70 安楽椅子探偵
その日、事務所の外には雨が降っていた。窓には幾筋もの雫が伝い、隣のビルも白く霞んで見えている。室内の空気は冷え込んでいる。雨だれの音が響く中、カツカツと階段を上ってくる足音が聴こえてくる。祐介は、すぐにそれが黒石刑事のものであると分かった。壁にかかった時計を見ると、時刻は午後四時だった。がちゃりと音を立て、ドアが開き、ブルドックのような顔をした、巨体の中年刑事がのそのそと室内へ入ってきた。
この日、すみれはまだ事務所に泊まっていて、未空も居残っていた。そして、英治の姿もある。総勢四人の探偵事務所は大変、けたたましい物音と声に包まれていた。
「皆さん、お揃いで……」
と黒石は呟きながら、周囲の物音を訝しく思い、一体、誰がいるのだろうかとあたりを見回した。すぐに羽黒警視の娘、未空が奥の方に立っていることに気付いた黒石は、
「うおっ……」
としゃがれた声を漏らした。
「未空ちゃんじゃないか。おっきくなって……」
と黒石は、すぐに未空に駆け寄ろうとしたが、巨体が言うことを聞かず、へなへなっと足がよろめくと、どさっとソファーに深く座り込んだ。
「黒石さん。お久しぶりです」
と祐介は言いながら、ソファーに座り直して、すぐに握手を求めた。黒石は、祐介と握手をすると「ふふん」と声を出す。
「また君に会えて嬉しいね。祐介君。それにしても、未空ちゃん、おっきくなったなぁ。たまげた……」
「あの頃はまだ子供でしたから……」
当の未空は、黒石と何を話すというのでもなく、側に立ったまま、こくんこくんと頷いている。
「幸せなもんだよ。君たちがこうして成長してくれたんだからね。お父さんも、あの世で喜んでいることだろう。しかし、良いのかい? 未空ちゃんがいて。俺は、君たちのお父さんの事件の資料も持ってきたのだよ」
「それは、未空がいない時にでも読みましょう。大丈夫です。実際、今すぐ必要なのは谷口刑事の事件の情報です。その捜査線上に白石詩織という名前があるか、今すぐ確認したいんです」
「そう急くでないよ。今、出すからさ……」
黒石刑事は、鞄から紙を取り出して、机に置いた。そして、すみれからタオルを受け取って、ズボンの裾を拭いた。しばらくして、すみれの方を見て、この人は一体誰だろう、という顔をして、祐介に、
「秘書を雇ったのかい?」
と尋ねた。
「いえ、群馬県警の根来警部の娘さんです。僕が守ると決めたんです」
「なに、祐介君が守ると……。この人を。そりゃあ、良い話をもらったものだねえ。こりゃ、おめでとう……」
と黒石は、何か勘違いしたらしく、しみじみと言うと、すみれにお辞儀した。
「やだっ。羽黒さん。勘違いするようなこと言わないでくださいよ」
すみれは恥ずかしくなって、真っ赤になると、黒石から返されたタオルを強く握りしめて、祐介を叩いた。
黒石は、訝しげな顔をして、ふたりの様子を見ている。しばらくして、何か反省した風にうつむくと、口を開いた。
「なにか、俺、勘違いしたかな。羽黒くん。事件の資料ばかりめくっていないで、もうちょっと俺にこの状況を説明してくれないか。まったく……」
「すみません。ところで、僕も久しぶりに安楽椅子探偵の真似事をしようと思うのですが、谷口刑事が殺された事件について、教えて頂けませんか?」
「かまわん。まったく、君は事件の鬼だな。亡くなったお父さんにそっくりだ……」
と黒石刑事は言ってから、にやりと笑った。