54 闇の中で
夜の深い暗闇の中に、根来拾三はひとり佇んでいた……。
経緯はこのようなものであった。根来はその日、仕事が終わった後、すぐに家に帰れば良いものをそうしなかった。事件が起きてからというもの、根来は毎日といって良いほど、帰宅する前に、洋菓子店パターツドウスの前に訪れるようにしている。さらに、この日に限っては、血まみれのカーペットが見つかった一軒家の前を通った後、そのまま暗夜に自動車を走らせて、一月前に自らが襲撃を受けたあの山の中へと入って行ったのである。
どっぷりと夜はふけて、闇が帳のように世界を覆い隠してゆく。山道を照らし出すものは自動車のヘッドライトだけで、むしろ空の方が紺色の中に星が煌めいて明るさを残していた。根来は、一月前と同じところに自動車を停めると、懐中電灯を片手に、彼自身が襲われたあの山道を登って行った。
仕事中は好き勝手に捜査ができない不自由さがある。だから、こうして夜中にでもこの山道に訪れないと、根来は一向に思ったような捜査ができずに、満足ができないのだった。
ここで、懐中電灯の明かりがいまだ照らし出していない、闇の向こう側から滝の音が聴こえてきた。途端、見覚えのある池が暗闇の中にぼうっと姿を現し、彼は立ち止まった。真横を見ると、かつて美しかった紅葉は散って、真っ黒な景色の中に、裸になった枝が白い骨のように伸びている。
「ここだなぁ……」
根来は、振り向きざま、持っていた懐中電灯で、せり出した崖を照らした。
一月前、根来はあそこから池の中にどぼんと落ちた。だとすると、あの上に根来が襲われた場所があるということだ。
さすがに根来も、この崖を登る気にはなれなかった。冷え切った空気が肌を撫でる。鳥肌が立つ。帰りたくなった。しかし、せっかく訪れたのに、このまま何もせずに帰るわけにもいかない気がした。
もちろん、この山ではすでに何度も現場検証を行っていたから、何かしようと力んでも、大体のことはすでに終わっている。
根来は懐中電灯を持ったまま、山道をそのまま奥へ奥へと突き進んでいった。この先には、泣き地蔵という、半分泣いた顔をして、もう半分の顔が崩れてなくなった地蔵菩薩が佇んでいるはずである。それを根来は見たくなった。
暗闇を突き進むと、道は下り坂となった。木々が生い茂るその底へと。何か無性に悲しくなる。どこかで何かが羽ばたく音がした。それが何かは分からなかった。
(なんだ、あれは……)
根来は、目を疑った。蛇のような蔦の生い茂る鬱蒼とした森の暗闇の底に、灯がともっていた。そこには窓があり、ガラスの中にちらちらと人影が見えている。ここには古びた一軒家があったが、それはすでに空き家で、現在は誰も住んでいないはずだった。そのことは根来も承知していた。それなのに、ここにこうして、灯がともって人影があるというのは……。




