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異世界幻想曲《ファンタジア》  作者: 紅(クレナイ)
第一章 『アルトレイラル(迷宮編)』
32/45

第1章ー32 「オレの勝ちだ」

 わたしは、いったいどうしてしまったんだろう。


 どうでもいいことで腹を立てて、こんな時に樹とケンカして。自分が悪いと解っているのに、今もまだ気持ちは晴れない。


 樹が言ったことに、間違いは何一つなかった。わたしは今、魔術が使えない。それに、樹が言っていたボスモンスターのことも知っているわけじゃない。そうだ、今のわたしは役立たずだ。その場にいても何もできない、ただの足手まといだ。


 そうか。わたしが腹を立てていたのは、わたし自身になんだ。何もできない自分に、心底嫌気がさしていたんだ。だから、あんなことを言ってしまった。言わなくていいことを、樹にぶつけてしまった。


 ――あんなこと、言うんじゃなかった。


 いまさらになって、そのことを後悔する。

 あの気持ちは嘘じゃない。わたしも関係してるのに、一言も話してくれなかったことを肯定するつもりはないし、絶対に譲れない。


  それでも、言うべきじゃなかった。あの場で行ったところで、どうすることもできなかった。それこそ樹が言った通り、「言っても仕方がない」ことだ。わたしは、樹の邪魔をしただけだ。そのくせ、本当に言いたかったことは今考えれば全く言えてなかった。


 どう言葉にすればいいのか、解らなかった。たくさんの気持ちがありすぎて、どれがどれだか解らなかった。本当に言いたいことが、うまく言葉にできなかった。


 わたしは――、


「――――ッ⁉」


 いきなり、キーンという耳鳴りが襲う。とっさに耳をふさぐけど、もちろん消えるはずがない。しかも、これはただの耳鳴りじゃない。つい先日聞こえた、あのときの声だ。


 ――あなたは、誰なの?


 そう問いかける。でも、答えは返ってこない。問いかければ問いかけるほど、わたしの中で焦りにも似た何かが膨らんでいくのを感じる。あのとき感じたものと、全く同じ。


 杞憂だった――ボス部屋に乱入した後、そう思って安堵した。だけど、そのあと聞いたもう一体のボスモンスター。いくらわたしでも、あの夢が何を指していたのかくらいはっきり分かった。


 そいつだったんだ。わたしが見ていたのはゴーレムじゃない。もう一体のボスモンスター《ヴィンセント・コボルバルド》のことだったんだ。

 いま、樹が戦っているモンスターのことだったんだ。


 ――あれは……ただの夢じゃない。


 思い過ごしだとか、深く考えすぎだとか、普通はそう考えるのが自然だと思う。もし本当なら、これは未来予知だ。日本にいたなら、こんなことで命をかけたりしない。


 だけど、そんな気持ちはもうみじんも起こらなかった。多分あの記憶は、ここで死んだ誰かの記憶。理由も誰かも解からないけど、その誰かが、わたしに夢で伝えてくれているんだ。


 でも、わたしには何もできない。


 魔術も使えないそんなわたしが、あの場所に行ったって何もすることはない。むしろ邪魔になる。樹が振るう刀を鈍らせるだけだ。


 ああ、本当に情けない――心の底から、自分に対する嫌悪感が湧いてくる。こんな時にいったい何をしているのか。負の感情が広がっていく。


 何かある、そのことは解っているのに。せっかく、誰かが力を貸してくれてるのに。

 わたしは、何もできない。


 そのとき、


「――――!」


 もう一度、頭の中に声が響いた。


 声がこだまする。


 わたしに、語りかける。


 ◇◆   ◇◆   ◇◆


 ――奴は、四方魔法陣が使えます。正確にはそれに似たものですが、その領域内にいたら間違いなく死ぬということだけは確かです。

 ――四方魔法陣ということは、恐らく、オドの過剰活性が原因だと思われます。だとすれば、その領域から出ていれば死ぬことはないはずです。


 違う。全く別物だったんだ。


 作戦時に話した言葉がよみがえる。それが、全く見当違いのことを言っていたのだといまさら理解する。あれは、四方魔法陣なんかじゃなかった。それによく似た全く別の何かだ。


 今やっと解った。記憶にあったあの場所で起こったのは、四方魔法陣じゃない。もっとずっと単純なもの――瘴気濃度の急激な上昇だったのだ。マスクをしなければ命など数秒で尽きてしまうほどに高濃度の瘴気がまき散らされていたのだ。


「……クソッ」


 舌打ちする。これなら、四方魔法陣の方がまだましだった。

 四方魔法陣の攻撃は、オドを過活動状態にさせるという効果が瞬間的なものだ。サークルから距離を取ってさえいれば、魔法の影響を受けることは皆無。発動時にその場にいなければ、すぐに攻略が再開できる。再突入したところで、魔法の効果はもう消えている。


 だけど、これは違う。これは、ただ単純に瘴気をまき散らしただけなのだ。バケツをひっくり返すように、瘴気という水をぶちまけただけ。ぶちまけられた水は、乾くまでその場に留まり続ける。

 瘴気が、消えることはない。


 この濃すぎる瘴気じゃ、魔法はまともに発動しない。それに、いま俺たちが生きていられるのはマスクをかぶっているからだ。外した瞬間、瘴気で内臓がイカレてしまう。


 魔法支援→なし。

 マスクも外せない=回復薬→使用不可。

 無い。無い。無いもの尽くし。このままじゃ……、


 俺たちは、何もできないじゃないか。


「――ッ」


 唇をかむ。唇が裂けたのか、口の中に鉄臭い風味が広がる。


 ヴィンセント・コボルバルドは動かない。技を発動した反動だろうか。いまこの瞬間も、あの巨体には目に見える輝線がいくつも浮かんでは消えている。いま全力で攻撃すれば、確実に動きを止められる。腕の一本や二本は確実に斬り落とせるというのに。


