第1章ー29 「そんなこと、解ってるよ。」
火を見るのは好きだった。
父方の実家に暖炉があり、小さい頃から慣れ親しんでいるからだろうか。両親はいわゆるエリートといわれる部類で、その所為か、毎日顔を合わせるという子供としての経験を共有できなかった。毎日、どちらかは家にいない。片方がいることもそこそこ珍しかった。だから、子供時代のほとんどを父方の実家で暮らした。
しかし、別に不仲というわけではない。仕事をしているわりには、両親共々わたしのことを愛してくれていたと思う。仕事が入っているのに旅行の計画を立てたり、たまに急遽仕事が入ってしまった時なんかは、旅行中にわたしに気が付かれないように抜け出すという暴挙に出ていた。今思っても、娘のために無理しすぎだと叱りたくなる。実際、指摘した時は笑っていた。そう言った両親の仕事上、父方の実家で平日を過ごすことが多かった
話を戻そう。わたしは、火を見るのが好きだった。
全く同じ形がなく、常に違う姿を見せる。小さい頃は、まるで自分の言葉に反応してくれているかのように錯覚していた。火は、大切な話し相手だった。自分の言葉に共感してくれているかのような、そんな気がした。
でも、今は違う。
「…………」
目の前で燃えている火を、ぼうっと見つめる。絶えず姿を変えているはずの火は、さっきから同じ形を繰り返しいているように思えてならない。まるで、今の心境をそのまま転写しているように思えてならない。炎に何を思っても仕方ないし、炎にも何の落ち度もない。だが今は、この炎の存在がなぜか腹立たしい。
なぜ、こんなことになってしまったのだろう……考えていることは、さっきからずっと同じだ。
『迷宮攻略に参加する』
会議が終わり、戻ってきた樹がそのことを告げた。
わけがわからなかった。なぜ、樹が参加する必要があるのか、あれだけ負けてしまっていたのに、なぜまた攻略組は同じことをするのか。全く理解できなかった。ゲームですらもっとマシな作戦を立てるのに、頭がどうかしてしまったのだろうか……そう本気で思った。
樹が話した理由は、不服こそあれ理解し難いものではなかったのだと思う。実際、巻き込まれる形になったルナも仕方ないといった様子で頷いていた。むしろ、割り当てられるかもしれない仕事内容に文句を言う始末だ。
だけど、わたしには全く理解できなかった。
理由を聞いても、これからどうなってしまうのかを理解しても、どうして樹が参加しなくてはいけないのかが全く解らなかった。いや、頭は理解しているが、感情が拒否していると言った方が正しいのかもしれない。だっていまも、考えていることは同じなのだ。
どうして、樹が死にに行くようなことをしなくてはいけないんだろう。どうして、この世界の者ではない樹が対処しなくてはいけないのだろう。どうして、一人で決めてしまったのだろう。
どうして、記憶のことをわたしに話してくれなかったのだろう。
焚き火のはるか向こう。数人の騎士たちを囲って樹が話をしている。たぶん、作戦を練っているのだ。樹が口を開くと質問するように彼らの口も開き、レオが補足するような動きを見せると全員が頷く。会議は順調なようだ。多分、もうしばらくで終わる。
当たり前のことだが、わたしは会議へ参加する資格はない。部外者だからとかそう言う理由じゃない。もっと、根本的な理由だ。いまのわたしは、何もできない。次の連絡隊に同行する形でここから撤退することになる。
「…………なんで……」
それがわたしの声だということに、しばらく気が付かなかった。
自分でもびっくりするような声が、口からこぼれ出ていた。恨めしいような、嫉妬しているような、怒っているような、泣いているような……そんな正体不明の声。一瞬自分が発したと気が付かったほどおぞましいそれは、鼓膜を揺すぶると同時に鳥肌を立たせた。
自分でも解らない。『なんで』これはどう言う意味なのだろう。
攻略に参加できないことだろうか。それとも、樹が記憶のことを話してくれなかったことなのだろうか。理不尽なこの状況についてなのだろうか。一人で全部決めてしまったことだろうか。
