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異世界幻想曲《ファンタジア》  作者: 紅(クレナイ)
第一章 『アルトレイラル(修行編)』
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第1章ー13 「月下の相談室」

 コツコツと、木の床を踏み鳴らす音だけが、長い廊下に響く。家の外見からは明らかに不釣り合いな距離の廊下に小首をかしげながら、春香は廊下の先へと進む。目指しているのは廊下のつきあたりの部屋。言うまでもない、神谷 樹の部屋である。


 ——神谷くん、寝てないかな?


 ちらりと携帯の画面を確認し、さらに進んでいた時間を見て、自然に歩調が早まる。


 もちろん、もっと早く来ようとはしたのだ。

 昨日帰ってきて、樹は泥のように寝てしまったらしい。そのまま昏々と眠り続け、樹が起きてきたのは夕食前。


 夕食を終えてからすぐに、樹からは訪問の許可を取った。だが汗をかいたままで行くわけにはいかなかったため、風呂に入り、髪を乾かし、着替え—ルナからの借り物—もした。


 だが、異性のそれも想い人の部屋に行くのだ。あれこれと想像を巡らせ、なかなか踏ん張りが付かない。それで、理由もなくゴロリとベッドに横たわり……


 寝てしまった。


 気が付けば、携帯が指していた時刻は午後十一時半。約束の時間などとうに過ぎており、そろそろ晴香がいつも就寝につく時間になろうかといったところだった。

 これは不味い。そう思って、すぐに出ようとはしたのだが、変な態勢で寝ていたのが祟ったのか、頭には無視できないレベルの寝癖。それを焦りに焦りながらなんとか直し——、


 そして、いまに至る。

 不自然に長い廊下を渡り、目的の部屋へと到着。扉の前で立ち止まり、少し上がった息を整える。

 大丈夫、大丈夫。そう自分に言い聞かせ、ドアノブへと手を伸ばす。


 前にちらりと聞いただけだが、樹曰く、少しの物音でも起きてしまうほど睡眠の浅い日がほとんどらしい。ならば、きっと扉を叩く音で目を覚ますに違いない。


 コンコンと二回、控えめにドアを叩く。耳を澄ませるが、返事が返ってくることも、起きた気配すらもしなかった。もう一度同じことをする。しかし、やはり結果は同じ。


「神谷くん……。起きてる? おーい……」


 小声で呼んでみるが、返答はない。非常識だとは重々承知で、ドアノブを少しだけひねってみる。するりとノブが回り、ドアが部屋の内側へと少し入り込む。


 鍵はかかっていなかった。


「…………どうしよう」


 正直、開いた時の反応を考えていなかった。樹が部屋にいなければ入っても気づかれないだろうが(もちろん、非常識だとは自覚している)、問題はいた場合だ。

 見つかってしまえば、何してるんだと問いただされるに決まっている。そしてその状況では、さっきの約束の件で……という言い訳など通じるはずもない。開いてしまったら、それはそれで困るのだ。


 ――本当に、どうしよう……。


 仮に、いくら樹に信用されていたとしても、勝手に部屋へ入るのは流石に許されないだろう。春香自身、そんなことをされてしまえばたとえ樹でもあっても怒ってしまう……のだろうか? どうだろう。


 もし仮に、本当に樹だったらどうだろう。やましいものは別に何もないから入っても問題ないかと考えればないし、だとしたらいいのだろうか。部屋もきれいにしてるし……いや、そもそも問題はそこじゃない。やっぱりダメだ、勝手に入るのはNG。ひと言あればよし。


 それに――、


「これ、夜這いと大差ないなあ」


 顔が熱い。違うと解っていても、誤解されそうなこの状況に今更ながら羞恥心が沸き上がる。夜中に異性の元へと出向く。傍から見れば、夜這いと大して変わりはしない。そう取られても文句なんか言えないだろう。そうでなければ最早ただの泥棒だ。

 どちらにせよ真っ当な理由じゃない。流石に、夜這いに行く勇気も、覚悟も、準備もしていない。


 だったら、今回の選択肢では『入らない』が正解だ。少なくとも春香自身は嫌なのだから、それを人にするのは気が引ける。そもそも、勝手にドアを開けることそのものが非常識なのだ。明日の朝、樹にはすっぽかしたことを謝ろう。

