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異世界幻想曲《ファンタジア》  作者: 紅(クレナイ)
第一章 『アルトレイラル(修行編)』
10/45

第1章ー10 「異世界生活開始」

※4/21 前章「少し先の未来」を掲載いたしました。プロローグの後です。お見逃しなく。

 寝起きがあまりよくない、そのことは自覚している。

 毎朝そうなのだ。他の人よりもエンジンがかかるのが遅く、どれだけ眠っても完全に目が覚めるまで三十分はかかる。ベッドの上で起き上がり、そのまま壁に寄りかかってぼーっと過ごす。


 血圧が低いのか何なのかは良く解らないが、この体質のせいで同年代の女の子よりも身支度に使える時間がかなり短い。無理やり確保するのなら、早く眠って早く起きるしかない。全く、損な体質だ。


 いまもそうだ、彼方で黒電話の音が鳴り響き、晴香の意識がぼんやりと覚醒する。寝起き特有の力が入らない身体を酷使し、手探りで携帯を探す。音は身体よりも下方から聞こえるような気がするため、ベッドから腕をはみ出させ携帯を探る。


 不意に、身体からシーツの感触が無くなり浮遊感に包まれ、


「痛っ」


 ゴツンと、額が固いものにぶつかる。前半身が固くて冷たいものの存在を感じる。そこでようやく、自分がベッドから落ちたのだと晴香は理解する。耳元でアラームがけたたましく鳴り響き、その音がだんだんと大きくなっている。腕を向ければ、掌に小さくて硬い感触。目を開けてみれば、それはもちろん見慣れた晴香の端末だ。


 アラームを解除するため、画面を起動させる。虹彩認証機能によりロックが外れ、《目覚ましアラーム》画面が呼び出される。寝ぼけ防止用パスワードを打ち込む。ようやくアラームが止まり、ホーム画面に切り替わる。


 デジタル時計の指し示した時刻は、午前八時半。

 …………。

 ………………?

 …………………………………⁉


「…………ふぇ⁉」


 珍しく、一気に思考が覚醒した。背中にかかった毛布をはねのけ、バネの様に立ち上がる。

 寝坊どころの騒ぎではない。もう遅刻確定だ。この時間にある電車に乗って学校に行こうとすれば、かなりの賭けになる。東京ではないのだ、一本逃したら大変なことになる。


 晴香が普段使っているアラームはシロフォンだ。黒電話のアラームは、そのアラームが解除されなかったときに鳴る最後通牒のようなものと考えていい。なぜなら、その時間から身支度を始めれば、丁度電車とバスをノンストップで乗り継ぐことができるからだ。かなりぎりぎりだが、二時限目にはどうにか間に合う。


 朝食はどうしようか、いや食べている余裕なんかない。寝ぐせはどうしようか、電車とバスの時間を使えばなんとかいけるか? 化粧が禁止されていることがせめてもの救いか……。


 などと、そんなことをコンマ数秒で判断しながら毛布を乱暴にひっつかみ、強引に畳んでベッドの上に放り投げる。そのまま勢いを殺さず制服のかかっているクローゼットに直行し――、


「……あっ」


 クローゼットがない。というより、部屋そのものが晴香の見慣れた自室ではない。そのことを認識してようやく、いまの状況を飲み込むことができた。


 なんてことはない、ここは日本じゃないのだ。まことに信じられないが、ここは日本ではないどこか別の国。そしてこの部屋は、晴香が弟子入りしたミレーナと、同居人ルナたちが住む家の一室。当然、こんなところにはバスも電車も学校もない。存在しない場所に行くことなどできない。


「――――ふうぅぅ……びっくりした」


 なんだか拍子抜けし、身体の力が抜ける。動く気になれず、へなへなとベッドに座り込む。

 端末を開いてみれば、普段かける《目覚ましアラーム》は解除してあった。そういえば、昨日寝る前に解除してしまっていたような記憶がある。だとすれば、同時解除設定となっていた黒電話アラームが解除されずに起動したのもうなずける。