解らない。考えても考えても、自分の気持ちがよく分からない。はっきりと何か思うところがあるのは感じているのに、その正体が何なのかが全然解らない。
不意に思い出したのは、あの日盗み聞きしてしまった樹とミレーナさんとの会話。そこで、樹が言った言葉。『言っても仕方がない』その声が鼓膜の奥でよみがえり、余計に心を揺らす。
樹は一体、何を隠しているのだろう。それに、どうしてそれを言ってくれないのだろう。
『言いたくない』は納得できる。わたしも経験があるし、今も言いたくなくて他人に隠していることはたくさんあるからだ。だけど、『言っても仕方ない』は納得できない。
どうして、言っても仕方がないと断定できるのだろう。たしかに、誰が見てもそうだと言えるものもあるとは思う。だけど、一緒に考えることくらいはできる。解決できなくても、気持ちは楽になる。知っていればわたしも配慮ができる。『寿命の問題』だってそうだ。それなのに、黙っていたらわたしは本当に何もできない。
今までわたしは、何のために――、
「…………はぁ――……」
ため息がもれる。
こんなことこそ、考えても仕方のないことなんだ。
そもそも、樹はわたしの子供でも、ましてや所有物でもない。ちゃんとした一人の人間だ。ミレーナさんの言いつけはあるが、わたしから何かさせられるような拘束力はない。わたしには、樹を縛る権限はない。この感情は、わたしの身勝手なものだ。それは解ってる。そりゃそうだと、納得しているのに……。
どうして、この気持ちは治らないんだろう。
気が付いたら、テントでの会議は終わっていた。そのことをぼんやり認識し、どれくらいこのまま居たんだろうと辿ってみる。たぶん、二十分はこのままでいたはずだ。目の前の焚き火も、燃料を入れていなくて小さくなってきてしまっている。
立ち上がり、ぐいっと伸びをする。バキバキというすごい音が背中からした。少しだけ重たい身体を動かし、ぐるっと見渡してみる。周りにはまだ起きている冒険者の人たちが、自分の武器を整備している。ルナもまだ向こうで作業をしているし、たぶん樹もそうだ。話しかけないほうがいいと思う。
そう言えばと、気晴らしに少しだけ気になっていた場所へと向かってみることにする。別に、安全地帯の外というわけでもないから大丈夫だろう。いまは、少しだけ独りになりたい。二人に合う前に、心を落ち着ける時間が欲しい。
いま樹と話したら、余計なことを言ってしまいそうな気がする。
ここにいない方が、いいような気がする。
◇◆
迷宮は、本当に不思議な場所だ。
マスクを着けていなければ、数時間と待たずに臓器がダメになってしまうような場所なのに、まるでわたしたちが滞在することを歓迎しているような造りに見えてしまう。
ここだってそうだ。安全地帯と呼ばれているこの場所は、人が活動できる限界地の場所にふと現れる。ここには瘴気が存在しない。そのおかげで、魔獣たちは寄り付かないしわたしたちはマスクなしでも過ごすことができる。
洞窟特有の冷えた空気が、肺の中を満たす。足元も少しだけ湿っていて、冷たい空気が足から熱を奪う。左を見てみれば、そこには大きな水だまりがある。確か、地底湖とかいう名前だったような気がする。
立ち止まる。ここには、視界確保用の松明はない。ただ、安全地帯の範囲を示す境界線が地面に掘られているだけだ。それでも周りが見えるのは、地底湖の天井にいる彼らのおかげだ。
計測器に目を落とす。指している瘴気の濃度は、ゼロに限りなく近い。それを確認して、バルマスクと言われているマスクを外す。
「わぁぁ――……」
思わず、そんな声が漏れ出る。
洞窟の天井いっぱいに広がっているのは、満天の星空。青を基調とした鉱物が、まるで本物の星のように発行している。
時に瞬き、時に光を弱め、あらゆる光を取り込んで光り続ける。彼らの姿は凪の地底湖にも映り込み、まるで水の下には鏡面世界があるような気さえ起ってくる。あまりのきれいさに、しばらくして見とれていたことに気が付く。