 これ以上のことはしない。そう決めて自身の部屋に戻ろうとしたその時、


「……? 何これ」


 解放された第六感が、ログハウスの外に不自然なマナを知覚した。


  ◆◇


 端末の懐中電灯が、不自然に森の木々を照らす。


 夜中の森を歩く。魔獣除けの結界が施された森の中を、ただひたすらに歩く。さっき感じた、不思議なマナの方に向かって。月が差し込み、遮るものが多いはずの森でさえも昼のように明るい。懐中電灯の光は必要ないのではと思いながらも、一応つけて歩くことにする。


 本当なら、晴香が取るべき行動はこれではない。いくら安全圏の中であるとはいえ、敵の可能性だって捨てきれないのだ。ミレーナを起こし、ひと言報告を入れるのが正しい。しかし、この現象を起こしている人間が敵だとは、晴香にはどうしても思えなかった。


 マナが、とても澄んでいるのだ。


 魔術にしろ、魔法にしろ、その本質は大気中のマナの変質だ。あるはずのない形にゆがめられたマナは、ひどく濁っている。例えるなら排気ガスだ。ここ数日で、晴香にはそう感じるようになった。


 といっても、体調に支障をきたすという類のものではない。もしかしたら、よどみというよりもカレーやニンニクといったはっきりと感じられる匂いに似た何か、とでも例えるのが一番近いのかもしれない。


 そして、晴香が今感じているマナは、全くと言っていいほどに混ざり気がない。そのままのマナ。全くの無加工。自然に許容される範囲内での流動を繰り返しているといったところだ。


 肌で感じていると、なぜか落ち着く。気が付いたら、身体がそれを違和感なく受け止めているのだ。そのようなマナを、晴香は知らない。


 不意に視界が開け、遮られていた月光が晴香を照らし身体を優しく包み込む。懐中電灯とはまったく別種の、夜中降り注ぐにはいささか不自然な光量の光。


 たどり着いたのは、春香とルナが毎日魔術の修行で使っている、森の中にしてはあまりにも大きすぎる草原。この世界へ来て、晴香が最も長く滞在し、この世界の理を教わった思い入れのある土地。

 その草原の真ん中に……樹はいた。


「………………」


 納刀した黒刀を左腰に差し、目をつむってたたずむ。

 左手を鞘に添え、足を開き大きく腰を落とし、右手を柄のすぐ近くに持っていく。そこで、身体の動きは止まる。


 刹那、


ッ!」


 樹の右手が、目にも留まらぬほど高速で駆け抜け、鯉口を刀が走る。

 鞘から飛び出た刀身は、眩いほどの光を放ち、縦横無尽に空を舞い大気を斬り裂く。


 下位剣戟スキル・派生・三連撃《春旋》。樹がよくカリバー・ロンドで使っていたスキルのひとつだ。


 音すらも斬り裂くと云われる神速の抜刀術、雲耀うんようの一撃を利用した二撃目が真下から振り上げられ、三撃目へと続く。そのすべてが終わるとき、目に見えぬ斬撃が四方へと広がり、周りの草木を撫でるように刈り取っていく。


 剣士ならば誰もが求めるであろう技の最高峰。それが放たれる光景は、まるで著名な画伯が描いた絵画のように、見る者の心に何かを深く刻み込む。

 この数舜の間、疑問も悩みも驚きも、何もかもが切り離される。この剣舞を見ること以外を、頭が拒絶する。


 晴香が見たその光景は、ただひたすらに凛々しく、美しいものだった。


「…………ん?」


 不意に、樹の身体がピクリと小さく跳ね、その視線がこちらへと方向を変える。その眼にはわずかな殺気と威圧の気がはっきりと込められており、その眼に射られた晴香の身体が無意識に硬直する。