 ベッドから降り、窓を開けてみる。きれいに晴れ渡った青空が広がり、小鳥のさえずりが聞こえる。心地よい風が部屋に吹き込み、よどんだ空気を入れ替えていく。部屋の中が、草原の香りに満たされる。


 ――本当に、ここは異世界なんだ。


 落ち込んでいるわけではない。悲観しているわけでもない。ただ単純に、感慨深く感じてしまったのだ。


「あ、そういえば」


 いまから起きてしまったら、朝食その他はどうするのだろう。

 一応、ミレーナにはゆっくりするようにというお達しを受けてはいる。受けてはいるのだが、それは寝坊してこいという意味に果たしてなるのだろうか。そして、この世界の人たちの活動開始時間はいつなのだろうか。答えなんて聞いてみなければ解らないが、寝坊してしまった後ろめたさからついそんなことを考えてしまう。


「……うん?」


 と、そんなことを考えていた晴香の嗅覚が、


「甘い、匂い?」


 かすかに漂う甘味の香りを知覚した。

 

 ◆◇


 寝ぐせを直し、服を着替え、その他諸々の準備の後に部屋を後にする。外観から考えると不自然に長い廊下を進み、取りあえずはリビングを目指す。廊下を進んでいると、カチャカチャという金属がこすれるような音と火を使っているような音がかすかに耳に届く。その音はリビングに近づくにつれ、どんどんとはっきり聞こえるようになる。


 ミレーナたちの住むこのログハウス(実際にそう呼んでいいのか甚だ疑問だが)は、キッチンと食堂がつながったダイニングキッチンとなっており、その場所がリビングルームの役割も兼ねている。そのため、食事の準備をする人物がいれば、必ずと言っていいほどリビングは騒がしくなる。


 晴香の足が少し遅くなる。少しだけ憂鬱にため息をつく。なぜなら、朝食について思い出してしまったから。


 この世界には、電子レンジもなければクッキングヒーターも、当然レトルト食品なんかもない。電気がないのだからそれは当然なのだが、問題なのは、そのせいで食事の支度に時間がかかるということだ。


 火を使うにしても、まずは火を起こすことから始めなければならないはずだし、食材の調達や保存にも手間がかかる。おなかがすいたからと言って、はいどうぞと食事が提供されることはない。必然的に、晴香が空腹を満たすにはミレーナかルナの手を借りなければならないのだ。助けてもらっておいて、そこまでしてもらうのはかなり後ろめたい。


 樹がいるのだから、食事は作ってもらえているはずだ。もう一度作ってくれと言わなくっちゃいけないなんて気が滅入る。いっそのこと、朝食は抜いてしまおうか……。

 そう思いながら、晴香がリビングへの扉を開ける。すると、


「あれ? 神谷くん?」


 キッチンには、意外な人物がいた。


「よう、案外早かったな」


 晴香の声に反応し、キッチンにいた人物——神谷 樹がこちらを振り向き、意外そうに目を少し見開く。


 樹は、どうやら料理をしているようだった。少し汚れた布切れをエプロンのようにして首から吊り下げている。手にはフライパンを持っており、その下では炎が赤々と踊っている。先ほどから感じている甘い匂いは、どうやらそのフライパンから生まれているようだ。


「なんで、料理なんかしてるの?」


「ミレーナさんが、俺たちはもっと遅くまで寝てるだろうって思ってたらしくて、取り置きしてくれてたんだよ。それをいま温めてる。あと、開けた非常食の消費」


 ちらりと中身を確認し、「やべっ」という呟きを漏らして樹の視線はフライパンに戻る。少しかがんで、コンロ(らしきもの)の下についたつまみを回す。火の勢いが、少し弱まる。


 ミレーナにそこまで予測されていたのは、ミレーナがすごいのか、単に晴香が単純なだけなのか。ついでに言うと、樹の睡眠時間は短くて浅いと本人も言っているし、あまり参考にもならない。

 しばらく、その姿を後ろから見つめる。めったに見れない樹の珍しい一面に、なんだか無性に得をした気分になる。


 樹はあの性格で、意外にも料理が上手い。何度か食べてみたから解る。手の込んだものはあまり作らないとは言っていたが、それを鑑みてもレパートリーから出来栄えまで、晴香では数歩及ばない。