やっぱり、迷宮は不思議だ。こんなところにこんな光景を用意してくれているなんて、わたしたち人に見てほしいとでも言わんばかりに。
まるで正反対だ。
いまの私の心とは……。
「――――?」
そんな星空に、もう一人。
この場所に居座る少年がいた。
◇◆ ◇◆ ◇◆
「手伝うよ」その申し出に、どう返答したのか俺は覚えていない。
動揺していたのだ。雨宮と顔を合わせるのが気まずくてここに来たのに、まさか、会いたくない本人と二人きりになってしまうという訳の分からない状況に放り込まれてしまったから。けれども、横で雨宮がポーションをポーチに詰めているのだから、俺はそういう類の返事をしたのだろう。
「…………」
「……………」
会話はない。俺は雨宮を避けているし、雨宮も、どうやら俺と話すのは気が引けるようだ。ただ淡々と、俺たちは自分の作業を続ける。続けながら、考える。
どうやって雨宮と話したらいいのだろうか、と。
迷宮攻略に参加する、そういった時の雨宮の表情から感情を読み取るのは、俺には難しすぎた。驚いているようにも、怒っているようにも見えた。だけど、少なくとも喜んではいないということくらいは察することができた。
それも当然だ。俺がこの迷宮攻略に参加するときに言われた条件は、戦わないこと、だったのだ。そして、緊急時には全員を見捨てて生還しろとも言われていた。
俺はその言いつけを、思いっきり破っている。雨宮と合流したあの時までは、巻き込まれたと言っても言い訳が立つかもしれない。だが、これから俺がすることについては、言い訳できない。
身勝手なことをしている、その自覚はある。
これから行うのは、かなり危険な賭けだ。先の言いつけに至っては、完全に無視する形になる。進んで危険地帯に飛び込むことを嫌う雨宮が、いい思いをするはずもない。
それでも、俺はやりたかった。このままでは、たくさんの知り合いが巻き込まれることになってしまうから。何より、攻略失敗となってしまえば、雨宮にも何らかの危害が及ぶかもしれない。それだけは避けたかった。
例え、俺がどう思われようと。
「……ごめん。勝手なことした」
自分でも何を言えばいいのかわからない。そんな中で出たのは、謝罪だった。
「ミレーナさんの言いつけは完全に無視した形になるし、……正直言ってかなり危険だし」
そう言うのが精一杯。雨宮の方を見ることもできない。
「けど、こうでもしなきゃ、あの人の作戦が採用されてた。大切な人たちが死ぬかもしれなかったから、それだけは嫌だった」
あの時は、そのことで精一杯だった。
助けてくれた人たちが巻き込まれてしまう。もしかしたら死ぬかもしれない。そのことに耐えられなかった。
何もできずにそうなってしまうのが嫌だった。
自分の所為で誰かを失ってしまうことが耐えられなかった。
もう、そんな思いはしたくなかった。
自分がそれほど強くないと。いやほど実感しているから。
だからこそ、ここは譲れない。雨宮に何と言われようとも、ここだけは止めることができない。
ここで俺が引いてしまえば、間違いなくレグ大尉の作戦が採用されてしまう。そうなれば、俺の知っている人たちにも話が行くかもしれない。情報もなく、攻略のノウハウもない。そんな状態で迷宮に行くかもしれない。そうなってしまえば、結果は目に見えている。それだけは、どうしてもいやなのだ。
見捨てたくない。死んでしまってほしくないから。
だから――、
「だから、ごめん。止めろって言われても止められない。俺がやらなきゃ……」
何とかしなきゃ、ダメなんだ。
「…………行かなきゃダメなの?」
雨宮が口を開いたのは、たっぷり数十秒後だった。
「だっておかしいよ。神谷くんが行かなくても、情報をあげれば済む話じゃない。何でわざわざ行くの? 死にに行ってるって、解ってるの?」
「奴の情報を持ってるのは俺だ。俺が行かないと対応できない。それに、俺が参加すること自体が、俺の案を通すための絶対条件だった」
「どうして……」