「雨宮?」


 数秒後、そこにいる人物が春香であると気が付いた樹が、その視線を解き、少し意外そうな表情でそう言った。


 ◆◇


「ごめん! なんか、約束すっぽかしちゃうことになっちゃって」


 樹に促され隣に座る。両手を顔の前で合わせて精一杯申し訳ない気持ちを表現し、樹に謝罪する。その仕草に、タオルで汗を拭いていた樹が目を丸くする。


「ああ、そのことか」


 数秒後、どうやら約束のことを思い出したようで、樹は納得の声を上げる。そしてすぐに、「別にいいって」と笑った。


「でも珍しいよな、雨宮が約束をすっぽかすなんて。寝てたのか?」


「…………はい、そんなところです。疲れて寝ちゃいました」


 今更ながらに自分の不甲斐なさを自覚し、恥ずかしくなる。そんな晴香を見て、樹が苦笑したのが解った。


「だけど、何でわざわざここに来たんだ? 俺がいるって確証ないのに」


「あー、えっと。不思議なマナの流れを感じたから」


「?」


「なんて言えばいいのかな。普通に魔術を使った時には感じない――マナ?」


「なぜ疑問形?」


 いまいち理解できなかったようで、樹が首をかしげる。何とか伝えようとは努力するのだが、生憎感覚の問題なのでそれを表す適切な語彙が見つからない。

 あれこれと画策してみるが、結局最後まで伝わることはなくしぶしぶ諦める。何と言うか、かなり悔しい。


「多分、神谷くんが使ってた剣戟スキルが原因だとは思うんだけど……」


「あー……それなんだけどさ」


 鞘に収めた刀に目を向けながら、「何と言っていいのか分からない」そんな複雑そうな顔で樹は言葉を続ける。 


「正確に言うと、剣戟スキルを発動してるんじゃない。ただ、刀を振り回してるだけ」


「え? でも……」


 実際に使っていたじゃないか、そんな疑問がすぐさま浮かぶ。


 ちゃんとライトエフェクトは出ていたのだ。ジャイアント・オークに襲われ、樹が刀を振るった時も、今さっきの下位剣戟スキルを使った時も、そのどちらも攻撃スキル特有の光が刀から迸っていたのをこの目でしかと見たのだ。あの光が出たということは、それはもう攻撃スキルが発動したに等しいのではないのか。


「えーと……なんて言ったらいいんだろうな……」


 今度は樹が言葉に詰まり、難しそうな顔で頭をかく。十数秒が経過したころ、ようやく考えがまとまったのか、樹が再び口を開く。言葉を探すようにしながら、詰まり詰まりで説明を始める。


「剣戟スキルはさ、システムアシストで武器を動かすだろ? スキルが発動すれば、使用者の意志に関係なく。でも、いま俺は自分の意志で腕を振ってる」


「えっと……つまり?」


 樹の言わんとすることがよく理解できず、晴香は戸惑いの混じった声を上げる。


「剣戟スキルのライトエフェクトは、なんの付加効果もない——言ってみれば見栄えだけの光だろ?」


 そこで樹は再び立ち上がり、刀を片手に、座ったままの晴香から十分距離をとる。そして鞘から刀身を抜き放ち、腰を落として目をつぶる。地面と水平、視線の方向に構えられた刀が青白く発光し、刀身からはわずかに光の粒子が周りへとこぼれ出る。


「だけど、この光はッ!」


 その声とともに刀が前へと打ち出され、刀の延長線上にあった草が、跡形もなく切り取られる。

 下位カタナスキル《死突》。単発剣戟スキルのひとつだ。


「——どうやら、俺のオドが高密度に濃縮されて生まれる光らしい。それから、この光は見た目殺しじゃない」


 地面から小石を拾い、樹がもう一度目をつむる。刃の方を上に向けたまま、刀が青い光を放ち始める。そのまま小石を刀の真上に持っていき、


 手を離した。


 キンッ! という甲高い音が耳を刺す。そしてそれが、小石が刀に当たった音だということに数舜遅れて気が付く。意識を小石に戻してみれば、刀の真下には二つに砕けた個入りの残骸が。それを樹が拾い上げ、春香に渡してくる。その断面に、晴香の目が点になった。


 砕けていたのではない、斬れていたのだ。


 断面にはヒビ一つない。まるで小石が豆腐であったかのように、滑らかな断面がその一角に刻まれている。明らかに接触でできるような傷でも破損でもない。どういうことなのかと、樹に説明を求める。


「多分だけどさ。俺のオドと大気のマナが混ざり合って、高周波ブレードみたいな状態になってるんだと思う。だから、本来斬れるはずなんかない物もまとめて斬れる」


「まあ言ってみれば、俺バージョンの魔術ってことになる」と、その言葉で樹は説明を締めくくった。


「じゃあ、神谷くんは攻撃系スキル全般が使えるってこと?」


「だったならよかったんだけどな」


 その言葉を、樹は苦笑を浮かべながら否定する。


「これ、すっごい制御が難しくてさ、どんな体勢でも発動できるってわけじゃないんだよな。いまのところ発動できるのは、剣戟スキルの中でもカタナスキル……それもかなり単調な動きになる下位スキルだけ。訓練すればもっと複雑な上位スキルも使えるようになるんだろうけど」


