78 胡麻博士の感動
『大晦日に私に電話をかけてくるとは、羽黒さん、あなたも幸運な人だ……』
と胡麻博士は、さも嬉しそうな声を上げた。
「あの、胡麻博士。一ヶ月前に鎌倉に行ったでしょう?」
『ふん。ところで、私は今、千葉の成田山新勝寺にいます。今年はここで年を越すつもりです。あなたはどうです?』
「……僕はいつも通り、探偵事務所にいます。それで、あの、胡麻博士、一緒に一ヶ月前に鎌倉に行ったでしょう?」
『あなたは、会話の前置きというものを知らないのですか。羽黒さん。そんなに早く用件を喋り出したら、会話の楽しみは何もないではありませんか』
「ああ、すいません」
祐介は、少し困って謝り、適当に会話を合わせた。
『今年も間もなく終わりますな。時が経つのは早い。一年はあっという間です。そして、人生というものもあっという間に終わってしまいます。気がつけば、全ては過去と消え去り、後悔ばかりが降り積もるものです。しかし、いくら後悔しても、放ってしまった矢は取り戻せないのです。それでも、前に進まねばならぬのが人生というもの。ああ、羽黒さん、ただ前に進みなさい。それでも、こうして、成田山の雑踏の中で、日が暮れるのをひとり待っている気持ちは、なんだか、ひどく詫びしいものです』
「そうですね。今、お一人なのですか?」
『すがりつく妻や娘を自宅に残してきました。そう言うと、防人の歌を思い出すでしょう?』
「知りません」
『あるのです、そう言う悲しき歌が。私の気持ちはその人々ほどではないけれど、こうして、雑踏の中にただひとりある心の虚しさは喩えようもありませぬ』
「あの、よく分かりませんが、一ヶ月前のことをお聞きしてもよろしいですか?」
『よろしい。こうして一人、孤独に酔っ払っている私に何を尋ねようというのだ。憐れなる探偵よ……』
「ええ、あの、江ノ島で白石詩織さんという方と会ったと思うのですが……」
『それは、もはや過去の話ですよ……』
「知ってます。それで、その時に何か彼女に不審な点はありませんでしたか?」
『彼女は、行く先の分からぬ旅人だった。昔も今も……』
「なんですって……」
『彼女の胸のうちを私は知りません。しかし、彼女が憐れな旅人であることはすぐに分かった。時の流れの中で、今も彼女はどこか見知らぬところを彷徨っていることでしょう。人間とはそういうものなのです……』
「胡麻博士。落ち着いてください。少しお疲れのようですから、一旦、自宅に帰られた方が良いのではないですか?」
『羽黒さん。君は私を病人呼ばわりですか! しかし、私は今、人生が極度に圧縮された絶対的なインスピレーションを体感しているのです。この無常なる世の、殺伐とした大地の中にただひとり、茫然として佇んでいるこの感動を!」
それは、成田山新勝寺ではなく、ゴビ砂漠にでも立っているのではないかと疑いたくなるような発言だった。