「全滅させることが目的かもしれないし、何より自分の言ったことには責任を持て――だってさ」
「――ッ⁉」
自分でも、アホみたいな綱渡りをしていることは分かっている。そのことは、俺が一番自覚している。だが俺の作戦を通すには、もうそうするしかなかったのだ。
いままで忘れていたが、俺の身分を保証しているのはミレーナと言う存在のみだ。つまり、俺の身分が通じるのは彼女を信頼している者のみ。それ以外からすれば、俺は身分不詳の怪しい人間だ。そしてレグ大尉は後者だった。
――そこまで言うのなら、君自身がその情報を試してみなさい――
あのときの言葉がよみがえる。
俺が彼の立場でも、そう考えてしまうと思う。それに一度疑ってしまえば、俺の発言は怪しいことこの上ないものばかり。
『ボスの攻略法が解った』『この迷宮の秘密が解った』『危険だけど手伝ってくれ』
どれひとつとっても、すがすがしいくらいに証拠が無く胡散臭い。レオが口添えをしてくれなければ、あの場で俺は拘束されていたかもしれない。そう思ってしまうほどにギリギリだった。
雨宮の方を見ることができず、必然的に集中力は目の前の装備調整に注がれる。雨宮はとっくに装備の準備を終えてくれているのだろう。あっちからは、小瓶のこすれる音が全く聞こえない。それなのに、雨宮はここを離れない。それはたぶん、俺に言いたいことがあるから……。だが、口を開く様子はない。
沈黙が下りる。
キリキリという、機械の調整音だけが洞窟に響く。
互いの呼吸が、薄く聞こえる。
「――――ずっと不思議だった」
唐突な言葉に、その意味が理解できなかった。
「神谷くんってさ、自己中だって言うくせに、自分のことじゃ動かないよね。動くのは誰かのためで、そのことを認めない」
「そんなこと――」
「あるよ。気が付いていないのかは知らないけど。そうだよ」
その横顔は、真顔だった。
咎めるわけでも、そのほかの感情をぶつけるためでもなく――というよりも、おおよそコミュニケーションを取るときに用いるようなものではなかった。もし音が消えてしまっていたら、俺に話しかけていることすら気が付かないような動作だった。ただ前を向き、言葉を息に乗せている。
「責めてるわけじゃないの。むしろ感謝してる。神谷くんのおかげで何とかなったことはたくさんあるから」
口に出しているのは俺の話題。なのに、その感情は俺の方を向いてはいない。
「やることはいつも綱渡りだし、そのくせ失敗できないものだし。失敗したら大変なことになるって、わたしでも解った」
「――――」
「でも、それなら……」
息を吸うのが解った。そして――、
感情が、俺へと矛先を向けた。
「どうして相談してくれないの?」
その質問に、答えることができなかった。
今までどこに向いていたのかという感情たちが、ここぞとばかりに俺へ当たってくる。明らかに伝えることを無視した感情の渦が、言葉に、手先に宿っているのを知覚した。
「いつもそうだったよね。肝心なことは話してくれないし、わたしのことなんか置いてきぼりで話進めるし。失敗したくないなら、余計相談するべきじゃないの?」
応えられない。それは俺自身がその答えを知らなかったから。いままで一度も考えたことがなかったから。あまりにも独りが当たり前すぎて、気にもしていなかったのだ。
「一人の時は別にいいよ。だけど、わたしが関係してることでもそうでしょ? いままで、ひと言でも相談してくれたことあった?」
記憶を探る限りは――無い。そもそも雨宮に会うまでは、人に頼るような真似はしなかったし、そんなことになるようなことは引き受けなかった。雨宮と出会って、多少変わったと実感した時を思い出してみても、俺が誰かに相談しているということは……思い出す限りはない。
「さっきの話だって、何も聞いてなかった。一歩間違えたらここ一帯が危険なんだって、そんなこと知らなかった。何も言ってくれなかった」
当然だ。言ってなかったのだから。
「それくらい言ってよ。そうじゃないと、本当に何もできないっ」
