第2章ー6「迷い霧の森」
「――っと、こんなもんだな」
そう独り言ちて曲げていた腰を伸ばす。パキパキという子気味良い音と感覚が骨から伝わり、同時にリン酸が溜まった時特有のあの疲労感が身体全体を締め付ける。腕、肩、腰を回し、酷使していた筋肉をほぐす。
ぐるりと見渡せば、部屋の中は見違えるように様変わりしていた。
埃をかぶっていた家具と床は年季の入った木材特有のツヤが出ているし――なぜ腐っていないのかは全く解らない――、放置されていた荷物はいくつかある部屋の内のひとつである倉庫っぽい場所に運んだ。
探検してみたところ、この家のような場所は五部屋で構成されていた。入ってすぐのこのリビング。そこには四つの扉が配置されており、それぞれが各部屋へとつながっているのだ。俺が使うつもりの自室と物置にした部屋以外には、雨宮たちから任された荷物が置いてある。どうせもらったものなのだ。使うのならみんなで使いたい。
ただし、この家がどこにあるのかは解らない。
窓はあるし、そこから景色は見える。だが、そこは俺が見たことのないもので、少なくともこの辺りではない。探検しに行こうかと迷いはしたが、ミレーナ宅とここをつないでいるのは玄関扉に当たる場所だ。間違って閉まったらどうなるのか解らない。とりあえず、すべて片付いたらにしようということにした。
「…………」
何気なく、おもむろにタンスを撫でる。ニスのツルツルとした感覚に混ざり、ときおり何かに引っ掛かる感覚が指先から伝わる。現実世界で暮らしていれば絶対に感じたことのある感覚だ。
チラリと、家具に目を落とす。俺が触っていたのは、何かで削られたような傷の後。ニスのコーティングをえぐり取り、そこだけやけに色白い。
人が暮らしていた軌跡だ。ミレーナのお弟子さんが、この世界に生きていたという証拠だ。
ここにあった荷物も、ここに積もっていた埃も、みんなあの時からこの部屋にあったものだ。時が経っているのだが、時が止まっている証拠だ。いじる直前のあの瞬間まで、この部屋には彼がいて、それからずっとそのままなのだ。
この部屋はずっと、主人の帰りを待っている。彼が死んだことも知らずに。
「――神谷くん、やっぱりここにいたんだ」
そのとき、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。
振り返るよりも先に声の主は歩を進め、俺の隣に並ぶ。視界の隅に、向こうの世界ではあまり見なかった栗色に近い長髪が揺れる。
「もう、出発?」
「うん。もう少ししたらって言ってたから、もうそろそろ行った方がいいかも」
「了解。もう行く」
踵を返す。しかし、伝えに来た本人の足は動いてはいなかった。
呼びに来たにもかかわらず、雨宮の足はその場所から一歩も動いていない。じっと前を――明かりを落とした部屋の中を見ている。
「雨宮?」
「わたしたち、運がよかったんだね」
ポツリと、そう呟いた。
「この世界じゃ、ミレーナさんのお弟子さんでも死んじゃうんだよね。わたしたちより、ずっと強かったはずなのに」
「……そうだな」
短くそう答える。このことは事実だから。
ミレーナから話は聞いている。あのとき、少しだけ話してくれたのだ。話によれば、彼は――ミレーナのお弟子さんは、俺たちよりもはるかに強かったらしい。
そんな彼でも、この世界では簡単に命を落とす。漫画や小説のように、強ければ死なないというわけではない。それは単に、死ぬ選択肢が弱いものよりも少ないだけ。
そう、決してゼロじゃない。
この世界では、命は軽い。それは、単純な強さだけではどうにもならない不確定要素が多いからだ。病気、毒、呪い、裏切り、暗殺……強くなったところで、それらに対抗することはできないのだ。
「わたしたちが、使っていいのかな……?」
この部屋のことだとすぐに解った。
「解らない。だけど、ミレーナさんは使って欲しそうだったな」
「そう、だよね」
答えは、俺にも解らなかった。この部屋の住人はもう死んでいて、その答えを訊くことはできなかったから。
――いや、待てよ……。
脳裏に、何かがよぎる。何か、ほとんど答えに近いものを知っているような、見たような気がする。いつだったか、それもかなり最近に。解っているはずなのに、求める答えは一向に出てこない。それが、とてつもなくもどかしい……。
しかし、
「――ごめんね、変なこと訊いて。行こ?」
「え? あ、ああ」
その答えは、雨宮の声と共に霧散した。
話しかけられ、ふと我に返る。その時にはもう、さっきまで感じていたもどかしさはきれいさっぱり無くなっていた。
答えへの手掛かりは、記憶から滑り落ちていた。
再び踵を返し、今度こそ居間に向かって歩き出す。それからワンテンポ遅れて、雨宮が俺の後ろを歩いてくる。
雨宮が歩き出す、その直前に。
「――――大切に使います。荷物も、ちゃんと残しておきます」
後ろで、小さな声が聞こえた気がした。
◇◆