 突然、


「――――? ケホッ、エホッ!」


 喉に違和感が生じた。

 思わずせき込む。何かが詰まったときの感じじゃない。もっとこう……煙を吸い込んだ時に感じるあれだ。明らか人体に有毒なものを吸い込んだ時に出る拒絶反応に近い。


 いつしかそれは、のどを焦がすような痛みに変わっていた。せき込む。何度もせき込む。しかし、どうやってもこの違和感は取れることなく、どれだけ吐き出しても吐き出した量よりも多いそれが新たに侵入してくる。


 その〝何か〟はまるで、ここ一帯すべてに漂っているようで――、


 ――まさか……ッ。


 計測器に(正確には、そこにはめ込まれた晶石)に目を落とす。持っても望んでいない状況が、俺の目に飛び込んできた。


 晶石が、黒く変色している。


 晶石は、吸収限界まで瘴気を取り込んでしまうと黒く変色する。つまりここ一帯には、主席が一瞬でこうなってしまうほどの瘴気が滞留しているということになる。そんなもの、人体の許容限界までしか測ることのできない計測器じゃ測れるはずない。


 それに、計測器にはめ込まれている石は俺のマスクに内蔵されているものを砕いた破片だ。つまり、いま俺がつけているマスクの中は、この石と同じ状態になっている。もちろん、そんな状態でマスクがまともに機能するはずがない。


 このままでは、俺はすぐに瘴気中毒だ。


『三番隊、マスクが使用限界。もう戦えない!』


 しかも、それは俺だけではなかった。通信機からは、各分隊から連絡が入ってくる。もうあと一押しなのに、もうあと一歩なのに、それができない。


 考えろ、考えろ考えろ!

 もうあと少しなんだ。あと少しで倒せるんだっ。考えろ。魔法も攻撃もできないこの状況で、ヤツを倒せる一手を。どうにかするための一手を。


 考えなくてはいけなかった。


「時間切れです。撤退しましょう」


 背中から、その声がかけられた。独特の声。見なくても解かる。声の主は今、無表情で俺を見つめている。


「でも!」


 それでも、食い下がる。なぜなら、こんなチャンスはもう二度とないんだから。


 いまあいつは、自らの瘴気を出しすぎて動かないだけだ。すぐに瘴気が補充され、動き出す。そうなれば、また最初の状態に逆戻りだ。それに、放置する以上瘴気は再びたまり続ける。もう、いまと同じ強さということはないはずだ。むしろ、いまよりも強くなるだけ戦況は悪化する。装備をもう一度整えるまでに、ここにいる俺たちだけでは確実に手に負えなくなる。


 ここで撤退すれば、もうここまで追いつめられることはない。


「私たちにできるのはここまでです」


「…………ッ」


「引き際を見誤るな」


 ぴしゃりと、そう言い放たれる。その表情が、無表情を通り越し能面のように無機物的なものになっていく。会話をする意思など、端から存在しないと言わんばかりに。


「いまの装備では、アレを倒しきれはしません」


 動けない。何も言い返せない。


 あとほんの一撃ですべてが終わる。もう少しで、この迷宮が完全に攻略できる。


 冗談じゃなく、今が勝機なのだ。攻略隊の損傷率、ヴィンセント・コボルバルドの受けたダメージ量・核の保有する瘴気の量・攻撃力――どれ一つとってもいま以上に良い状態に持っていくことはもうできない。この瘴気濃度だ、突入可能になるまで時間がかかるはずだ。その間に、奴が強化されてしまうのは確実。

 それでも、レグ大尉の言葉には反論できなかった。


 俺には、どうすることもできないから。


「………………撤退します」


 どうにか、その言葉を絞り出す。通信機の回線をつなぐ。全員に向けて発する「退却」という言葉のために、私情を殴り捨てる。


「全員――――」


 響いたのは、人外の絶叫だった。


「……は?」


 退却の合図は、間抜けな疑問詞へと変わる

 ヴィンセント・コボルバルドが、何者かに縫い付けられたかのように地面へと突っ伏した。巨体に刺さっているのは、俺の身体ほどの直径を持つ氷の杭。それが何本も突き刺さり、貫通して瘴気をまき散らす。


 ごうっ! と、突風が吹き荒れた。真後ろから叩きつける突風が、俺たちの周りにある空気と入れ替わるように広間内へと侵入する。さっきまであった痛みが和らいでいく。瘴気濃度が下がっていくのが、計測器を見なくとも解った。


 風上はもちろん、広面の入り口。


 振り返る。そこにいたのは、よく知った人だった。

 この世界で生きる術を教えてくれた、命の恩人。そして、俺がいま一番会いたくない人。


「ずいぶんと苦戦しているようじゃないか」


 魔導士ミレーナが、不敵な笑みを浮かべ迷宮攻略戦に乱入した。


 ◇◆


「ミレーナさん……どうして」


 こんな時だというのに、真っ先に浮かんだのはそれだった。全く理解できなかった。彼女がここにいる理由が思いつかなかった。


 ミレーナは、俺たちを拾ってから色々と調整を行っていた。いまだって、ミレーナは王都にいるはずだったのだ。王都とここの距離は、一日やそこらで踏破できるようなものじゃなかったはずだ。だというのに何故、ミレーナがここにいるというのか。


「まったく。自分の命を優先しろと言ったはずだが?」


「…………すいません」


 そんな思いなど知る由もなく、ミレーナのジトリとした視線が俺だけに注がれる。しばらくそうした後、心底疲れたように大きなため息をついた。


「ハルカも相当だが……君も大概だぞ」


「雨宮も……?」


「ん? ああ。私をここに引っ張ってきたのがハルカだってことだ。まあ、それは後だ――」


 そこで言葉を切る。ミレーナの視線が、俺からヴィンセント・コボルバルドに移る。


「あいつを何とかしようか」


 ほんの数秒、目を細め、黙って奴を見つめる。彼女から蒸気のように吹き出してくる、威圧にも似た何か。それに俺たちは囚われ、何もできなくなる。見ているのはヴィンセント・コボルバルド。そして、突き刺さった氷柱。