 期待外れ、樹はそういう意味を込めて言ったのだろう。現時点とはいえ、晴香たちが持つことのできる最大戦力よりも圧倒的に自分は劣ると、そう言いたいのだろう。まだまだ足手まといなのだと、本気でそう思っているのだろう。


 そんなことはない、声高にそう叫んでしまいたかった。謙遜しすぎだと、そう伝えたかった。そんなこと、晴香はちっとも感じてなどいなかった。


 春香が抱いていたのは、そんな状況下であっても戦う術を見出した樹に対する尊敬の念と、今になっても魔術の行使ができない自分に対する――失望だった。


「そっか。神谷くんは、やっぱりすごいね。……わたしと違って」


 思わず、自虐的な言葉がこぼれる。

 魔術が使えないにもかかわらず、樹は戦うための方法をゼロから模索し、そして見つけた。その術は十分に実践に使える。もしかしたら、ゲーム時代のノウハウすらも使える可能性があるのだ。責めることなど、足手まといなどとは誰が言えよう。


 それに対して、自分はどうだ。樹とは違って方法が解りきっており、それに従うだけで魔術が使えるのだ。それにもかかわらず、その道順すらも辿ることができない。問題点すらも、自分で見つけることができない。


「なんだよ。そっちは上手くいってないのか?」


 その感情が表に出ていたのだろう。気が付けば、樹はいぶかしげな表情で晴香の顔を覗き込んでいた。


「うん。……ちょっとね」


 ようやく、プライドを押し殺した晴香の口が、本心を紡ぎだした。

 修行でうまくいったこと。少し難航はしたものの、魔力の知覚と制御に成功したこと。ルナと話した他愛もない会話の内容。ミレーナに聞いたこの世界の仕組み、魔法と魔術のメカニズム。そして、魔術が使える段階にまで至ったはずなのに、なぜかその魔術が全く発動しないこと。


 樹だって、人のことを心配する余裕はあまりないはずだ。それなのに、こんなにも親身になってくれることが春香にはうれしく、気が付けば、話さなくてもいいことまですべて吐き出していた。


「なるほどな。心のどこかで信じてない、か」


 樹はそのすべてを聞き、少し考察するように夜空へと視線を飛ばす。


「――確かに、可能性はあるか」 


 しばしの沈黙の後、呟くようにそう言った。


「っていうかそれ、俺が口出していいのか? 完全に部外者だぞ」


「正直に言ってくれて大丈夫。わたしだけじゃ、どうしたらいか解らないから」


「ならいいけどさ」


 春香が魔術を使えない原因、それがルナの指摘した通り感覚や価値観の違いによるイメージ不全ならば、晴香にはもうどうすればいいのか皆目見当もつかない。この世界での唯一の教科書に当てはまらないのだ。もう正解なんか誰も知らない。考えれば考えるほど、ますます解らなくなってしまう。


 もうすでに八方塞がりなのだ。むしろ、この状況がいつまで続いても、晴香にはこの問題が解決するビジョンが見えない。それに、自分から樹の元に訪ねてきたのだ。感謝こそすれ、鬱陶しいなどとは感じるはずない。


「考え方を変える……とか」


「どういうこと?」


 言葉の真意が良く解らず、再び戸惑いの声が上がる。晴香の反応に、樹が会話の方向を少し修正する。


「魔術が発動する原理って習ったか?」


「うん。ミレーナさんが言うには、魔術はオドとマナの連鎖変異の副産物だって言ってたけど」


「じゃあ、詠唱が必要な理由は?」


「えーと……」


 脳内の記憶を、大まかに漁る。その中から、ミレーナが発言していた場面をピックアップし、目的の記憶を引きずり出す。


「オドを変質させるための補助的な役割?」


「俺は、ずっとそれが謎だった。何で詠唱したらオドが変質するんだろうって」


「あっ、言われてみれば」


 思い返してみれば、いままでその部分に疑問を持ったことが一度もなかった。

 ミレーナに教わった時も、ルナに面倒を見てもらっていた時も、ただそういうものなのだと、ゲーム同様納得してしまっていた。お約束のようなものなのだと、そう決めつけていた。