〝妖精の国〟今から行く場所は、その呼び名が定着している。その国には妖精が管理し、〝世界樹〟と呼ばれる大樹が国を支えている。世界樹は大気中に膨大な量のマナを放出し、その量は平均的なマナ濃度の十倍に達するという。どれだけ魔法や魔術を使ったところで、発動不良のようなことは決して起きない。
故に、『妖精の国』。自然の一部であり、世界樹に愛された妖精たちが暮らす摩訶不思議な国。
「そうは言っても、実際に妖精が国を統治しているわけじゃない」
珍しく身なりを整え、かっちりとした服装に身を包んだミレーナが、俺たち三人に向けた背中の向こう側からそう付け加える。
「統治しているのがエルフというだけで、精霊や妖精たちが国の運営に関わっているなんてことは一切ない。あの国は世界樹の下で発展したにすぎん。勝手に作られた国……彼らにとってどうでもいいんだ」
「だとしたら、どうして――」
「妖精たちが黙っているのか――と訊きたいんだろう?」
真横を歩く雨宮が、「はい」と小さく頷く。
「簡単なことさ。世界樹に害がないからだよ」
「妖精たちが守っているのは世界樹だからね。はっきり言っちゃえば、世界樹に影響がないならどうでもいいんだよ」
隣を歩くルナが、ミレーナの言葉を補足する。正解だと、ミレーナが振り返って薄く微笑む。ルナが得意気にはにかむ。頭部に生えている銀色の耳が、ぴくぴくと小刻みに震えている。
「それじゃあ、世界樹に害があるって見なされた人たちは……追い出される?」
「惜しいな、イツキ。『入れてもらえない』の方が正しい」
そういった後、ミレーナは妖精たちの役割について説明してくれた。
曰く、妖精たちは世界樹の近辺に住み着き暮らしているらしい。彼らの役割は大きく分けて二つで、ひとつは世界樹の保護だ。伸びすぎた根やツタを切り落とし、世界樹の一部が異常成長することを抑制する。不要な葉を落とし、適度に日光が当たるようにする。そうやって世界樹を管理し、適切に成長させる。日本でも行われている、間伐や除伐などと似通った役割だ。
そして、もうひとつの役割が、侵入者の選別。
彼らは、他者を三パターンに分類する。害のない者、自分たちの味方、最後に敵。担う役割は、『敵』と認識した者を自分たちのテリトリーに入れないということなのだ。
つまり、俺たちがこれから会うことになる相手とは――、
「さあ。着いたぞ」
その言葉と共に、ミレーナは足を止める。そして、自らが背負っていた荷物を下ろしその口を開ける。
「うわぁ」という感嘆にも似たため息が、雨宮の口から漏れる。経験豊富なルナでさえ、感情が隠し切れずに耳がわずかに動いている。
「〝迷い霧の森〟……」
目の前に広がっていたのは、『濃霧』だ。
ミレーナ宅がある草原のさらに向こう側、人など絶対に入ることはない山の奥深く。そこにあったのは、広大な森とそれを覆い隠す濃霧。ミレーナに引き取られることになって真っ先に教えられた、行ってはいけない場所のひとつ。
『迷い霧の森』入ったら最後、帰り道を見失ってしまうほど濃い霧の森だ。
「三人とも、ここからはこれを持ちなさい」
その一言と共に、ミレーナは俺たちにカンテラのようなものを手渡す。片手で持ち上げるための取っ手が付いた、全面ガラス張りのカンテラ。その中には、透明で青い炎が揺らめいている。
「綺麗……」
うっとりとした表情で、雨宮が呟いた。
「『辿りカンデラ』だ。中で揺れている炎の指す方向に私たちの家がある。何かあったら、それをたどりなさい」
いつの間にか荷物をまとめ終ええていたミレーナが、行くぞ、と言って再び歩き始める。しかし、霧に入る直前でもう一度足を止める。そして、俺たちの方を向く。
「ちょうどいい。三人とも、先に入ってみたまえ。なぜ来てはいけないのかが解る」
「「「…………」」」
「一列にな」そう言われるままに、右から俺、ルナ、雨宮の順で霧の前に立つ。わずか三十センチ先には桐の壁が立ちはだかり、つかみどころのない不気味さと違和感が、威圧となって身体を押す。
霧の向こう側は、全く見通せない。
そのとき、
「カンテラを落とすなよ」
ゴウっと、一陣の風が吹く。
気が付くと、俺は白の中にいた。
音が無い。
木も、草も、何もない。感じているのは、踏みしめている地面の感触だけだ。
――……?
状況が呑み込めず、カンテラで四方を照らす。しかし、俺の真っ割にあるのは灰色がかった白い空間だ。
手の平を見る。顔と手の平の間で、靄のような微粒子がゆっくりと漂っている。
ああ。ここは霧の中だ。数秒遅れて、この状況にようやく理解が及ぶ。
「そっか。さっきの風で」
つまり、あの時に吹いた風によって、俺は霧の中へと押し込まれてしまったのだ。
「……雨宮? ルナ? ミレーナさん?」
四方に呼びかける。だが返事はない。俺の声すら、響くことなく霧の中に文字通り霧散してしまう。手を伸ばす。それでも、手には何の感触もない。まるで、物体という物体が俺以外この世界から消えてしまったように。
――……これ、ヤバくね?