その姿はまるで、何かにすがっているようだった。何かを失うまいと必死に引き寄せている。そんな印象だった。
そしてその声に、やはり俺は何も言い返せなかった。
「……雨宮の言うことは、もっともだと思う」
雨宮の言葉は正論だ。言わなきゃ伝わらないし、察しろというのも限度がある。ましてや、こんな現実離れしたことを察してくれと言ったところで、できるとはとても思わない。
「言わなきゃ何も解らないし、何もできない。それは解ってる。だけど、別に聞かれるのが嫌だったとか、忘れてたとかじゃない。ただ――」
俺だって、そんな理由で隠していたんじゃない。そもそも、そんなこと考えてもいなかった。多分、もっと別のことだ。
雨宮を巻き込みたくなかった? ……いや、それは何か違う気がする。多分、それも考えてはいたと思う。だけど、そんな純粋な理由じゃないような気がする。それが理由なら、「どうして相談してくれないの?」の質問ですぐに答えが出ていたはずだ。
だとしたら、一体何なのだろう。
――いままで言っても仕方がないと隠していたのですが――
不意に、レグ大尉の姿が、言葉が浮かんだ。その瞬間、俺とあの人のつながりを思い出し、ああそうかと、心のどこかで理解する。そういうことなのかと、自分でも初めて知ったのに納得してしまう。
多分、俺が言いたかったのは――、
「言っても仕方なかった」
◇◆
何かが切れる音とは、あの時のことを言うのだろう。あとから俺は、そう回想した。そしてこの瞬間、何か致命的な部分を間違えたことを本能が感じ、それは間違ってはいなかった。
◇◆
「…………何それッ」
鼓膜に届いたそれは、音波とは別のものが震えていた。どういうことなのかを読み取った瞬間、俺は言う言葉を決定的に間違えたのだと瞬時に悟った。
「言っても仕方ないって何? 何でそんなことわかるの」
「雨、宮?」
声の色が、さっきまでとは明らかに違う。例えるならば、さっきまでは梅雨のような沈んだ調子の声。そして今は、火山が噴火する前特有の、微振動を伴う静けさ。俺にどうこうできるようなものではなく、雨宮が言葉を発するたびに、その声は張り詰めたものになっていく。まもなく噴火してしまうのだと、否応なく俺に感じさせる。
「わたしじゃ何もできないって、そう言いたいの? 足手まといだって、そう言いたいの?」
「違う! そうじゃなくて「違わないでしょ⁉」」
俺の弁明は、伝える前にその役割を終える。
「言っても仕方ないって、言葉そのままじゃない!」
むき出しの感情が載った声は、俺の心に何かを突き刺していく。違う、そういう意味じゃない――そう伝えたいのに、そうすることができない。
「今回だってそうでしょ? わたしに話しても何も解決しないって言ってるようなものじゃないっ」
違う、違う、違う! そういうことじゃない。
期待していないとか、信用していないとか、足手まといだとか、そんな感情で伝えていないわけじゃない。もしそうなのだとしたら、そもそも俺は雨宮にこんなに心を許すようなことはしなかったし、飯田が死んだあのときさっさと見捨てて逃げているはずだ。
信用など、していないはずがない。していないなら、俺が今生きているはずがない。五体満足で、広間からこの場に生還できるはずがない。
足手まといなんて、思っているはずはない。俺よりも基礎能力が高くて、模擬戦で勝ち越されてしまう相手に、俺が敵わないものをたくさん持っている相手に、そんな感情を抱くものか。
そんなことを言いたかったんじゃない。俺が思っていることはそんなことじゃない。それなのに、出てくるのは雨宮に対する反発にも近い言葉。余計な言葉ばかりが脳裏をかすめ、肝心な心は自分でも理解できない。そのことが、腹立たしい。
とがった黒い感情が、広がっていくのが解る。自分の心さえも満足に理解できないことへの……苛立ち。情けなさと、もどかしさと、自分に対する怒りがインクをこぼすように広がっていく。
「少しはわたしのこと信じてよっ。少しくらい頼ってよ!」
「じゃあ頼ってどうなったのかよ?」
