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85 浜崎滝子の塗香

 正月ほど、空気が澄んで感じられる、新鮮な季節はない。青々とした大空に、涼しげな風が吹いている。街はどこか人気のない、ひんやりとした情緒に包まれている。この日だけは、商店街の店も、スーパーマーケットも、ほとんど閉まっていて、もの寂しさと清らかさが、心を落ち着かせるのだった。


 祐介が心配していた浜崎滝子との面会は、思っていたより早く実現することになった。滝子は、ちょうど東京に出てきていた。そして、元日は、友だちとの用があって会えず、二日には明治神宮を詣でる予定らしく、参拝が終わってから、白石詩織の家に行く前に、渋谷の喫茶店で祐介と落ち合うことになったのだ。

 夕方、祐介は、渋谷駅の近くのとある喫茶店へと歩いて向かった。カランと鈴の音を立てて、祐介が入店すると、天井にはアンティーク扇風機が回り、白熱灯の黄色っぽいあかりが爛々としていて、ジャズの流れている洒落た店内なのだった。

 するとすぐに、店奥のテーブル席に、こちらの様子を窺っている、ふくよかで大柄な若い女性がいた。血色の良い顔色、骨格のしっかりした顔立ちで、少し恥ずかしそうにこちらの様子を窺っているところなど、なんとなく乙女らしいと思わせる。祐介は、直感的にこの人こそ浜崎滝子だと思った。


 浜崎滝子は電話で、赤いタートルネックを着てくると言っていたのだが、確かに、この女性はその格好なのだった。祐介は近づいて、女性に名前を確認すると、まさにこの人こそが浜崎滝子であった。

「驚いてしまいました。とても、紳士的な方で……」

 ハンサムなどと言うのはさすがに恥ずかしいのか、滝子は、まだろくに会話もしないうちから、紳士的な方と祐介を褒めた。

「ありがとうございます」羽黒は笑顔で答えてから「早速ですが、その日、白石詩織さんと会ったのは、何時のことですか?」

「あれは何時のことだったかな。確か、五時を過ぎて、五時半頃だったかな。でも、ろくに話もしなかったんです。だって、私はこれから旅行に行こうと思って、荷物をまとめていたのですから……」


「そうですか。それで、詩織さんの方から、あなたに家に泊まらせてほしいという話があったのですか?」

「それが、どちらからということはないのですけど。日光・鬼怒川に自動車で行くということを言ったら、その時に、家を一晩貸してくれないかって……」

「なるほど」

 祐介は、メモを取る。

「ああ、それでね。これだけは聞いてほしいのだけど、詩織からあるお願いをされていたんです」

「お願い?」

「ええ、お願い。私、その日、日光・鬼怒川に行くでしょう? でも、夜中に鎌倉を出るものだから、どこか途中で車中泊をしようと思っていたんですよ。それで、詩織が、その時に月島君に会ってほしいと言うの。それで、婚約者である詩織のことを本当はどう思っているか、代わりに尋ねてきてくれないかって、そう言うのよ。前橋に住んでいるからってね。私も詩織と同じで、月島君の同級生なんだけどね。こんなことは、大学時代に何度もやらされたし、私の仲介で、ふたりは婚約したようなものだから、こういうことは引き受けなければならなかったの」

「そうなんですか」

 祐介は、浜崎滝子は案外よく喋る人なんだな、と印象をあらためた。


「そうなの。それで、まあ、聞きなさいな。なんだかんだで、支度に、九時頃まで時間がかかってしまったんだけど、これは詩織の責任でもあって、なんだか、分からないけど、理由をつけて、私の支度を邪魔してくるのよ。まあ、月島君の本音をどうしても聞いてほしい、一生のお願い、とかなんとか涙ながらに言うから、友だちとしてほっとけないよ。それに、今から行っても前橋に着くの十二時ぐらいにならないかと思ったから、月島君は気にしないだろうけど、私がそういうのは気にするんで、私、じゃあ、あなたを残して旅行なんて行けない、今晩はこの家で語り明かそう、と言ったら、詩織のやつ、困った顔で、いやいや、前橋に行って月島君から本音を聞いてもらわないと困る、と強情になるので、私も、分かったよ、と。まあ、こういうのがその日の流れでしたね」

 祐介は、その言葉に納得したように頷く。


「自動車で、前橋へ?」

「そうね。前橋に着いたのは、十一時過ぎてたと思う。それで、月島君と話をしたんだけど、どういうわけか、私、すぐに眠くなって、その後のことは覚えていないんです」

「眠くなって、ちなみにその時、何か飲みましたか?」

「珈琲は飲んだけど……」

 祐介は、話を聞きながら、だんだんとトリックの全貌が見えてきたように思った。しかし、ある一点だけがまだ分からない。そこで、祐介は質問した。

「浜崎さんは、自動車のトランクはお使いになりますか?」

「自動車のトランクですか。ああ、それが、私、あそこにかつて塗香(ずこう)をこぼしてしまって。塗香って分かります? お香の粉末みたいなものなんですけど。良い香りのあるじゃないですか。それを変わったものってあるんですよね。カレーの匂いのやつとか。カレーの匂いならまだ良いんですけど、もっと、なんか、変な匂いのを大量にこぼして、トランク内に匂いが染みついてしまったんですよね。それで、トランクに荷物を入れると、みんな、その匂いになってしまうんで、荷物は後部座席か助手席に置いているんです。トランクは、ほとんど使わないですね」

 と、訳の分からない話を滝子にされた。しかし、祐介はこの返答で満足したらしく、浜崎滝子にお礼を言うと、荷物をまとめて、すぐに喫茶店を飛び出した。


「これで、アリバイは崩れた!」

 ……祐介はそう言って、事件の解決を確信した。それから、彼の心中には、いよいよ真実を暴いてしまった悲しみが込み上げてきたのだった。

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