73 羽黒祐介の推理
前回、前々回、西側の窓を「東側の窓」と誤記しました。申し訳ありません。
祐介は、このような単純な謎は、時間をかけて考えるまでもない様子だった。それよりも、静かに窓の外の雨の降りしきる様を眺めている。
「どうなんだ? 君の考えを教えてくれ」
黒石は、急き立てるように言った。
誰もが、祐介の解答を待っていた。すみれもまたそのひとりだった。正直、黒石のだみ声を聞き続けるのが嫌になっていて、早く祐介のやわらかく美しい声を聴きたくなった。実際、これがミステリー小説の類であれば、あまりにも解答を出すのが早いと揶揄されてしまいそうなものだった。しかし、天才的な探偵である羽黒祐介がわざわざこの程度の問題に悩み苦しむはずもないのだった。
そして、祐介は坦々と真相を明かし始めた。
「これは推理小説のトリックにもならない茶番に過ぎません。事件当日、密室殺人なんてものはそもそも起こってなかったのですからね。まず重要な手がかりは、谷口春夜という、被害者の弟にして、第一発見者の証言です。
彼は「西側の窓の外から室内を見て、兄が倒れているところを目撃したのだ」と言っていましたね。ところが、そんなはずはないのです。なぜなら、西側の窓にかかっているカーテンは、寄り集まった布の陰となっている部分にまで血痕が飛び散っていました。そんな部分にまで血が飛ぶということは、殺害時、両端のカーテンは広げられていた。つまり、窓の外側からみれば、カーテンは閉じていたのです。ということは、外から室内の様子は見えなかったということになります。
それでは、そのカーテンはいつ開けられたのか。外から室内が見える状態になったのか。それは、犯人の手によるものでしょうか。しかし、犯人なら、わざわざ暗幕になっているカーテンを開いて、犯行現場を外から見えるようにはしないでしょう。ならば、第一発見者である春夜夫婦が一番疑わしいと言えるのです。
次に考えなければならないのは、北側の窓の縁に置かれていたというココアです。黒石さんは温かったと言っています。しかし、考えてもみてください。殺人が行われたのは、少なくとも一時間以上前、死体が発見されたのは三十分も前のことです。その間、開かれた窓の縁に置かれていて、まだ温かったということがありえるでしょうか。もっと冷たくなっていないとおかしいのではないでしょうか。
僕は、このココアがいくつもの意味を持っているように思います。おそらく、このココアはもともと殺害現場にはなく、事件発生の後になってから持ち込まれたものだったに違いありません。なぜならば、殺害時刻が一時間も前である以上、はじめからあったのなら、どうしても、もっと冷めていなければおかしいのです。それなのに、まだ温かったということは、少なくともそのココアが淹れられたのは、事件が起こったよりもずっと後のことです。おそらく、死体を発見する直前でしょう。そこで、当然、死体を発見した春夜さん夫婦がココアも持ち込んだという説が一番妥当ということになります。
さらに、北側の窓も開かれてはいなかったのです。なぜならば、いくらココアが淹れたてだったにせよ、窓が開かれて、すっかり冷やされた部屋に放置されていては、到底「温かった」といえる状態にはないでしょう。つまり、北の窓は警察官が到着する直前まで、閉まっていたのです。実のところ、ココアが温かったなどと言える状況は、本当にこのたったひとつのケースしかないのです」
「何ということだ!」
黒石は唸り声を上げた。
「とにかく、そうでもなければ、あの段階で、ココアが温かったなどということは到底ありえないのです。そして、このようなことから、谷口夫婦の証言はまるきり嘘だということが分かります。しかし、それではこの夫婦が犯人なのか? 僕はそうは思いません。
谷口春夜は、右手を骨折しているということもその理由のひとつです。
さらに、考えていただきたいのは、被害者の手の中から見つかった、あの「はるよ」という紙です。これはダイイングメッセージでしょうか。しかし、考えてもみてください。黒石さんのお話にもあった通り、机の鉛筆や文庫本からは被害者の左手の指紋ばかり見つかったということですから、被害者は左利きなのです。それなのに、床に落ちていたボールペンには右手の指紋しか見つかっていないのです。被害者が死に際に、利き手とは違う手で犯人の名前を書いたのでしょうか。そんなはずはありません。つまり、このダイイングメッセージは偽物ということになります。
被害者が、この偽物のダイイングメッセージを握りしめていたのも、煖炉の方に這っていっていたのも、それらを煖炉の中に放り込んで、焼き捨てようとしていたためです。それが犯人の名前ではないこと、濡れ衣を着せるためのものであることは、被害者にも分かったのでしょう。また、手で破ったぐらいでは、すぐに貼り合わせられてしまうと被害者は思ったのでしょう。被害者も刑事ですから、それぐらいのことは分かります。つまり「はるよ」というのは、犯人に仕立て上げれるはずだった、その予定者と言えるでしょう。
さて、いよいよ、大詰めですが、この「はるよ」というのは、異母兄弟の妻である晴代さんのことではなく、被害者の弟、春夜さんのことだと思うのです。犯人は、被害者の家族関係を漢字でしか知らず、「シュンヤ」さんを「ハルヨ」さんという女性、つまり妹と誤認したものと思うのです。これについては想像に過ぎませんが、もし、犯人が僕の思っている人物だとすれば、被害者の異母兄弟の妻の名前まで知っていたとは考え難いのです。
それで、この不思議の数々を説明できるストーリーは、ひとつしかありません。それは、谷口春夜夫婦が死体を発見した時、ドアには閂なんて、はじめからかかっていなかったのです。それどころか、北の窓の方が閂で閉まっていたのでしょう。だとすれば、犯人は家の中を通ったということになり、春夜さん夫婦が疑われてしまいます。
そして、春夜さん夫婦は、被害者の手の中にある「はるよ」の文字を見て、それを「はるよ」とも読める春夜さんのことを暗示していると思ったのでしょう。そして、事件の起こる前に、ふたりは口論をしていましたから、その声が異母兄弟の家にも聞こえていると思った。春夜さんは考えざるを得なかったのです。このままでは、自分が真っ先に疑われてしまうと……。
そこで、春夜さん夫婦はある演技をすることにしたのです。まず「はるよ」という文字は、異母兄弟の妻である晴代さんを指すものということにしてしまうのです。そして、奥さんに部屋の中に入ってもらい、ドアの閂を締めてもらって、春夜さんは自分で体当たりをしてドアを壊したのです。発見時、鍵が閉まっていたと嘘をつくために。そして、西の窓のカーテンを開いて、窓の外側にわざと足跡を残したのです。
そして、北の窓を開け放てば、ここが犯人の浸入ルートに見えるはずだった。洋館の北側には、仲の悪い異母兄弟の家があるのですから、容疑を被せるには、都合が良いわけです。しかし、窓を開いた途端、春夜さん夫婦は困惑したことでしょう。そこには真っさらな雪がひろがっていて、足跡はひとつもありません。とても、犯人が浸入したようには見えなかったのです。
おそらく、警察が到着したのは、この直後でしょう。死体発見時、手に持って入ったココアは、この時、窓際に置き去りにされたのです」
「祐介君。見事だ!」
黒石は、満足げに叫んだ。




