぜかニタニタにやつく大人たち。どんなラノベ主人公なのか。


 …………死にたい。


「神谷くん」


「あ、は、はい」


 思考を遮るように雨宮が声を上げ、予想外の事態に声が上ずる。いまの状況で上げられる話題はかなり限られるはずだ。今後の方針について、この世界が何なのかというテーマに対する雨宮の見解、そして、昨日のこと。確率的には1/3、だが常識的に見れば最後の可能性大。


 頼むから別件でいてくれ、当たってれるな、そう祈りながら言葉の続きを待つ。


「昨日のこと……、なんだけどさ」


 ………………。


 ビンゴ、解ってはいたものの、すがすがしいほどのビンゴ。

 この世界に神はいなかった。


 不可抗力だ、そんなつもりはなかった、気まずさを作り出す行動の大半は普通ならそんな言い訳ができるものだろうし、本当にそうならおそらく雨宮は困った顔をしながらも許してくれるだろう。だが、昨日の行動は明らかにその範疇ではない。あれが無意識なら、病院に行った方がいい。


「ありがとう」


「?」


「わたし、すごく不安だった。帰れるかも分からない世界で、それでも生活しなきゃいけない。この先どうなるのか分からなくて、どうしていいか分からなくて、怖くて怖くて、どうにかなりそうだった」


 迷惑だとか、恥ずかしいとか、そういう言葉ではない。

『謝辞』出てきたのは、俺が最も予想外としていたものだった。


「だから、ありがとう。わたしはもう大丈夫だから」


 お世辞でも何でもなかった。それなりに行動を共にしてきたから解る。

 思いもかけない言葉に動揺し、雨宮は雨宮で自身の言葉の気恥ずかしさからか再び沈黙が下りる。


「——じゃ、じゃあ、わたしの分終わったから」


 そう言って、唐突に雨宮は立ち上がり、この場を後にした。


 ……。

 ………………。

 …………………………………。


「はぁ~~」


 大きくため息をつく。まだ朝にもかかわらず、とてつもない疲労感が身体を襲う。

 これがどうでもいい相手なら、ここまでは思わなかっただろう。それこそ雨宮以外の現実世界の女子になら、そもそもあんなことはしなかっただろうし、こんなにも疲れはしなかったはずだ。


 どうでもいい相手ならどんなに楽なことか。


 どうでもよくないからこそ、切れてしまうと嫌な関係だからこそ、言葉を選ばねばならない。自身がとった行動が正解なのか疑心暗鬼になる。その結果、常人の数倍余計に疲れてしまう。その点のみでいえば、他の連中よりも雨宮の方がよっぽど扱いにくい。


「あーららー、何とも甘酸っぱいこと」


「どぅあ⁉」


 突然頭上から降り注いだ声。驚愕し顔を上げてみれば、そこには壁片に肘をつき、ニタニタと気持ちの悪い笑みを浮かべる後藤の姿。どこから聞いてた? という問いは不要だった。この顔は、最初から聞いていたヤツの顔だ。


「ンだよ、あの初々しい会話はよ。中学生じゃあるまいし。お似合いだなぁ、おい」


「誰がっ!」


「ほんと、あんな娘とどこで知り合ったんだよ。そんなタイプじゃないだろ、お前」


「茶化さないでください」


「大事にしてやれよ、泣かすんじゃねーぞ」


「本当なにしに来たんだアンタ!」


 羞恥にこらえきれず、そう怒鳴る。一瞬言い返そうとも思ったが、言っていることが図星で、なおかつ自覚しているので質が悪い。


「ちょっと集まってくれ。話したいことがある」


 途端、真顔になって発せられたその言葉には、ふざけた気配が一切感じられなかった。


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