 それなり家事はこなせるつもりだったので、そのまさかの事実に、そして料理なんて趣味じゃなく、単なる食費の節約のためという身もふたもない理由を上げる樹に、少し嫉妬してしまったほどだ。


「フレンチトーストだけど、食べるか?」


 皿によそいながら、樹はそう訊いてくる。ちなみに、フレンチトーストは樹が得意なものの一つだ。

 なぜだろう、しぐさ一つ一つに、視線が惹かれる。ここにいるだけで無性にうれしい。ここにいられることがくすぐったい。これも、惚れてしまったものの弱みだろうか。


「ありがとう。頂くね」


 ◆◇


「そういえば、神谷くん、料理できたの?」 


 フレンチトーストと付け合わせに舌鼓を打つことしばらく、そのことが気になり、正面でスープをすする相棒へと問う。


「いままでも見てきただろ……」


「え? あっ、えっと、そうじゃなくて。よくこのキッチンつかえたなぁって」


 あきれたような、今更かよというようなジトっとした目で、樹は晴香を見る。その答えに一瞬戸惑うが、質問の不備に気が付き慌てて訂正する。「ああ、そういうことか」と、樹がスープを飲み干し口を開く。


「俺が起きてきたときに、ちょうどミレーナさんと出くわしてさ。料理ができるって話をしたら、使い方を教えてもらえた」


「それで、使えるものなの?」


「案外簡単だったしな」


 キッチンの方を見ながら、樹は説明をしてくれた。

 曰く、さっき上がっていた炎は《魔石》というものから出ていたとのことだ。ロジックは解らないが、何らかの形で、大気中に存在する魔力といわれるものを蓄えたものが魔石である。


 魔石にも種類があり、熱を蓄えるもの、砕くことで熱を奪うもの、光を発するもの、魔法の発動に不可欠だという魔力を蓄えておけるものと様々。その中で発熱する魔石を加工したのが、あのキッチンにあるコンロのようなもの……らしい。


 つまみをいじることで放出される熱を調節できるのだが、火が出るのは下手くそな証拠、と樹は言う。しかし、聞いただけで使えるものなのかは甚だ疑問だが。


 いや、そういえば、なんとなくカリバー・ロンドの調理器具と似ているような気がしなくもない。だとしたら、感覚で使えるというのも納得できるのだろうか。


「雨宮もアレ、やったのか?」


「うん。わたしはちゃんと歩き切ったけどね。神谷くんと違って」


「あ、あれは無茶だったなって反省してるって」


「どうだかなあ」


「信用なしかよ……」


「自覚あるでしょ? 神谷くんも」


「…………はい」


 気まずそうに頬を掻き、樹は視線を逸らす。図星の時、樹がよくする動作だ。中学のころから全く変わらない、あまりにも解りやすいその動作に、思わず頬が緩む。


 話は、自分でもびっくりするほど話題に事欠かず、いつまでもしていられた。

 この世界のこと、文字のこと、あの精神負荷結界のことへと止まることなく進む。

 そして当然、


「魔法ってさ、やっぱり火属性とか、そういう感じで別れてるのかな?」


「石とか、風とか、水とか?」


「そう! そんな感じ。神谷くんは、興味ある属性とかあるの?」


 この世界で一番の不思議――《魔法》へと興味が移る。

 本当にさわりだけだが、ミレーナからは魔法についての基本的なことを教えてもらっている。ミレーナが言うには、この世界には魔法と魔術があり、それらは決して摩訶不思議な力などではなく、れっきとした技術らしい。


 基礎理論があり、関連物質が存在し、決まった手順を踏めば同じものが発動する。ただし、環境によっては影響をもろに受ける。それにより結果が変わる。地球でいうと、若干化学寄りのイメージに近いだろうか。


「俺は……風、とかかな」


「へぇー、意外。てっきり、火属性かと思ってた」


「俺の戦闘スタイルが近接戦闘系だろ? そう考えたら、火なんか使ったら怖いんだよな……俺まで焼けそうで」


「うわぁ、夢がないなぁ」


「へいへい、悪ぅございましたね」


 疲れたように樹は手を振り、最後のフレンチトーストにかぶりつく。そのしぐさを見て、なぜだか無性に安心する。一番大切なものが変わっていないことに、自然と笑みが漏れる。