 見つめるその顔は、なぜか何とも苦いものだった。


「あなたにしてはお粗末ですね。さっさと核を狙えばよかったものを」


「解っているくせに」


 声をかけたのは、今まで黙っていたレグ大尉。しかし、それを聞いてもミレーナが振り返ることなく、

 あくまで視線はそのままであった。


「逸れた。瘴気が濃すぎて制御が利かない」


 どよめきが起こった。あのミレーナがと、ここにいる者ほとんどが仰天していた。

 これは、ミレーナに拾われてからかなり後になって聞いた話だ。彼女は、他の追随を許さないほど優秀な魔導士であるらしい。そもそも、『魔導士』という肩書きは勝手に名乗ることができず、かつそう名乗れる人間はほとんどいないらしい。


「魔術師」「魔法士」の二つを合わせその最も上に位置するのが「魔導士」という称号なのだ。地を割り、海を凍てつかせる――そう言った人知を超える力を持つ者が名乗れる称号なのだ。


 本当は、ミレーナが現れた時かすかに期待したのだ。魔導士という称号を持つ彼女なら、俺たちにできないことができるのではないか。この状況を、何とかひっくり返すことができるのではないか、と。


 しかし、先の一言で否応なしに解ってしまった。理解せざるを得なかった。「魔導士」をもってして魔法が逸れる、それが意味することについて。


 彼女ですらもできないことが、俺たちにできるはずがない。


「一度撤退だ。この状況では、私でもどうにもならん」


 ミレーナはそう言って、未だ動けないヴィンセント・コボルバルドに背を向ける。いま叩けば倒せそうな状態であるのに、そんなことは関係ないとでも言いたげな態度。それに反対する人間は、この場には一人もいなかった。この状況では何もできないことを、いち早く察していたのだ。


 俺を除いて。


 皆が撤退の体勢を整え、ゆっくりと後退していく。もう誰も、ヴィンセント・コボルバルドに目を向けることはない。


 しかし俺は、その場に立ち止まったままだった。

 右ポケットに手を入れる。すると、むこうの世界で触り慣れたつるりとした感触が指先をなでる。溶けもせず、何の味もしない、プラスチックの感触。少し揺さぶれば、中で錠剤がころころと転がる振動が手に伝わる。


 ――……これを、使えば……。


 ついさっき、不意にこれの存在を思い出した。

 ひとつだけ、この状況をどうにかできるかもしれない手があった。瘴気の濃度に関係なく、確実にダメージを与えられ、かつ倒せる可能性の高いものが。しかも、俺にしかできないことが。


 問題は、これを使うには一人ではリスキーすぎるということ。どうにかして、ミレーナの支援を得なければ使えない。でも、そのまま話したところでミレーナは却下するはずだ。どうにかして、認めさせなければ。


 このボスモンスターを、倒したいのならば。


「……ミレーナさん」


「ダメだ」


 予想通り。


 振り向きもせず、ミレーナは俺の言葉を切り捨てる。


「瘴気の濃度が高すぎる。こんなところで、これ以上奴に通じるような魔法を使えば、誤爆でこっちが自滅しかねん」


「援護だけでいいんです」


「ふざけるな。わざわざ弟子を死にに行かせるようなまね、させるはずないだろう。それとも何か? 確実に勝てる算段でもあるのか?」


 ミレーナは、俺なんかよりもよっぽど頭の回転が速い。この場面ではったりをかましても、すぐに矛盾点を見つかられてしまうという確信がある。嘘をついても、何のメリットもない。


「確証は……ないです」


「なら却下だ」


 取り繕っても見抜かれる。感情論は問題外だ。もともと、俺は交渉できる立場じゃない。


「だけど、」


 説得以外で、俺の要求を通し、かつミレーナの支援を貰う……俺の作戦を特攻にしなくてすむような方法があるとすれば、思いつくのはこれしかない、


「もしミレーナさんが援護してくれないなら、俺は後三十秒で死にます」


「…………」


 これは、脅迫だ。ミレーナの良心を利用した、一番汚い手段だ。


「それを聞いて、私が何もしないと思うのか?」


「そうされるって解ってて、何もしてないと思いますか?」


 これが、最初で最後のはったりだ。ミレーナにはそれを見破るすべはない、そう見越した上での大博打だ。


 ここじゃなければ、ミレーナは問答無用で俺を組み伏せているはずだ。だがここでは、魔法を打つことそのものがリスクの塊になる。下手したら、気絶させるつもりで俺を殺してしまうかもしれない。いや、ミレーナならばおそらくそんなヘマはしない。例え百回同じこの条件で俺を拘束しても、成功する予感がある。


〝予感がある〟だ。


 失敗する可能性が、ゼロになるわけじゃない。魔導士であるミレーナをもってしても魔法が逸れるこの場所で、俺が用意したという対策。その不確定要素二つを鑑みれば、魔法が失敗する可能性が上がることは自明の理だ。


 魔法制御が不安定な空間、容易に嘘とは断定できない対ミレーナ用手段、そして、それを言っているのは自分の愛弟子――、


 そんな状況だからこそ、こんなことができる。

 この脅迫が、成立する可能性が出てくる。


「三分です。それで無理なら、気絶させてでも止めてください」


 最低限の理性は残っていることを見せる。決して、自暴自棄な特攻ではないことを確信させる。


「…………」


 ミレーナは何を思っているのか、俺にはさっぱり読み取れない。何の感情見とれない、無感情にさえ見える瞳。いや、もしかしたら色んな感情が混ざり過ぎてそう見えてしまうのかもしれない。


 俺を見つめる双眸は、わずかに揺れていた。目を逸らしたら負けだ、何故かそう思ってしまい、俺も黙ってミレーナを見つめる。絶対に譲るつもりはない、そんな決意を込めて。


 思い返せば、どうして俺はここまでこだわっているんだろう。自分の命を懸けてまで、ヴィンセント・コボルバルドを攻略しようと躍起になっているのだろう。


 このタイミングを逃せば、迷宮の攻略が危うくなってしまうから? それはもちろんあると思う。だけど多分、それは付属品に過ぎないんだと思う。あくまで、外面をおおっている部分に過ぎない。根幹にあるのは、そんな気持ちじゃない。


