8 若宮大路
しかし、祐介はこう思った。
これが恋心なら、なんという根拠のない恋心だろう、と。祐介は恋に傾く心が、理屈で計算のできるものとは思わないけれど、石段を下ってきた女性に、偶然にせよ、そのような感情を抱いたのだとしたら、ずいぶん自分がおかしい感じがした。
だいたい、祐介はその人のことをよく知らなかった。名前も、性格も何も知らない。縁もなければゆかりもない。もう二度と会うことのない他人。
思えば、印象に残っているのは瞳のみだった。その瞳のみが、その人を離れて、祐介の心の中で異様に燃え上がっているような気がした。
それは美しくて、ただひたすらに驚異的な瞳であった。おまけに、どうしようもなく実体がなかった。瞳は実際に目に見えたのだけど、祐介の心に響いているものは、もっと目に見えない雰囲気のようなものだった。それは大いなる勘違いかもしれなかった。
それでも、どこか深く胸に迫る瞳であり、眼差しだったと祐介は思う。確かにはっとするほど美しかった。
ただ、美しさとは外見のみを言うのではない。外見のみを美しさというなら、それは人形の美しさだ。
人間の美しさとは、やはりどこかプラトニックでもある気がした。美しい瞳、そこに宿る深い精神性のようなものが、祐介の胸を打った。
その瞳には、どんな感情が映っていたのか、それが次の疑問だった。その感情が、祐介の心を脅かしているのかもしれなかった。それもやはり、ちっとも分からなかった。
祐介は、訳もなしに自分の感情を否定しながら、胡麻博士と鶴岡八幡宮の参道である若宮大路を歩いた。
この歩道は、非常に賑わっていた。観光客が列をなして歩いている。両側には料理店などが並んでいる。それを落ち着かない心のまま、祐介は眺めて歩いた。
「どこでご飯を食べますか。それとも、ここから鎌倉駅まで歩くので、その近くで食べますか」
胡麻博士は、柄にもなく、食べ物の話をした。
「なんだか、ご飯が喉を通りそうもありません」
「どうしました。先ほどまで、お腹を空かしていたはずなのに」
胡麻博士は、妙な顔をして、祐介を見た。
「なんでしょう。ただ、何も食べないで歩いていたいです」
胡麻博士はそれ以上、尋ねなかった。何か分かった風になった。静かに頷くと、
「神社というのは、確かにそういうものでもあります」
と呟いた。
そのまま、ふたりは鎌倉駅までこの若宮大路を歩いていった。山の景色から離れて、海へと近づいてゆく。そして、鎌倉駅にたどり着いた。
胡麻博士は、ちょっと祐介の方を見据えると、
「これから、江ノ電に乗りますが、体調が悪いのなら、どこかで休憩しましょうかな?」
「いえ、そんなことは良いのです。それで、この後はどういう予定なのですか」
「長谷駅で下車し、長谷寺と鎌倉大仏を参拝した後、さらに江ノ電に乗って、江の島に行きます」
なんでそんなハードスケジュールなんだ、と祐介は思った。腕時計を見ると、すでに正午をまわっている。
そんなことを思っている時に、胡麻博士は静かな口調で、
「羽黒君。心というものは、時として理屈に合わないものですよ」
と言った。
こんなことを言われると、胡麻博士は、祐介の気持ちをうすうす察しているのかもしれないと思った。しかし、よく見ると何を考えているのか分からない。胡麻博士の考えていることは、いつもよく分からなかった。
「それでは、江ノ電に乗りましょう」
それから、祐介と胡麻博士は切符を買って、ホームで電車を待った。しばらくして、暗い緑色の車体が入ってきた……。