 意外なことに、無関心で定評のある樹は、それなりに仲良くなった人からのからかいなら律義に返してくれる。少しのいたずらでも対応はしてくれるし、何なら仕返しもしたりする。


 これが親しい人でないときは、そうはいかない。あの絶対零度のような冷たい視線は、相手の気分を一気にどん底まで叩き落す。晴香自身も向けられたから解る。何というか、間違って先生を罠にはめてしまった時のあの感じがした。

 蛇に睨まれた蛙というか、何というか……最近は、そんな視線を送られることもなくなったけれど。


 大人ぶっているくせに、妙なところで子供っぽい。変なところで意地を張るし、気を許した相手には、案外年齢不相応な無邪気さも見せる。それに、何でもできるように見せかけて変なところが抜けている。その意外な一面が、変なギャップが、母性か何かを強烈に掻き立てる。わたしが付いていなくちゃと思わせてしまう。もしかしたら、その部分も晴香が樹に惹かれている原因の一つなのかもしれない。


「まあどっちにしろ、一朝一夕で身につくものじゃなさそうだけどな」


「だからといって、さぼらないように。弟弟子くん」


「だからやめろって、それ」


 笑い交じりでからかえば、割と深刻そうな顔をして反抗してくる。なるほど確かに、いきなりの弟呼びは恥ずかしいだろう。どうしようか、このまましばらくはこれでからかってみようか……。


「――食べ終わったら、部屋に来てくれってミレーナさんが言ってたぞ」


 ふふ、と堪えきれずに笑いだすと、かなり不貞腐れた顔をして樹はコップの水を飲み干す。それでもちゃんと、必要なことは言ってくれる。少しかわいそうになり、からかいすぎたかと反省する。


「あれ? 神谷くんは?」


「俺は別行動。ルナが返ってくるまで待機だってさ」


「そっか」


 昨日の今日だが、ついに来たかという思いが湧くことには変わりない。


 ――始まるんだよね、いよいよ……。


 心の中で、思わずそう呟く。

 怖いか、と訊かれれば、決してNOではない。魔法を習うということは、少なからず命の危険がある状況に近づくのだ。力を持ってしまえば、使えてしまえば、そうなってしまうのは仕方のないことなのだと思う。事実、晴香はやってしまうだろう。


 だけど、それでも、やらなければいけない。


 やらないという選択肢もある。だがそれは、選んでよいという意味にはならない。生き残りたいならば、大切な人をも守れるくらいの力が欲しいなら、その選択肢では到達することができないからだ。


 すでに晴香は、一度自分の命と樹を失いかけている。あの過去をもう一度味わえと言われれば、全力で拒否するし、何なら想像すらもしたくはない。


 痛い思いをするのは、身体だけではない。いやむしろ、身体の方が単純だ。時間が経てば、傷が癒えれば、痛みは自然と消えていく。ひとたび完治したならば、二度とその痛みを味わうこともない。


 対して、心はどうだろう。見えないくせに傷つきやすく、一度傷がついたら治ることはない。できるのは、傷口を何かで上塗りすることだけ。ふとした拍子にそれは容易に剥がれ、癒えることのない痛みを、予想もしない場面で味わうことになる。構えることができない分、それは単純な痛みよりつらい。


 自分のせいで樹が死んだら、ミレーナやルナが死んだら。この世界に晴香だけが残されてしまったら。確実に、一生消えない致命傷を心に追うことになるだろう。はっきりと、そう確信できる。


 もう、二度と御免だ。

 痛い思いをするのは、寿命が縮むような思いをするのは、あの時で十分だ。

 やらなくては。強くならなくちゃ。

 そう、まずは他でもない、自分のために。


「――おや? もう起きていたのか」


 突然、部屋の入り口から聞き覚えのある気怠そうな声が届く。振り返れば、やはりそこにはミレーナの姿が。慌てて挨拶をする晴香と樹に、ミレーナはおはようと応じる。心なしか、昨日までの隈が深くなっているように感じる。