 よく考えれば、それそのものが謎の塊であったはずなのに。


「気になってミレーナさんに訊いてみたらさ、『魔術・魔法の本質は、深層心理を操作して、そのことによって魔力を変質させて放つ現象。詠唱っていうのは、自分の心に強力な自己暗示をかけるための一番効果的な手段なんだ』って、そう言ってた」


「自己暗示……」


 言ってしまえば、それは催眠術に近い物らしい。こうなったらこうなる、それを何回も何回も脳に叩き込む。

 見せ方を変えて、言葉を変えて、それが本当に起こるのだと脳が錯覚するまで何度も何度も。催眠術でも、続けることによって、不思議なことに高温の鉄だと言ってスプーンを肌に当てると、その部分がまるで火傷したように黒く変色するそうだ。


 また、教室に行くとおなかが痛くなってしまう症状もそのうちの一つ。痛くなるのだという事故暗示によって、本当に痛くなってしまうのだ。


「深層心理の変化で、オドは変質する。この世界の人は、生まれた時から魔術を見てるだろ? だから、詠唱を唱える=オドが変質するって方程式を刷り込みに近いレベルで脳に刻まれてるはずだ」


「そっか、だから詠唱をすればオドが変質するようになるんだ」


「だけど、俺たちにはそんな常識はない。いまから刷り込みしても、多分効果は薄いし常識が邪魔してまともに入ってこない。そのままじゃ絶対無理だろうな」


 樹が、二本あるペットボトルのうち一本を春香によこす。ありがと、と礼を言い、中の水を口に含む。


「じゃあ、考えを変えるっていうのは……?」


「俺たちにとって一番解りやすい考え方……簡単に言えば理論武装を使う」


 例えば……と樹が言葉を切る。


「電子レンジ使うと、何で物が熱くなると思う?」


「マイクロ波を、水分子にぶつけてるんだよね」


「もう少し正確に言えば、それによって振動子の振動数が上がるから。極論だけど、温度を上げたければその構成分子の振動数を上げてやればいい。ここで、俺から質問」


 がりがりと、枝を使って絵を描いていた樹が、晴香の方に視線を戻す。


「どっちの方が納得できた? 魔術サイドからの考えと、科学サイドの考え」


「……あっ」


 意図せずそんな声が漏れた。晴香の表情に、樹は頷く。

 ようやく解った。樹が、なぜわざわざこんな話をしようとしたのか。春香自身に気が付かせるために、こんな回りくどい説明をしていたのだ。自分で気が付き、そんな方法もあるのだと、晴香の心に刻み込むために。


「魔術っていうのは、オドの変質で発動する。そしてオドは、深層心理の変化に釣られる。ぶっちゃけ言うと、納得できればなんだっていいんじゃないかって考えてる」


 詠唱で魔術が発動する。いままで晴香は、その部分だけに固執していた。なぜ唱えたら魔術が使えるのか、そのことまで考えが及ばなかった。


 樹の考えがもし通用するならば、魔術行使の際に使用するのが必ずしも詠唱である必要はない。オドをその形に変質させさえすればいいのだ。そしてそれは、魔術的な側面からでなくても到達できる。


「たしかに、科学的に考えた方がわたしには解りやすいかも」


 火が燃えるメカニズムを、物質が凍結する根本的な理由を、晴香は知っている。そして、この世界では魔術によってそれを起こすことができるということも体感した。

 ならば、魔術に科学的な知識を混ぜ込めば、晴香なりのオドの解釈が完成するかもしれない。そうなれば、魔術だって使えるかもしれない。


「ありがとう、神谷くん。すごく参考になった」


「頑張るのはいいけど、根詰めすぎるなよ?」


 それはこっちの台詞だと、晴香は笑う。こんな時間まで修行している張本人が何を言うのだろう。樹も自覚しているようで、晴香の笑いにバツが悪そうな表情を浮かべる。


 ずっと感じていた違和感が、すうっと消えて言った気がした。のどに刺さった小骨が取れたように、心は晴れやかで爽快。やっと謎が解決した、そんな確信を抱いた。


 やっぱり、樹はすごい。


 晴香が取りこぼすような場所にまで目を向け、そこに隠れたヒントをつかみ上げる。いままで行動を共にしているので良く解る、その才能は一級品だ。春香にはない才能。真似をすることはできても続けることなどできない不思議な才能。いまもこうして、晴香の悩みを解決するヒントを与えてくれる。