つぅーッと、冷たい汗が頬を伝う。普段は聞こえない心臓の音が、血管を伝い耳奥の鼓膜へと直に届く。
入ってはいけないと言われた理由が、今ようやく理解できた。ここが『迷い切りの森』と呼ばれている理由も。視覚もダメ。聴覚もダメ。方向感覚もダメ。ここは、富士の樹海より質が悪い。入ってしまえば、確かに出て来れない。
何か大きなものに飲み込まれた時のような、宙づりになって空だけが見えているときに感じるような、底のない恐怖心が芯を締め付ける。こんな感覚、いつぶりだろう。
普段は聞こえない心音が、大太鼓のような声で早鐘を打つ。
息の音がやけに大きく聞こえる。俺は、こんなに不規則な呼吸をしていたのか。
こわい。怖い。恐い。
気を抜けば、呼吸が止まっていそうで。
次の瞬間にも、足元が抜けて奈落へ落ちていくように思えてしまって。
出なきゃ。出なきゃ、出なきゃ出なきゃ出なきゃ出なきゃ――。
これだけははっきりと解る。
――ここに居ちゃ、まずい。
「――――っと、これが入るなと言った理由だ」
突如、空いていた左手が温かいものに包まれた。
「!」
同時に聞こえる、落ち着いた声。半ば条件反射で振り向くと、そこには俺の手を握ってほほ笑むミレーナの姿があった。その後ろには、雨宮とルナもいる。二人とも、顔が少しだけ青いような……。
「訓練していない者がここに入ると、今のように情報が一切遮断される。そうなると、一歩先が霧の外であっても気が付かない。もちろん、目と鼻の先に仲間がいてもだ」
「下がっていたまえ」そう言って前に出たミレーナの片手には、普段は使うことのない杖が握られていた。あの迷宮攻略時にしか見たことのない杖。背丈の三分の二はあるんじゃないかと思うくらいの、木でできたシンプルな杖。それでいて、言葉にできない威圧のようなものを放っている。
ミレーナの顔から、笑みが消えた。
「……回れ、固まれ、精霊よ――」
ふぅっと短く息を吐き、続けられたのは魔法の詠唱。
「踊れ、絡まれ、笑え、笑え――」
それと同時に、杖の先端にうっすらとした球体ができ始める。透明で、色はついていない。だが、その存在ははっきりと見える。その場所だけに、良く解らない揺らぎのようなものができている。
ぽぅっと、球体が淡く光りだす。野球ボールほどの大きさになった光球は、杖の先から離れふらふらと前に飛んでいく。まるで、風船が風に流されるように。
そして、
「――歌え」
詠唱が終わる。
パン! という破裂音と共に、光球がはじけ飛んだ。
…………。
………………………。
……。
…………………………………。
再び、怖いくらいの静けさが満ちた。
いや……、
――クスクス……。
――ふふ、フフフ。
――クク、フクフフフ……。
「……声?」
はっとしたように、ルナが独り言ちた。顔を合わせ、頷く。雨宮にも俺にも、その声がはっきりと聞こえたのだ。
風の音や水の音のように、意識していなければ無意識に削除してしまいそうな印象を持つ不思議な笑い声。声のはずなのに、それは声帯を震わせて出すものとはどこか違う気がしてならない。
そこにあるのが自然とさえ感じるくらい、存在感がない。だが確かに存在し、一度聞いてしまえばなぜ聞こえなかったのかと驚愕するくらいはっきりと脳に響く。優しく鼓膜を揺さぶり、溶けるように意識の中へと入りこんでくる。
実体のない声。方向性が無く、水に溶かした塩のように偏りがない。まるでこの空間そのものが意志を持っているかのように、空気に満ちる。
「精霊だよ」
杖を下ろしたミレーナが、俺たちの方を振り向き口を開く。
「この辺りの精霊たちに力を貸してもらった。彼らを呼ぶには、精霊を使うのが一番効率的だ」「彼らって……」
つい口に出てしまう。
「想像はついているだろう?」
杖を腰のベルトに固定したミレーナが、笑った。
これから誰が来るのかは、多分ここにいる俺を含めた三人は解っている。
世界樹を守っているのは、精霊と妖精だ。そしてさっき、ミレーナは言った。「『入れてもらえない』の方が正しい」と。話題は変わっていない。当然、「彼ら」を指す内容が変わるはずもない。
つまり、今から俺たちが会うことになる相手とは…………。
そのとき、
ぽぅ……。
と、遥か向こう側で光が灯った。
ぽぅ……ぽぅ、ぽぅ。
最初は一つ。瞬きをした後には三つ。二つになったかと思えば、四つに増える。
違う。増えているんじゃない。
灯ったんじゃない。近づいてきているんだ。
「世界樹を守ることが目的なら、その場所に近づく人間を選別するのも妖精の役割だ」
現れたのは、ボロ衣を被った小柄な人間――に見えるもの――だった。
投稿が遅くなって申し訳ありません。いろいろなことが重なっていました。
次回は、早く投稿できるように頑張ります。