 ここに来てから、ずっとそうだった。

 何故か、思ってしまうのだ。俺自身はこの怪物にも、迷宮にも、接点といえるものは何もない。そもそも、ガルダが来なければ始まりもしなかったことだ。それでも、心のどこかで誰かが叫んでいるのだ。


 これは、オレがやらなきゃいけないことなんだと。


「…………全く」


 永遠にも思える数秒が過ぎたころ、ポツリとミレーナが呟いた。


「どうしてそこまで似ているんだ。君たちは……ッ」


 その声には、はっきりとした苛立ちがこもっていたのが解った。それだけじゃない。ガシガシと、ミレーナは乱暴に頭を掻く。整えてあった髪が見る間にぼさぼさになっていく。


 そして、


「三分が限度だ」


「充分です。ジャストで多分倒れますから」


 それは、事実上の援護宣言。

 そう返し終わる前に、ポケットから錠剤の入ったプラスチックケースを取り出す。中に入っているのは、錬成術――正確には魔法薬学――の知識を用いて作り出した秘密兵器。すぐさまふたを開け、数すら見ず乱暴に手の平へとぶちまける。指先で二つだけつかみ、それ以外はすべて地面にまき散らす。


「……! イツキ、まさか」


 残念。もう遅い。


 何をしようとしているのか、ミレーナはすぐさま理解したのだろう。すぐに静止しようと、俺に声をかける。だが、それすら無視して錠剤をかみ砕いた。


「うえッ⁉」


 その途端、舌が燃え上がるような感覚に襲われる。それでも構わず、唾液と共に一気に飲み込む。胃の中がカアッと熱くなる。数秒もしないうちに、全身を火で炙られているような激痛が襲う。


 カチリ――――ッ。


 身体の中で、何かが外れたような感触がした。


 ◇◆   ◇◆   ◇◆


 ――迷宮内、地下深く――


 さっきミレーナに教えてもらった知識。それを分析すると、ひとつの場所が浮かび上がった。迷宮の奥深くで、それでいてマナの流れが強烈な場所。思い当たるような場所が一つだけあった。どれくらい走ったのだろう。たどり着いた場所には、予想通りの代物があった。


 ――やっぱりあった。 


 後ろで、追ってきた騎士たちが息を呑むのが解った。それを背中で聞きながら、目の前の壁に刻まれたものへと意識を向ける。


 よく考えれば、この迷宮はおかしいところだらけなのだ。迷宮にしては瘴気濃度が低すぎる。そうかと思えば、ボス部屋の瘴気は反対に高濃度すぎる。両極端なのだ。


 そしてもうひとつ。この迷宮には、普通の迷宮にはあり得ないはずの、霊脈が流れている印があった。つまりこの真下には霊脈がある。ここに来る途中で建てた仮説はどうやら正しかったようだ。瘴気の濃度が極端に低かったのは、マナを運ぶ霊脈が瘴気を霧散させていたのだ。


 だけど、そんなこと絶対にあり得ない。そもそも迷宮は、霊脈の真上にできることはない。マナと瘴気の相性を考えればすぐに解ることだ。加えて霊脈が真下にあるにも関わらず、ボス部屋の瘴気濃度は以上に高い。もちろん、それだってどう考えても不自然だ。


 あり得ない条件が、同時にいくつもそろっている。それは、明らかに自然法則を捻じ曲げていることを示している。だとするなら、その原因は目の前のこれしかない。


「……こんなところに魔法陣が……」


 そんな声が、隣の魔法士からこぼれだす。


 壁からむき出しになった、マナを通すには絶好の透明な水晶体。その場所に深く彫り込まれた、見たこともないほど複雑な幾何学模様。それは、陣の真下を流れるマナが絶えず力を供給し、半永久機関となって作動するように仕込まれた恐ろしく高度な魔法陣。これによってマナが瘴気へと変換され、迷宮内(正確にはボス部屋)へと流れている。


 ミレーナに与えられた教科書の中にそれがあった。〝反転魔法陣〟マナが極端に薄い場所で、瘴気を無理やりマナへと変換する魔法陣。人類の生存圏を大きく広げた、画期的な魔法陣。そして当然、瘴気をマナに変えられるのならば、逆方向も理論上は可能。さしずめ〝逆〟反転魔法陣とでも言えばいいのか。


 ――……違う。それだけじゃない。


 思考する。もし、晴香がこの魔法陣を刻んだ人物であるならば、この状況をどうやって作り出すか。

 この魔法陣でわかったことは。ここでマナが瘴気に変わっているということだけだ。根本的な、「なぜ霊脈がある場所に迷宮ができたか」という部分がまだ解けていない。


 霊脈がある場所に迷宮を造るなら。それを達成するための一番効率のいい方法は何だろうか。自分ならどうするだろうか。霊脈の上に、この巨大な迷宮を造るならどうするか――――、


 迷宮を造る?


「……あ」


 その答えは、実に単純なものだった。


「迷宮って、人工的に造れませんよね?」


「ああ。その通りだ」


 たった一往復の短い会話。議論するにしては、あまりに短すぎる。しかし、それでも予想は確証に近いものへと変わる。


 迷宮は、偶発的に発生する「生命体」に近い存在とされている。生命を創るということが人間にはできない以上、そもそもの話、迷宮を造ることそのものが不可能だ。つまりこの環境は、「霊脈の上に迷宮を造った」のではない。


 迷宮の真下に、霊脈を作ったのだ。


 霊脈は、大きなマナという力を運ぶ地下水脈と考えてもいい。だとすれば、理論上はその流れを変えることができる。それを固定する誘導魔法陣というものが確かに存在する。しかし、ひとつの魔法陣ではごく少量のマナしか引っ張ってくることができないはずだ。それでも、理論上は不可能ではない。理論上は可能という、実績のない非常に危うく、かつ高度な芸当。とても実現できるとは思えないほどの達人業だ。


 だとしても、自分が同じ環境を作るなら間違いなくそうする。


 ――だったら……。


 魔法陣を注視する。仮説が正しいのであれば、この魔法陣にすべての答えがある。仮説が正しければ、この異様な造形の魔法陣の説明もつく。


 この魔法陣には、余計な書き込みが多すぎる。マナを瘴気に変えるだけならば、もっと単純な造りであっても十分に機能するはずだ。


 しかし、もしもこの魔法陣が、二つの概念を持っているとしたら……?