「――あ。わたしももう少しここにいてもいい?」


 もう何回かだけ練習すると言って、樹が立ち上がる。春香は樹にお願いし、この場で見学をする許可をもらう。黒刀が、再び青い光を湛える。視認ギリギリの速度で刀は振るわれる。通り過ぎた場所には、青い雫が残滓となって残る。


 不謹慎だが、思ってしまう。帰りたいはずなのに、考えてしまう。

 樹がいて、学校や仕事から解放され、命の危険もなくのんびりと過ごす。



 この光景が、いつまでも続けばいいのに。


 ◆◇


 目をつむる。第六感を全開にし、マナの動きをとらえオドの流れを制御する。いつものように、淡々とルーチンワークを済ませる。


 時間は、まだ日が昇りきって幾何かの時間も経ってはいない早朝。場所はいつもの草原。

 この世界に来て、ミレーナに弟子入りをしたその日から、晴香は毎日ここで一人、魔術の朝稽古をしている。


 ――俺たちにとって一番解りやすい考え方……簡単に言えば理論武装を使う。


 樹の言葉が、脳内によみがえった。

 よしっという威勢のいい掛け声を上げ、昨日あれから考えていた新しい方法を試してみることにする。魔術的な工程に、科学の分野を差し込む。


 使う魔術の属性は火。その中でも最も簡単な初歩魔術。カリバー・ロンドの技名でいえば《ファイアーボール》。

 考える、試考する、想像する。科学的な思考をメインとし、魔術理論を構築しながら体内のオドを練り上げる。


 オドが突き出した右手のひらに集まってくる。許容量を超え、大気のマナがわずかに干渉しだす。大丈夫、大丈夫だと、自分を落ち着かせる。


 燃えるのに必要なものは、酸素だ。だが、それだけじゃ燃えない。もっと燃えやすいもの、例に挙げるならプロパンガスか。今回はそれを空気中のマナで代替する。魔術で火球が出るのだから、きっとこの考え方でも支障はないはずだ。大気中のマナが、ガスとなって目の前一直線に並んでいる。燃えるものは揃った、あとは着火するだけ。


「灼熱の火球よ」


 口から、言い慣れたフレーズが漏れ出してくる。この詠唱はこの世界のものではない。晴香たちが何度も何度も誘われ、愛してさえいる世界カリバー・ロンドの詠唱。


「阻む敵を焼き尽くせ」


 オドが変質する大気のマナが、連鎖的に変質していく。

 そして、


 ——この感じ……間違いない。いままでと、違う。


 はっきりと、いままでとは違うことが解った。前みたいに逆流がない、意識を狂わせる何かも出てこない、マナの変質を乱す不純物も、全く感じられない。


 間違いない。確信した。魔術は、確実に発動する。


 ——大丈夫、いまなら……できる!


 オドを限界まで練り上げる。練りあがったそれを、事象改編の引きがねへともっていく。あとすることはひとつ。

 きっかけを、与えること。


「《ファイアーボール》‼」


 変化し損ね、その場に滞留していたマナが、急速にその存在を変えていく。

 燃え盛る炎の塊へと、指向性を持った飛び道具へと、姿を変えていく。ここまで、コンマ数秒。


 空気が焦げる音を、晴香は初めて聞いた。


 激しく空気を燃やしながら、詠唱終了と同時に火球は前へと打ち出される。その大きさは、速さは、晴香が想像していたラインをはるかに超えていた。摂氏一七〇〇℃を優に超えたと思われる青白色の火炎の玉は、みるみると先にある大岩へと近づきそして、


 轟音が轟いた。


 黒い煙を周囲にまき散らし、着弾場所からはキノコ雲が上がる。それを確認したとたん、煙が到達し視界が一瞬でゼロとなる。

 立ち上がったとき、目の前の景色が変わっていた。


「…………」


 着弾地点は土が抉れ、大きなクレーターとなっている。その爆心地には、さっきまで岩だったのだろうと想像される赤く鈍く発光する溶岩っぽいもの。当然草木が無事なわけもなく、爆心地からだいぶ遠くの地面に至るまでの雑草が、全て焼き払われていた。


「……あ、あはは…………」


 乾いた笑い声が上がる、現実を認めることを脳が渋る。

 もはやこれは、晴香の知る《ファイアーボール》ではない。もっと別の、今使ったはずのない上級魔法のどれかだ。現実逃避したい。これからどうなるか考えたくない。


「…………これ、絶対怒られるよね?」


 弱々しい問いに、答える者などいなかった。





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