「⁉」
気が付いたら、そんなことを口走っていた。
「お前に何か出るのかよ。もしかして、一緒に全線で戦ってやるって、そう言うつもりだったのか?」
いま伝えるべきじゃない。こんなこと言いたいわけじゃない――頭では解っているのに、口は言うことを聞かない。俺とは別人が喋ってでもいるかのように、頭と別駆動で口は回り続ける。
そう言えば、俺たちはいつの間に立ち上がっていたのだろう。雨宮に詰め寄る俺をどこかで見ながら、頭は冷静にそんなことを考えている。
心の奥から、良く解らない靄が湧きだしてくるのが解った。これはたぶん、怒り。俺自身を棚に上げた、雨宮への怒り、苛立ち。自分の状況も解らずにそんなことを言っている雨宮に腹を立てているのか。
雨宮が迷宮攻略に参加できない理由は、彼女自身にあった。
彼女が患っていたのは『瘴気中毒』。個人差はあるが、身体が分解可能な量以上の瘴気を吸い込んでしまった時に発症する。薬を使えば回復していくが、瘴気はマナやオドといった生命的な力と反発する。つまり、瘴気中毒の状態で魔術を行使すれば、身体の内側でオドと瘴気が反発し合い、臓器がやられてしまう。瘴気中毒で死亡する患者のほとんどが、そのせいで死んでいるのだ。
俺の苛立ちは、雨宮がそれを自覚しないからなのかもしれない。
「自分の状況解ってんのか? 次戦ったら死ぬかもしれないんだぞ。そんな奴に、何を話せっていうんだよ! 何を頼れっていうんだよ! 明らか無茶する奴に、そんなこと言えるわけがないだろ。自殺願望もほどほどにしろよ!」
我に返ると、わずかに肩を使って息をしていた。右手は元の場所にはなく、雨宮の肩につかみかかっていた。服には明らかにしわが寄っている。
その瞳から読み取れたのは、驚きと、困惑。それ以外の感情があるはずだが、瞳の中がころころと変わって判断が付かない。痛いはずなのに、向こうからは何もモーションはない。
何より、これ以上目を合わせるのが限界だった。
――やっちまった……。
後悔と恐怖が、いまさらになって襲ってくる。とんでもないことをしたと、致命的に遅れて自覚する。
雨宮は、心配してくれていたのだ。さっきまでも会話も、思い返せばそうだ。すべて俺の為に言っているようなことばかりだった。それなのに俺は、自分の感情に振り回されて、気が付けばこんなことになっている。
最低だ。
俺の身を案じてくれた人に、こんな返しをしてしまうなんて。
最低だ。
そんな人を拒絶してしまうなんて。
最低だ…………。
「……あっ……、悪い……」
再び我に返り、いまどうすべきなのかを自覚する。俺の右手は、まだ雨宮の肩をつかんだままだ。急いで手を放し、謝罪する。見なければいけないのに、雨宮の目を見ることができない。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。頭の中は、それでいっぱいになる。謝らなければいけないのに、誤解を解かなくてはいけないのに、とっさに発したさっきの言葉以外、何も出てこない。言える気がしない。
いや、そんなことは甘えだ。
言わなくては。伝えなくては。そうしなきゃ俺は……。
「あの……雨み――」
言葉は――そこで途切れた。
何か伝えたいことがあったはずなのに。言わなければいけないことがあったはずなのに。思考回路がショートして、一瞬で白紙に変換される。ただ目の前の状況に、困惑することしかできなかった。
――ポロリ。
「解っ……てる」
――ポロリ、ポロリ。
「解っ、てるよ……」
――ポロリ、ポロ、ポロロ……。
「それくらいとっくに解ってるよ……ッ」
雨宮は、泣いていた。
涙が頬を伝い、頤へと流れていく。しかし、それを拭うようなことはしない。雨宮は気が付いていないのか。あとからあとから、涙が止めどなく流れ続ける。だがそんなとはお構いなしに、言葉が矢次に飛び出した。