 魔法陣を重ねる。その技術はよく用いられる。だが、それは簡単な魔法陣においてのみだ。こんな複雑な魔法陣二つを重ねるなんて、正気の沙汰じゃない。


「この中で、魔法陣の回路修正ができる人はどれくらいいますか?」


「私たち二人は可能よ。何をすればいいの?」


「この魔法陣を、二つに分離したいんです」


「解ったわ。私たちに任せて」


 お願いします、その言葉を聞く前に魔法士の二人は作業に移る。同時に騎士は周りに展開し、魔獣が来ないように見張る。


「…………」


 魔法士ふたりが作業をする中、魔法陣を凝視する。ひとつの魔法陣を、変換魔法陣、座標固魔法陣の二つに分離する。それぞれに対応する箇所を見つけ、脳内で二つの陣を同時に組み立てる。


 頬に、ひやりと冷たい感触を感じる。冷や汗をかいているのだと、ワンテンポ遅れて理解する。


 この魔法陣は、霊脈を引いて固定する魔法陣、引いてきたマナを瘴気に変換する魔法陣の二つで造られている。ここで霊脈を切るわけにはいかない。切ってしまえば霊脈がここで詰まる。それだけはどうしても避けたい。


 違う。これじゃない。ここは……ここにつながってて……、


 頭の中で魔法陣を分解し、いくつものパターンを作る。構造的に矛盾しているものを除き、どの部分がマナの変換に使われているのかを絞っていく。隠されている魔法陣を、頭の中で構築していく。


 ――瘴気をマナに変える魔法陣は、見た目ほど難しくない。瘴気とマナを繋いでいるのは、一本の太い回路。あとの部分は全部逆流しないようにしているだけだ。魔法陣を安定させるコツは、その回路をどこまで太く強くするかにある。


 授業時のミレーナの言葉が蘇る。


 目の前で、魔法陣はどんどんと形を変え複雑になっていく。水晶体には新たな傷が彫り込まれ、それが新たな回路となってマナの通り道と化する。簡単に言えば、道をいくつも作っている工事に等しい。こうすれば、二つの魔法陣が共有している回路を切断しても、それぞれの魔法陣が機能停止することはない。


 もっと本質を見ろ、そう自分に言い聞かせる。その複雑な見た目は見せかけだ。この魔法陣の起動式となる部分はだけは変えられない。そこを見つけ出せ。そこに繋がっている回路を把握しろ。


 ――……あった。


 あや取りのように絡み合った魔法回路。その中にひとつ、ミレーナが言っていた起動回路が浮かび上がった。両端に五本、両手をくっつけたような形をした魔法回路。それを見つけた途端、脳内では魔法陣が一気にその形を現していく。


 晴香の脳内で、二つの魔法陣が完全に分離した。重なっていた模様付セロハンをはがすように、それぞれの魔法陣が独立し、脳内で構築される。


「終わったわよ。もう触って大丈夫。この魔法陣は……」


「〝逆〟反転魔法陣と、霊脈誘導陣」


「まさか……そんなものを重ねるなんて」


「多分……いいえ。これが迷宮に瘴気をばらまいている原因です」


 脳内分離させた魔法陣は、どちらもきれいな五角形。どちらも回路が蜘蛛の巣のように広がっているという、丁寧な偽装回路装備の魔法陣。ふたつの結合部分どころか、どんな魔法陣をいくつ重ねたのかすらもそのままでは絶対に解らない。


 ――……すごい。


 やっぱり、これを描いた人は天才だ。


 息を吸う。大丈夫、これからやることは何も難しくはない。ただ、初めて一人でするだけだ。


「――……いまから。逆反転魔法陣を切断します」


 音もなく、魔法士のふたりが魔法陣の外部調整を始める。さすがは王宮魔導士に所属する魔法士。初見の魔法陣であっても、その手つきが乱れるような様子はない。そのおかげで、しなければいけないことが一気になくなる。回路の切断だけに集中できる。


 お目当ての回路に指を置く。そのままツツツと滑らせ、回路のマナを探っていく。どこで切れば一番反動が小さいか。マナの流れを妨げず切断できるか。


 ぴたりと、とある場所で指が止まる。最も入り組み、かつマナが瘴気へと変えられているまさにその部分。その付け根の部分から、回り込むようにして別の回路を並列になるよう繋ぐ。刻み終え、いよいよ切断部へとナイフを持っていく。


 不意に、腹立たしく語尾を荒らげていたミレーナの姿を思い出す。散々勝手な行動をとり、それでも晴香の行動を許してくれた恩のある人であり尊敬する師匠。まるで、「なぜ君はそこまでする」そう訊きたかったように感じた。


 どうしてだろう。それはよくわからない。はっきり言えば、こんなことなんてする必要はないんだと思う。ミレーナさんが向こうへ加勢したなら、たしかにこれは無駄かもしれない。

 だけど、そうしてもそうは思えなかった。ひとつの予感が、ずっと頭から離れなかった。


 樹は、必ず無茶をする。


 だって、そういう人だって知ってるから。いつもは冷静なはずなのに、譲れないと思ってしまったことにはびっくりするほど強情で、呆れるほど意地っ張り。諦めるなんて選択肢はなくなるし、周りが見えないほど熱くなる。


 危なっかしくて。だけどなぜか心惹かれて。それでもやっぱり危なっかしい。ひとりになんてさせちゃいけない。そう思ってしまう。感じてしまう。どこか壊れてしまいそうなほど無理する姿に、どうしようもなくハラハラさせられる。結局、無視することなんかできなくなる。


 樹はあきらめない。なぜかそんな気がしてしまう。たとえ自分の命を懸けるような手段をとっても、ボスモンスターに立ち向かっていくような予感しかしない。この気持ちは多分杞憂に終わると思う。否、そうであってほしい。それでも、ひょっとするとひょっとするかもしれない。