「よく眠れたかい?」


「はい。むしろ寝すぎちゃったくらいです。すみません、朝食すっぽかしちゃって」


「なに、こうなることは予想していたからな。余った食材も、昼に回せばいい。実をいうと、もう少しくらい遅くまで寝ていると踏んでいたんだが。やっぱり、若いっていうのはいいな」


 微笑ましいものでも見るような目つきで、ミレーナが笑う。歳のことを訊くわけにもいかず、晴香は苦笑いする。


「ミレーナさん、その服は?」


「これか? 戦闘服ではないんだが、いざとなった時には動けるくらいの強度はそろえている。まあ言ってみれば、半戦闘服といったところかな」


 樹の問いに、ミレーナは服をつまみ持ち上げる。その服装は、少し大きめのブーツにローブを羽織り、昨日より少しだけゆったりとしたラフな格好。だが、それでも私服で着るにしては物騒なものであるため、だらしないという印象は全く湧かない。


「っとそんなことより、二人そろっているのはちょうどいい。私から少し、話したいことがある」


「話したいこと……ですか?」


「君たちに、大きく関係すること、と言えばいいかな」


 思わず疑問符を浮かべれば、ミレーナが補足をしてくれた。そのあとに続いた言葉に、晴香はごくりと喉を鳴らす。


「君たち、迷い人についてだ」


 ◆◇


「見知らぬ土地からやってきた、文化も言葉も異なる君たちのような人間は、分類上『迷い人』と呼ばれる。昨日調べてみたのだが、君たちの他にも過去には迷い人が存在した」


 椅子に座った俺たちに、同じく向かいに座るミレーナが一冊の本を広げ、とある見開きを指さす。そこには何人かの人間が、様々な格好をして描かれていた。字は読めないが、その恰好は白衣のようなものを着ていたり、魔法を放っていたり、何か大きな道具を使っていたり、と様々。彼らが、迷い人ということなのだろうか。


「保護された迷い人は、ほとんどが何らかの才能に恵まれていた。『物理学』『医学』『工学』そして『魔法』。どれもその時代の人間たちには思いつかないほど発展的なもので、文化を、技術を、飛躍的に進化させてきた」


「……迷い人は過去に何人も来てる。そして、それは周期的……?」


「鋭いな、イツキ」


 樹の呟きに、ミレーナは大きく頷く。言われてみれば、絵の横に書かれた時系列のようなものは一定間隔で文字が連なっている。ミレーナの捕捉によれば、誤差は数年ほどしかないという。

 しかし、晴香たちが現れたのはその期間外。つまり、来るべくしてきたわけではない、完全なイレギュラー。


 つまり――、


「迷い人は……また、来る?」


「その可能性が高い」


 ミレーナが、晴香の言葉を肯定した。それはすなわち、いくつかの可能性を認める言葉でもある。

 もう一度、世界を隔てる壁に穴が開くということ。この世界と別の世界が、つながるということ。上手くいけば、元の世界に帰ることができるかもしれないということ。そのすべての可能性が存在することを認める言葉だ。今まで一番大きな朗報だ。


 興奮しないことなど誰ができるのだろう。

 帰れるかもしれない、日本に。もう一度、元の生活に戻れるかもしれない。それを言われて、どう落ち着けなどと言えるだろう。現に、晴香の心臓はうるさいほどに鼓動を鳴らす。思わず笑みが漏れる。


「君たちが変えるチャンスが一番高いのは、いま言ったように次の迷い人が来る時だ。その時に動けませんでしたでは話にならない――言いたいことは解るな?」


 晴香も樹も、無言でうなずく。そのことは、一番解っているつもりだからだ。


 今のままではダメだ、戦えなければダメなのだということを。

 戦えなければ死んでしまう、それだけじゃない。せっかく舞い降りたチャンスを取りこぼしてしまう危険があるのだ。不測の事態が起こったら、強行突破しなくちゃいけない場面が出てしまったら、今のままでは確実に失敗する、死んでしまう。そうなっては、帰還どころの騒ぎじゃなくなる。


