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7 石段の女性

 鶴岡八幡宮の広々とした境内では、石段を登ったところにある本宮へと吸い込まれてゆくように、人の波がうごめいていた。石段には、降りる人と登る人がしきりに行き交っていた。

 羽黒祐介は、この石段の中途で本宮から下ってくる人の波の中に、美しい女性を見つけた。


 その女性は、白いシャツと黒いスカートという大人びた服装に身を包んでいて、遠見でも気品に満ちていた。

 だんだんと近づくにつれて、その見開かれた眼差(まなざ)しの内側に、黒い瞳がほのかに輝いているのが見えた。その瞳は、知性的でありながらもまるで冷たさというものがない。というのは、下瞼(したまぶた)がふっくらとして、少しまどろんだ目つきに見えるからだろう。彼女の瞳は、祐介をはっきりと捉えているようである。祐介もまた、その瞳のどこか夢見がちなところに心から惹きつけられた。視線が合わさっても、お互いに逸らさなかった。

 健康的な白い頬には、ほんのりと朱がさしている。口元に控えめで、上品な微笑みが浮かんでいた。しかし、それはひどく曖昧な笑みだった。清潔な黒髪は、シャツの襟元にかかる程度の長さのところで、わずかに内側になびいている。

 汚れを知らない、どこか世間知らずなあどけなさと、それでいて、不用心に近づこうものなら、心の全てを見透かされてしまいそうな神秘の知性を感じさせるのだった。そして、その神秘のベールの下に、なにか得体のしれない悲しみや戸惑いが潜んでいるようにも……ほとんど、そんなものは外面に現れていなかったにも関わらず……祐介には思えた。それらはほとんど直感的にやってきたもので、根拠のあるものではなかったが、その静かな感情の流れが、どこか祐介の心に引っかかった。彼女は年の頃、二十四、五というところだろうか。

 ……そして二人は、通り過ぎた。


 羽黒祐介は、なんだか夢を見ているような気持ちになったが、取り立てて、この場で彼女に話しかけるような理由もない。ただ、なんとなく忘れられそうもない瞳だな、と思った。夜も思い出すようになっては困るのだが、何故かそれとなく、予感させるものがあった。

 胡麻博士は、石段を登り終えたところで、まじまじと祐介の顔を見て、

「何を考えているのですかな?」

「いえ……」

 祐介は、額を手で抑えると、

「少しばかり、心が乱れたような……」

「心が乱れた? だったら、早く参拝しなさい」

 祐介は、やれやれと思った。自分は信心深くないのだ。しかし、ここは鎌倉である。鶴岡八幡宮においては、やはり信心をもって、お参りすべきだろう。人の列の後ろに並んで、順番が来るのを待つ。


 ついに自分の番が来た時、祐介は胡麻博士に言われるがままに二礼二拍手して、その後、その合掌のまま、何をお願いしようかと思った。

 ところが、(まぶた)に浮んでくるのは、あの女性の瞳ばかりだった。それを拒むように、祐介は忘れよう忘れようとした。しかし、思えば思うほど、はっきりと心に焼き付いてゆくのが、空恐ろしかった。何が起きたのか、自分でも分からなかった……。

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