 もしそうだとしても、わたしは助けに行けない。こんな身体でボス戦へ突入なんて、樹の邪魔にしかならない。そんなことしちゃいけない。でも、このまま黙って待つなんて嫌だ。何もしないで、樹が傷ついていくのは我慢できない。できることをやらないで、またあの時のようになるのはお断りだ。


 自分勝手上等。自己満足上等。自分の性格が悪いことなんてとっくに知っている。これが、自分の気を紛らわす自己満足で、樹を助けるのは心の均衡のためと言われても構うもんか。


 それで樹の力になれるなら、動機も理由もどうだっていい。


 黒曜石のナイフを、切断部位にあてがう。キリリと、刃先が水晶とこすれ音を立てる。もう少し、たった一度体重をかければ、この回路は切断される。


 まだ。ちゃんと樹に謝ってない。でも、わたしにも言い分がある。絶対もう一度会うんだ。もう一度けんかして、それからちゃんと言ってあげるんだ。


 ずっとずっと、罪悪感で言えなかったこと。


 傷ついて、抱え込んで、壊れてほしくなんてないから。




 

 パキンッ!

 ガラスにひびが入ったような感触。

 ナイフを握る両手に、それが確かに伝わった。


 ◇◆   ◇◆   ◇◆


 熱い。


 体中が、バーナーで炙られているかのように痛い。前に試したときはこんなことはなかったのに、もしかしたら何か間違っていたのだろうか。


 ――……軽い。


 だが、身体は異常なほど軽い。足先にかかる体重は、とても全体重とは思えないほど軽く、柔らか。身体に当たっているはずの風は、まるで実体がないようにすり抜けていく。空気抵抗という概念がなくなってしまったかのようだ。


 身体を動かす感覚は、ゲームのアバターを動かしているときと変わらない。むしろ、こっちの方が融通が利くかもしれない。


 チラリと、取り換えた計測器を見る。そこにはめられている晶石は、先ほど取り換えたにも関わらずすでに濁り始めている。完全に染まりきるまで、持って五分といったところだろう。長期戦はできない。でもそれでいい。元よりするつもりなんかない。


《ガァァァァアアアッ‼》


 ヴィンセント・コボルバルドが咆えた。技後硬直から抜け出し、その視線はまっすぐ俺へと固定される。咆哮と共に背中へと巨腕が回っている。そこに刺さっているのは、かつてこいつを追い詰めた戦士たちの得物。それがひとつかみ抜き取られる。その右腕を、可動域限界まで引っ張っていき、


 真っすぐ見据えた俺に向かって、一気に投擲した。


 長剣が。斧が。盾が、槍が、弓の矢が、乱暴な軌道を描き暴力的な速度で飛来する。そのすべてを、灰色の世界で視認する。


 ――直撃しそうなのは四つ。


 抜き放った黒刀にオドを込める。世界樹がオドを吸い、走った後には青白い粒子の線が残る。


 地面をひときわ強く踏み込む。全身の骨が軋みを上げながら、身体が前へと打ち出される。斜め上から降ってくる錆びだらけの武器が、一気に肉薄する。そして、一気に身体をひねり刀を唸らせる。


 カタナスキル・四連撃・《突旋(ツキツムジ)》。直進を続けながら、飛んでくる狂気を弾き飛ばす。真正面から叩かない。側面を切りつけるような斬撃が、飛来物の起動をわずかにずらす。それは、たかが十数センチ。しかしそれだけで、俺の身体が進む道が出来上がる。ヤツの懐に入り込める。


 ――……来る!


 身体を限界まで倒し、転倒直前の体勢で疾走する。真横から、ものすごい勢いで左腕が迫る。そのときにはすでに、身体はその攻撃を捌きにかかっていた。死角からの攻撃――初見では絶対に対処不可能な攻撃を、身体は紙一重で切り抜ける。


 巨腕が服をかすめた。竜巻のような突風が巻き起こり、強烈な力で渦へと身体を引きずり込む。流れに逆らうことなく真後ろの発生源へと軽く跳躍。後ろを振り返らずに足を伸ばす。


 ダン! という強い衝撃が両足裏に伝わる。まるでそれを知っていたかのように、両足は前へと思いっきり跳躍する。突風を逆に利用し、勢いを増してそこから抜け出す。そのまま懐へと一気に入り込む。目の前で現れては消える大小さまざまな輝線。その中で腱に当たる部分を思いっきり切り裂く。


「――――⁉ 痛ッ‼」


 途端、腕に激痛が走る。しかしその直後、痛みは掻きむしりたくなるような感覚に取って代わられる。現実時間にして約二秒。それだけで、腕の不調はきれいさっぱり消える。


『火事場のバカ力』ということわざを聞いたことがあるだろうか。簡単に言えば、脳は常に八割の力しか出せないようにリミッターをかけている。それが、緊急時には外され百パーセントの力が出せるのだ。


 そして、それはオドにも同じことが言える。俺たちの身体は、普段はオドの瞬間放出量を制限しているのだ。しかしこっちのリミッターは、死の直前になったときくらいにしか解除されない。この丸薬の効果はつまり、そのリミッターを意図的に解除する薬だ。ミレーナから学んだ錬成術。そこに位置する魔法薬学を用いて作った唯一の戦闘手段だ。


 ――速く、速く。もっと速く。もっと強く!