 どのみち、強くならなくちゃいけなかったのだ。

 樹のためだけではない。他ならぬ、自分のためにも。そのためならば、なんだってやってやる。絶対にギブアップなどしてやるものか。


「……さあ、覚悟はできているだろう。それじゃあ」



「修行開始と行こうか」


 ◆◇   ◆◇   ◆◇


「まずは、魔法というものが何なのか、から教えよう」


 師となったミレーナの家に居候することが決まって二日目。朝食をとり、その他するべきことを終えた後、晴香はミレーナに連れられすぐ近くの草原へと足を運んでいた。しばらく歩いたところでミレーナが止まり、こちらを向く。


「君たちの世界についてはよく知らないから、解りにくいかもしれんが……」と前置きして、ミレーナはこの世界、そして魔法について話し始める。


 文献によれば、この世界はどうやら大きな大陸が五つ組み合わさってできており、ここは、《アルトレイラル》という国に属する領地らしい。


 種族は晴香らのような人種が大半を占めるが、ドワーフやエルフ、ルナのような獣人に至るまで多種多様な種族が存在している。ミレーナの話から推測するに、技術水準は中世ヨーロッパよりもいくらか現代寄りというレベルで、銃や航空機といった飛び道具、最新電子機器の類は存在しない。かなりアンバランスな文明の発達だ。


 その代わりに大きく発達しているのが、《魔法》正確には《魔術》と呼ばれる技術である。


「ハルカの言っている《魔法》というのも、厳密に言えば間違いじゃない」


 そう言ってミレーナは目をつぶり、胸の前で空気を包み込むように両手を合わせる。


「私たちの身体には魔粒子と呼ばれるものが流れている。それが変質することで『力』が発生し、それを上手く制御したものが魔法や魔術だと考えればいい。そして《魔法》は、体内のそれを直接変化さる技。詠唱の必要はないし、『力』の変換効率も魔術とは桁違いだ」


 合わせた両手の中に、小さな光の玉が生まれる。生まれた光球は、風に揺られて絶えず形を変えながら、発光を続ける。


「きれい……」


 目を閉じるミレーナの表情、そして雰囲気も相まって、魔法を行使するその姿はまるで有名な画伯の絵から抜け出してきたかのように美しかった。

 晴香の言葉に片目を開けて微笑み、ミレーナは言葉を続ける。


「……だがその分、大きなデメリットも存在する」


 瞬間、


 手の中の光球は一瞬だけ光を強める。そうかと思えば、次の瞬間には激しい音と共に爆散した。脳を直接揺さぶるような光の嵐に、思わず数歩後ろに下がる。次に見たとき、光の玉は跡形もなくその形を失っていた。


「――制御が、恐ろしく難しい。適正者を除けば、実践レベルで使える者の数は極端に少ない。魔法は感覚の側面が非常に重要視される。訓練をしていなければ、大抵は今のようになる」


 ちなみに、ミレーナはその適正者という部類の人間であるらしい。


「……この力を誰でも使えるように汎用化させたものが、さっきも言った魔術だ」


 そう言うと、ミレーナの手は腰へと伸びる。

 この場所で、一つだけ異彩を放つ道具にミレーナの手が伸びる――


 杖だ。


 見るからに高そうな杖が、最高の匠によって削り上げられた一品ものかと錯覚するほどの魔法具が、ミレーナの手の中に収まっている。本能が悟った、あれは、今まで晴香がカリバー・ロンドで使ってきたものとは一線を画すものなのだと。


 ごくりと、つばを飲み込む。

 何に使うものなのか、そんなことはもう解りきっているようなものだ。

 ミレーナが杖を右手に構え、前方の岩へと向ける。そして、目を細める。


 その途端、


 ミレーナのまとう雰囲気が激変する。先ほどまでとは違う、ちりちりと焼けつくようなプレッシャーが放たれ、思わず息をのむ。


「灼熱の鉾よ……」


 杖の少し先に、「ポウッ」と小さな火球が姿を現す。詠唱が進むにつれ小さなそれは大きさを増し、ついには一メートルほどの鉾となって炎をまとう。若草が、大気が、空間が焦げ付く。耐えきれないとでも言うように、キチキチという嫌な音がどこかから耳に入る。


「豪炎をまとい、障害すべてを貫け」


 ゴウッ! 


