64 横浜中華街の青島飯店
横浜というあの海の匂いのする街が、すみれにとっては、どこか物珍しい。
群馬県民はよく、群馬には海がないと語る。そのため、今度の横浜への遠征に、すみれはどこかはしゃいでしまう気持ちを抑えられないでいる。当てが外れたことは、ひとつだけ。祐介の妹の未空がこの捜査についてきたことだった。
東急東横線の車内で、間もなく横浜だという頃、祐介はすみれにこう語った。
「中華街の青島飯店に勤めている楊亦菲さんが、これから会う月島嶺二のかつての恋人です」
「中国の方だったんですね」
すみれは、あらためて驚きを口にした。
「ええ。楊さんは、当然のことながら、月島のことをよく知っています。都内の某大学で一緒になったのだそうです。かれこれ、十年近く日本に住んでいらっしゃるようで、日本語も堪能だそうですよ」
すみれは、頷いた。ふと横を見ると、未空がさも面白うそうに窓の外の景色を眺めていた。
そして、三人が、横浜というこれもまた現代と近代の香りが入り混じったような、その風変わりな街並みに通りかかったのはちょうど正午のことだった。横浜駅で降りずに、三人はそのまま、みなとみらい線で元町中華街まで直行した。地下鉄になると、未空はいかにもつまらないと言った表情で、眠り猫のようにうとうとしている。それを見ると、すみれは、いよいよ無邪気な子どものような印象を持った。
中華街の駅から階段を上がって、しばらく歩くと重々しく立ち塞がるのは善隣門、一歩踏み込めば、そこに立ちのぼるのは絢爛たる中華文明の芳香、天女の舞う夢のように現ならざる世界を映しだしていた。しかし、その芳香の正体は、どうも栗と肉まんの匂いだったようだ。
「お腹減りましたね」
とすみれは正直な感想を述べた。
「美味しそうな香りがしますね」
祐介もそう言って、まわりを見ると、未空の姿がどこにもなかった。
「未空はどこにいきました?」
「ふらふらと匂いに誘われて、どっかに行っちゃったんですかね?」
ふと見ると、白い湯気の立ちのぼる店先の列に並んでいる未空の姿があった。肉まんを買おうとしているのが一目で見て取れた。
「未空、遊びに来たんじゃないんだよ」
「肉まん食べたい」
未空は、兄の言葉も聞かずに、楽しげに列の先を見つめている。
「困ったな。未空には……」
祐介は、まじまじと妹の姿を見ていたが、ここまで来て何も食べるなというのも可哀想な気がした上に、すみれも「わたしも肉まん、買っていいですか」ということを言ったので、祐介とすみれも列に並ぶことにした。すぐさま、自分の番が来て、大きな肉まんを買ったが、後々考えるとこれは誤算だった。
三人は、店先で肉まんを食べると、ちょうど約束の時刻も迫ってきたので、青島飯店に向かった。
宙を飛び交う自動車のクラクション、中国語の聞こえてくる通りの、ごってりとした彩色の店構えの並んだその先、ちょっと路地に入ったところに青島飯店はあった。
白い彫刻の龍虎、赤い塗装の外壁、緑色の切妻の瓦、棟門のような入り口に掲げられているのは「青島飯店」の金字。その絢爛にして壮麗な店構えは、まさに金殿玉楼、中国の宮殿を思わせるほどの優雅さである。
長身の店員が、扉の向こうに立っている。彼は、三人に気づいて、扉を開くと「いらっしゃいませえ」と言った。すぐに祐介は、楊亦菲との約束を話した。楊亦菲は、この店の主人の娘だった。そこで、すぐに話が通って、店の中へと案内された。
祐介はふと、かつてこの青島飯店に来たことがあったのを思い出した。それは、赤沼家殺人事件の時のことだった。あれからもう一年が経ったことが、祐介は信じられなかった。あの時にいた店員は今もいるだろうかと思った。