 通り過ぎて急反転。的の輝線に急加速。その位置で急制動、慣性を無理やり殺し次の目標を探す。それは、常人にはまず無理な軌道。サーカスの曲芸師はもちろん、最新鋭の小型ロボットでさえもまねできないほど極端な、弾むスーパーボールでも見ているような動き。


 斬って避けて、急停止の後急加速。重要な位置ばかりを狙った斬撃は、ヴィンセント・コボルバルドの身体に癒えぬ傷を負わせていく。攻撃の勢いが弱まり、わずかながらに速度が落ちる。その代償とでも言うように、俺に身体にも激痛が走りそれが癒えるというサイクルが繰り返される。


 ここまでで、何十秒経っただろうか。その思考が浮かんだ途端、背中に冷たい感覚が走る。〝残り時間〟その概念が頭をよぎる。


 この丸薬は、俺が唯一つかえる『白兵戦闘』の幅を大きく広げている。死角からの奇襲、攻撃からの離脱、相手を上回る高速移動。そして、異常なほどの回復能力。まだまだ思い通りに身体は動かない。だがリミッターを解除し、火事場のバカ力を任意に行使できるのだ。デメリットを差し引いてなお、それは大きなアドバンテージになる。


 だが当然、そんなものがノーリスクなわけがない。


 そもそも、こんなに便利な能力があるのなら常時使えるようになっているはずだ。それなのに、オドの放出量に制限がかかっていることからしてその理由がよく解る。簡単な話だ。ただ単純に、常時使えるようにすると危険、ということに他ならない。


 俺たちの身体は、生きているだけで自分の中にあるオドを喰らっている。それでもオドがなくならないのは、生成される量が消費量を大幅に上回っているからだ。もしそれが逆転し、完全にオドを使い切ってしまったら、身体に回すオドがなくなってしまったら……言うまでもなく、身体は活動を停止する。


 その限界が三分。それ以上動くと、本当にどうなるか分かったものじゃない。何としても時間内に、ヴィンセント・コボルバルドを決着をつけなくてはいけな――


「――――⁉ っと」


 ぞわりと、背筋に別の感覚が走る。刃先で背中をなでられたような、冷たくも熱い感覚。気が付けば、身体は勝手に右へと転がっていた。ヴィンセント・コボルバルドの頭部から距離をとる。そのまま何も考えず、一気に距離をとる。視界の隅で、巨大な顎が口腔内をあらわにしていた。


《オオオォォッツ‼》


 黒い炎が巨大な口から噴き出した。それはまるで大気に溶けるように、空間いっぱいに広がっていく。薄くはなっても、それは消えることなくこの場に滞留し続ける。否、これは炎じゃない。超高濃度に濃縮された瘴気だ。もし、あの煙に飲まれていたら……。


 バクバクと、心臓が爆発を繰り返す。耳の奥深くで、血管がうるさいくらいに裏から鼓膜を揺らしつける。やはり危険だ。これ以上何かされる前に動きを止めなければ。


 と、思った矢先。


 ひときわ強く、ヴィンセント・コボルバルドが雄叫びを上げた。それとほぼ同時に、地面からいびつなサークルが姿を現した。ついさっき見た行動、見た光景。記憶に突き当たるよりも前に、本能はその正体を感じていた。また、使うつもりなのだ。さっきは間一髪で犠牲者が出なかった悪魔の魔法陣を。


「ッ! クソ!」


 残り時間約二分。舌打ちしながら、サークル外へと走り出す。それを見逃すはずもなく、ヴィンセント・コボルバルドの目は俺をとらえ続けている。首筋に感じるチリチリとした感覚。()()()()()()()()()()()。ヤツの動きが見ていなくてもなぜか解かる。


 そのとき、頭上を何かが走った。そのコンマ数秒後、腑抜けた破裂音が耳に届く。それと同時に、不自然なほどの突風が背中を叩きつけた。身体が一瞬持ち上がり、空を切った両足がもつれる。倒れる! そう思った直後、突風第二波によって身体は大きく前へと吹き飛ばされる。


 放物線を描く身体の真下で、大小さまざまな武器が地面へと突き刺さった。そこは、俺が走っていたはずの場所。ぶわっと、全身から汗が噴き出す。


 あのまま逃げていたら、俺は死んでいた。


 しかし今はそれすらもゆっくり考えていることはできなかった。近づく地面が目に入り、再度別のひやりとした感覚。受け身をとろうと身体を丸める。


 衝撃、続く横回転。ゴロゴロと派手に転がり、四回転五回転。それで強引に勢いを殺し、ぐらつく頭を押さえながら立ち上がる。


「すまないが。あれで限界だ」


 真横から、ミレーナの声がした。

 ヴィンセント・コボルバルドの巨体は、濃い色の煙幕に包まれていた。なるほど、攻撃が逸れていたのはあれで視界が遮られていたからか。それに、俺を吹き飛ばしたあの突風も、多分ミレーナが起こしたもの。


「いえ。充分です」


 攻撃魔法は座標がずれる。それを瞬時に判断し、続けて座標固定のいらない魔法を選択。魔法の制御が利かないこの状況にもかかわらずよくこれだけのことを。こんな状況ながらも、師匠の神業には頭が下がる。


 マスクのフィルター部分を交換する。たった数十秒――一分にも満たないこの間に、新品の晶石は黒く薄汚れてしまっていた。舌打ちしそうになるのをこらえる。身体のことを考えれば、もう悠長に攻撃なんかしてられない。


 ここが勝負だ。


「一気に仕掛けてみます。……ちょっと早いけど」


 その直後、光がサークルから迸った。



「――――⁉」


 それは俺たちを巻き込み、部屋中に広がっていく。さっきとは明らかに違う攻撃、それを理解したときにはもう遅かった。光が、俺たちを包み込んでいく。輪郭すら消し飛ばすほどの光量に、全員が身体を固めてしまう。

 刹那、


 ()()()()()()()()()()()()()が、ボス部屋に木霊した。


 何が起こったのか、すぐに解らなかった。

 光に巻き込まれ、さっきとは違う感覚があった。そして気が付いたら、


 あいつが、悲鳴を上げていた。


「…………は?」


 思わずそんな声が零れる。

 普通に考えれば、あれは四方魔法陣。あいつには悲鳴を上げるような何かはなかったはず。それなのに、どうして奴はいきなり奇声を上げあんなに苦しそうな様子なのだろうか。それに、さっきの妙な感覚。あれはいったい――、


 突然、


「……! イツキ、そのまま行け‼ 理由は後で話す」


 真横から、ミレーナの檄が飛ぶ。その直後、俺の身体は風によって持ち上げられ、そのまま前へと放り出された。着地点から足を前に踏み出す。言われた通り、黒刀を構え奴に向かって疾走する。