 凶暴な音と熱が放射された。杖から放たれた炎の槍は、少し離れた岩に向かって真っすぐに飛翔する。遮るものは焼き焦がし、ひたすらに直進することを命じられた魔術は中術に己の役割を果たす。そして、


 着弾、轟音。

 それなりの大きさがあった岩を、跡形もなく吹き飛ばした。


「…………」


 そのあまりの威力に、言葉を失う。覚悟していたはずなのに、目の前で起きた非科学的な現象に脳が追い付かない。


「正しく使えば、自分を、大切なものを守ることが出来る力、それが魔術。そして、悪用すれば多くの人を傷つけてしまう狂気の技術」 


 ただただ、恐ろしかった。

 魔法が使えれば便利だとか、一度は使ってみたいだとか、そんな軽い思いは粉みじんにされてしまった。これは、そんな生易しいものじゃない。そんなことを思えるような代物じゃない。


 殺傷手段だ。どんなに言葉で飾ろうとも、それの事実抜きでは語れない。誰かを守るためだろうと、何かをしようとして使おうと。一歩間違えば命が吹き飛び、消えない外傷が残る。これは、そんな技術なのだ。


「怖いか?」


 こちらを振り向いたミレーナは、試すように晴香を見つめる。


「昨日、君たちに適性検査をしてもらったな? 君は、魔法行使に対し類まれなる才能を持っていた。君は、その気になればなんだってできるだろう。いまの魔術などたやすい。それよりももっと危険な魔術だって使える」


 ああ、なるほど。ようやく解った。


 樹が別行動な理由が、晴香だけを、わざわざミレーナが相手している理由が。つまりは、そういうことなのだろう。

 魔術に類前なる才能を持っていることが判ったから、その気になれば、いくらでも暴走だってできるだろうから、直接問いたかったのだ。


 お前はこの力を、使う恐怖に勝てるのかと。


「どうする? いまならまだ辞められるが」


 その目に内在している感情は、よく読み取れない。

 何かを待っているようにも、試しているようにも、からかっているようにさえも思えてしまう不思議な瞳。見る者には、何の情報も与えようとはしない能面のような瞳。見ているこっちが引き込まれてしまうような、虚無をたたえた瞳。


 やめるといったところで、ミレーナはおそらく責めはしないだろう。

 むしろ、晴香の選択を後押しし、別の手段を全力で模索してくれるようにも感じる。会ってしばらくも経っていないが、なぜか晴香にはそう感じた。


 ――止めてしまえ、殺人を犯す危険な力なんて……。


 どこからが、そんな声が聞こえたようなする。もしかしたら、これは晴香の深層心理なのだろうか。ポツンと聞こえたその声は、晴香の決意に黒いシミを作る。


 だが――、


 晴香は短く息を吐く。小さなシミが広がらないよう、思考を停止する。

 もう、決めたのだ。心に誓ったのだ。


 決して、足手まといにはならないと。今度は、わたしが樹を支える番なのだと。

 いまのままじゃダメなのだ。それでは樹に、頼ってはもらえない。頼ってくれなどと、偉そうには言えない。端から、選択肢などないのだ。


 殺傷手段だからなんだ。危険だからどうした。そんなこと、全てのものにも言えるじゃないか。魔術は、それが見やすいだけなのだ。制御できれば、どうってことはない。いや、できればではない。して見せる。


 表情を引き締め、ミレーナの顔を正面からとらえる。そして、小さく、だがしっかりと分かるように頷く。ミレーナの表情が、少し嬉しそうにゆがむ。


 覚悟など最初から決まっている。


「よろしくお願いします。先生!」


 この日、《魔術師・雨宮 晴香》がこの世界に誕生した。


※4/21 前章「少し先の未来」を掲載いたしました。プロローグの後です。ここまで読んでいる方は、戻ってご拝読ください。

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