95 父の言葉
祐介はひとりで、池袋の羽黒探偵事務所の窓から、空を眺めていた。悲しげな曇り空である。それは祐介の心みたいだった。
確かに、事件は解決したのかもしれない。それでも、祐介は、あの白石詩織がこの世を去ったことを飲み込めずに、もの悲しさを感じていた。今でもいたたまれずにいたのだった。
一月前のあの時、鶴岡八幡宮の石段から降りてくる詩織の瞳を見て、祐介は確かに一目惚れをしたのだ。彼女の胸に潜む、正体の分からない悲しみに深く共感したのだ。その人が、今はもうこの世にいないのだった。
あれからというもの、祐介は、どうも仕事が手につかなかった。何かをしていると、亡くなった詩織の顔が浮かんでは消えた。途端、悲しくてたまらなくなって、紛らわすように目を閉じると、詩織の顔が、ありありと瞼の裏に浮かんで、まだ生きているかのように思えてなからなかった。
どうして、ただの一目惚れに過ぎないこの小さな出会いだと言うのに、こんなに彼女の死を悲しく思うのだろう、と自分をおかしくも思った。
ただ、どんなに自分を笑おうとも、悲しい気持ちは尽きることがないのだった。
その時、祐介は、空から白いものが降ってきていることに気付いた。それは、風に揺られながら、窓から見えるビルの景色を、だんだんと白く彩ってゆくのだった。
「雪だ……」
祐介はひとり呟いた。そして、今年も東京に雪が降ったか、と思った。
祐介は、その雪の景色を眺めながら、今は亡き父のことを思い出した。
父が死んだのも雪の日ならば、父が、山形の自宅で、中学生の頃の祐介にあることを問いかけたのも、また雪の降る日だった。
祐介は、山形の本家に訪れて、父に会った。羽黒龍三の部屋に、祐介は父とふたりでいた。特に何をするわけでもなく、分厚い本を読んでいた。別に本を読みたかったわけではない。父と会話が弾まなかったからだ。
「祐介……」
と羽黒龍三は言った。山形に住んでいて、あまり日頃、会話のしない父が、こんな風にして、自分に話しかけてきたことに、祐介は少し驚いた。
父、羽黒龍三は、何か、深い悲しみを感じさせる表情で、しみじみと祐介を見つめると、優しい声でこう言った。
「祐介。これから先、どんなことがあっても、前を向いて進んでゆくんだ……」
祐介は、父が具体的に何のことを言っているのか分からなかったから、何も返事をしないで、ただ父の顔をまじまじと見ていた。
「……それでも、どうしても、立ち止まりたくなったら……その時は、父さんのことを思い出せ。俺は、今、離れて住んでいるし、お前の将来、生きているかも分からないが……お前が幸せになることを本気で願っている一人なんだから……」
そう言うと、父親はまた気まずそうに後ろを向いてしまった。
この時、父は自分の死を予見していたのだろうか、と祐介は今さらながら疑った。しかし、おそらく、警察の仕事の中で、自分がいつか無茶をして殉職するだろうということが、だんだんと感じられてきていたのだろう。それに、離れて住んでいる自分に対して、愛情が不足しているのではないか、と心配もしていたのだろう。その父がどうしても伝えておきたかった言葉なのだと祐介は思った。
「どんなことがあっても、前を向いて……」
祐介は、その言葉を小さく繰り返した。その言葉の意味を考えながら、また、窓の外を見上げた。
雪が降っている。父が語りかけてきた、あの日のように。また、父が去っていった、あの日のように。思い出がふつふつと浮かぶ、そんなどうしようもない悲しさに包まれながら、その胸の中にはどこか暖かいものがあった。そうだ。また前を向いて歩き出そう。
……祐介の瞳から涙が一滴、頬を伝った。