 すぐに、通信機からミレーナの声が届いた。


『簡単に言うぞ。ヤツの魔法は失敗した。放出したのは、大量のマナだ。ヤツは今、そのダメージを受けている』


 体からは、おびただしい量の瘴気が吹き出している。しかし、すぐにふさがるはずの傷がふさがっていない。


『使っていた瘴気は全てマナへと変わった。もう瘴気の補充はできない。それから今この空間は、そのマナと瘴気が混ざった特殊な状態になっている』


 そうか、さっきの感覚はマナが補充された時の感覚だったのだ。いままで当たり前にマナが存在する環境にいたから気が付かなかった。ということは、ミレーナの魔法が……。


『多少時間はかかるが魔法が使える。だが、大火力はここでじゃ危険だ。私が動きを止める。それまで、削り続けろ』


「――了解!」


 同時に、カタナスキルが左足の腱を切断した。カタナスキル・単発・《草薙(クサナギ)》。高密度に込められたオドが組織に干渉し、その繋がりを断つ。


 ヴィンセント・コボルバルドの絶叫が、脳を揺さぶる。左前脚が崩れ落ち、体勢が後ろに傾く。それでも、なおも俺を殺そうと強引に再生を繰り返す。それに構うことなく、次々と体に傷を刻んでいく。


 何故だろう。ヤツの攻撃パターンが手に取るように解る。次にどんな動きが来るのか、百発百中でそれが当たる。たとえ、それが絶対に見えない死角からの攻撃でも同様だ。


 頭が状況を理解するよりも、脳が信号を出すよりも速く、気が付けば身体が動いてる。まるで、オレの意思なんか端からなかったかのように。そのことが余計に気味悪い。


 次は死角から横なぎの攻撃。跳んで避ければ真上からかみ砕かれる。避けるならすれ違うように。攻撃を当てるならその間に――――っ。


 身体が勝手に動く。オレの身体じゃないように。次に来る攻撃が、予測線となって目に映る。次は右。その次は左。もう一度左。これを避ければ一気に核まで直線が空く。そうだ。ここでもう一撃――、


「――――⁉」


 ガクンッ!


 と、身体の力が一気に抜けた。踏ん張りが急に利かなくなり、足がもつれて倒れ込む。目の前に、巨腕が映り込む。〝避けなくては!〟そのことは解っているのに身体が動かない。


 ――時間切れ⁉


 ゆっくりとした灰色の世界で、その理由がすぐに思い浮かぶ。いや、まだ時間には少しだけ余裕があったはず。だが、そんな苦情を言ったところで身体が言うことを聞くはずもない。行くりと、腕がオレへと近づいてくる。オレを叩き潰さんと、その巨腕を唸らせる。


 ……笑う彼女の姿が、一瞬だけ浮かんだ。


 動け!

 そうだ。まだ死ぬつもりなんか微塵もない。

 動けっ!

 やっとここまで来たんだ。死んでたまるか、こんなところで消えてたまるか。


 動け――ッッ‼


「どっせぇぇぇええええいッッ‼」


 ヴィンセント・コボルバルドの腕が、上に跳ね上げられた。


 その腕に刺さっているのは、斬馬刀にも似た巨大な両手剣。響いた蛮声は、その剣の持ち主。


「離れるぞ!」


 ガシッと、首根っこをつかまれる。そのままわきに抱えられ、アノスが大きく飛び退く。


 瞬間、


 巨大な石柱が地面から隆起、ヴィンセント・コボルバルドを貫いた。

 動きが、完全に止まった。


「止めはくれてやる! 跳べ、イツキ‼」


 つかんだ手でそのまま、前へと投げ出される。意味も理由も不明瞭な指示。だがその直後、身体は思いっきり両足を縮ませ、


 真っすぐヴィンセント・コボルバルドへと跳躍した。

 真下から、暴風が吹き荒れる。ミレーナの魔法だと解ったとき、オレは怪物の遥か上にいた。ヤツの背中が真下に見える。そして、ヤツの身体は完全に固定されていて身動きが取れない。


 ――あぁなるほど、そういうことか。


 〝レンギク〟をサヤに収める。ありったけのオドを込める。コイグチから青い光の粒が漏れ、大気へと広がっていく。リィン、リィンと、鈴のように澄んだ音色がわずかな振動と一緒に耳に届く。


「打ちなさい」


「よしきたぁぁぁあ!」


 やけに独特な男の声、続く野太く荒々しい声。次の瞬間――、


 ドンッ‼


 ぐもった打撃音が轟いた。人力じゃ考えられないほどの衝撃が、ヤツの身体を抜けてオレまで届く。身体中が、まるで直接拳を受けたかのように痺れ、息が詰まる。


 ボコンッ‼


 突然、ヤツの背中が一気に膨れ上がる。空気を無理やり吹き込んだかのような暴力的ふくらみは、見る間に限界へと達した。皮膚が裂ける瞬間が、灰色に映る。爆散する瞬間が、当然のごとく訪れる。


《アアアアァァァァァアアッッ⁉》


 衝撃波が伝わり、肉が大きく変形する。背中の肉がはじけ飛び、むき出しの核があらわになる。


 オレの役割は、そういうことだ。


 空中で、足を縮める。もちろんそこに地面はない。だが、それすらもお構いなしに一気に蹴りだす。両足に、確かな感触があった。地面を踏みしめているような硬い感触。落下の速さが、明らかに人為的なものへと変わる。自由落下なんてものじゃない。まるで、身体を下に向けて投げおろされる感覚。


 瞬きするたびに、地面は異常なほど近づいていく。ヴィンセント・コボルバルドの背中が、コンマ数秒の後に視界いっぱいに広がる。『核』が、すぐ目の前に迫る。


「おおおおぉぉぉおお――――ッ‼」


 カタナスキル・単発・《居合・雷刃(ライジン)


 握る右腕――硬いものを両断した確かな感覚。

 クラリ、視界が傾く。身体から、一気に力が抜けていく。目の前が暗く、意識がどこかに引きずり込まれる。もう、どこも動かせない。


 目の前で砕け散る、赤黒い大きな塊。


 よう。ざまぁみろ。

 今度は――、



 オレの勝ちだ。



遅くなって本当に申し訳ありませんでした!


回想に行ってエピローグです。あと二話で、第一章は完結となります。

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