77 胡麻博士の電話
日本の暮れというのは、なにか騒々しく感じられる。正月のような清浄な空気感はなく、何もかもが雑多で、忙しなく感じる。
祐介が赴いた池袋のデパートも、いつもよりも混み合っていて、賑やかだった。祐介は、探偵事務所への帰り道、池袋の喧騒の中、青く霞んだ空を見上げた。
羽黒祐介は、瞬く間に大晦日になってしまったと思った。
根来警部は、粉河刑事の家に泊まっているらしい。剣道家の粉河刑事の側にいれば、まあ、安心というところだろう。相変わらず、すみれも未空も、羽黒探偵事務所に泊まっている。祐介以外の三人は、白石詩織が事件に何らかの形で関わっているものとして、すでに事件の核心に迫ったという喜びに溢れているようだった。しかし、祐介はなんだか憂鬱であった。
白石詩織という一目惚れの相手は、今や、事件の中心人物なのではないかという疑いを持たれている。それがどのような形であったかは知らない。ただ、谷口刑事の部屋から詩織の写真が見つかったということ、そして、詩織が谷口という人間に言い寄られていて困っていたこと、これを結びつけて考えると、谷口刑事の死に、詩織または月島嶺二が何らかの形で関わっていてもおかしくない、と祐介は思った。
そればかりではない。長谷川刑事が殺害されたあの日、祐介は詩織に出会った。そこは鶴岡八幡宮の石段だった。祐介は、降りてくる詩織の何に惹かれたのかを思い出した。彼女には何か悲しさがあった。それが、何の悲しさかあの時の祐介には分からなかった。それが、もし、今回の事件に関するものだったら。そうだ。あの時、鎌倉に白石詩織がいたということが、ただの偶然でないのなら……。
祐介は、しかし、詩織がどのような形で事件に関係していたにせよ、楊亦菲のように、彼女を妖狐だと思うことはできなかった。これは、悪女の比喩なのだろうと思った。しかし、詩織にどうにかして同情したいという気持ちが込み上げてきた。
それが、単なる一目惚れによる心理現象にすぎないことも祐介には分かっていた。ただ、一時にせよ、一目惚れをした相手への愛着や、名残惜しさが、相手を同情したいという想いとなって現れてきているのだと、祐介は思った。
祐介は、そんな葛藤に苦しみながらも、月島嶺二と白石詩織の共犯説について考察を始めなければならなかった。
(もしも、白石詩織が共犯者なら……)
……長谷川刑事殺害は可能なのだろうか。つまり、長谷川刑事を殺害したのは、嶺二ではなく、詩織の方だったのなら。しかし、白石詩織は、少なくとも四時半まで、祐介と共に江ノ島近くの浜辺にいた。それから、六時半になって月島嶺二と鎌倉駅で遭遇している。
この間の二時間、彼女の行動は分からないが、彼女は知り合いの家に宿泊したというから、その人物に詩織のアリバイを確認する必要があるだろう。
だとしても、本当の殺害現場が鎌倉だというのなら、どうやって、その死体を前橋の公園まで運んだというのだろう。首が出現した時刻は午後十時。殺害時刻は午後五時だから、自動車を使っても時間には余裕があるだろう。鎌倉から前橋。自動車での片道は二時間から三時間くらいだろうか。往復なら四時間から六時間。しかし、もしそうならば、その間、彼女は知り合いに会っていなかったはずである。そのアリバイの確認が必要である。月島嶺二が鎌倉に到着したのは午後六時半のこと。しかし、彼も死体を担いで前橋に帰ったというわけではなさそうである。
祐介は、白石詩織とその知り合いに連絡を取る前に、胡麻博士に電話をかけることにした。
なにしろ、祐介はあの時、一目惚れのせいで感覚が鈍っていた。胡麻博士なら、白石詩織の異変のようなものに気づいていたかもしれないのだ。
祐介は、受話器を取って、胡麻博士に電話をかけた。着信が鳴り響いた後、あのどこか懐かしい声が響いた。
『胡麻である』
「胡麻博士ですか?」
『そういうあなたはどなたですかな?』
「羽黒です。お久しぶりです」
『ああ、羽黒さんじゃありませんか。失敬失敬。声を聞いたら分かるつもりだったのですが、案外、分からないものですねぇ』
と、胡麻博士はしみじみと言った。