「わたしが役立たずだってことくらい、わたしが一番理解してるに決まってるじゃない! 修行だってそう。頭では理解してくれるのに全然うまくいってくれないし、初めて魔獣と一人で戦った時だって、足がすくんで動けなかったし。もし死んじゃったらどうしようってパニクって吐いちゃったし、夜怖くなってよく泣くし、そのせいで寝不足で修行じゃ倒れちゃうし、頑張らなきゃって、そう思うほど自分の無能さに吐き気がするし、そうよ! 役立たずよ! ミレーナさんがいなかったらとっくに死んじゃってるし、あの時だって、神谷くんがボロボロなのに何もできなかった! だから……だから何とか追いつこうって頑張ったら、もう神谷くんそこにいないし。それでも負けるもんかって、やっと追いつけたと思ってたのに……どうして……どうしてわたしを全否定するの⁉ いままでの努力は何だったの⁉ 模擬戦だって、わたしが勝ち越すようになったじゃない‼ 神谷くんと対等になったはずなのに、なんでわたしのことを認めてくれないの⁉ 〝寿命の話〟だってそうだよ! わたしにも関係あるはずなのに、何でわたしは置いてきぼりなの⁉」
ドクンと、心臓が跳ねる。雨宮は、聞いてしまっていたのか。俺たちの寿命について、オドを行使してしまうことの弊害について。知っていてそれを黙っていた。いつか、俺が話してくれるとそう思っていたのだろうか。
「ひとりで遠くに行かないでよ! 置いてかないでよ‼」
身体が急に引っ張られる。数瞬遅れて、雨宮に掴みかかられたのだと気が付く。胸倉をつかまれ、信じられないほどの力で引っ張られる。強制的に膝を曲げさせられ、雨宮と目線が交差する。
「いまもそう! 自殺願望? いても邪魔なだけ? ふざけないで‼ 神谷くんだけじゃもっとどうにもならない‼ そのこといい加減自覚してよ‼ 魔術も使えない、ろくに防御もできない、斬るしか能がない。君の方が……」
その次の言葉は、容易に予測ができた。言われる言葉そのものが、雨宮よりも早く思い浮かんだ。
だってそれは――、
「君の方がよっぽど足手まといじゃない‼」
俺が一番理解しているから。
「…………」
「あ……」
急に我に返ったように、雨宮は俺の胸から手を放す。支えが消える。少しだけ前後にふらつきながら、まっすぐに立ち直る。
「ご、ごめん」
自分が何を言ってしまったのか、それに気が付いたのか雨宮が謝ってくる。だが、そんなこと今はどうでもよかった。そんなことに、気を回している余裕はなかった。
そんなことはないと、ずっと、心の奥底ではそう考えていた。
魔術も魔法も使えなくたって、斬ることしかできなくたって、俺にもちゃんと戦うことはできる。近しい人たちくらい守ってあげられる。そう考えていた。
だけど、やっぱりそれは自己暗示だったんだ――いま、そのことがはっきりと判ってしまった。
人が感情に振り回されて言った言葉に、嘘はない。それは、心のどこかで思っていたことが表層に上がってくるからだと、俺はそう思っている。俺たちは普段、誰もが多少の猫を被って生きている。俺もそうだ。いちばん近しいと思っている雨宮にさえ、心の奥底を見せたことはない。
雨宮の今の言葉は、完全のそれだ。雨宮が心の奥底でため込んでいたものが、激情に乗ってこぼれ出たのだ。そうでなければ、いまこの場で、あんな口調で、嘘を言ったことになる。どうしてもそうだとは考えられない。
雨宮の中で、俺はやはり守られる側だった。
どれだけゲーム内の技が使えても、魔術・魔法が使えなければこの世界では戦えない。近接戦闘術だけでは、彼らには敵わない。そうなれば、やっぱり俺は守られる対象になる。
少なくとも、雨宮の中ではそうだった。俺は、雨宮から見て役立たずの足手まといだった。
俺は未だに――、
大切なものを守れない。
「そんなことくらい。俺が一番解ってる……」
負け惜しみのような言葉が、口からこぼれ出てきた。それを聞いた雨宮の顔が、後悔でひきつる。必死に、何かを伝えようとする。
だけど、
「……ごめん、わたし、そんなつもりじゃ……」
「悪い。一人にさせてくれ」
この場から歩き去る。雨宮とは別の方向に歩き出す。
それを正面から聞くほど、俺は強くなかった。




