49 羽黒未空
すみれは、人の言葉には二つ以上の意味が隠されることがあるのを知っていた。そして、人の心は二重構造にも三重構造にもなり得ることも知っていた。そのせいかもしれない。祐介の心が闇の中にあって見えぬのと同じように、自分の心も闇の中にあり続けるのだった。
なぜか、すみれは祐介の妹が待っていることを、喜びもしたし、悲しみもした。空想的な祐介とのロマンスが遠退いてゆく。そうして、池袋駅のホームに降りた時、彼女は現実に帰着したことを感じた。階段へ押し寄せる人間の波にさらわれながら、すみれは変に無味乾燥な気分に陥った。階段を降りてゆく。すみれはこのあたりから楽しくなった。祐介の妹がどんな人なのか、知りたくなった。会って何を話そうと期待が込み上げてきた。
そうして、池袋ですみれは祐介の妹に何かプレゼントをあげようと思って、デパートでクッキーを購入することにした。
「そんな、いらないですよ」
「羽黒さんはいらなくても、妹さんはいります」
すみれはそう断言すると、クッキーを購入した。
東口からしばらく歩くと、祐介の事務所があった。窓の中に黄色っぽい白熱灯の灯りが見えた。すみれは、祐介が蛍光灯やLEDを嫌っているのに違いないと思って、少し可笑しくなった。
階段を登ってゆくと、そこには扉があった。すみれはかつて本で読んだことを思い出して、祐介に、
「階段の段数は?」
と尋ねてみた。
「そんなもの覚えていませんよ」
と祐介は答えた。
祐介が扉を開けると、室生英治と可憐な少女がソファーに向かい合ってトランプをしていた。
この少女が羽黒未空だった。羽黒祐介の妹に相応しい可憐な女の子だった。
年はまだ十代に見えるが、実際は二十二歳らしい。美大を退学して、秩父にアトリエを構えてこの年ということらしい。
清楚な黒髪のショートがふんわりとしていて、色白で肌艶が良く、小さな唇は紅がさしていて、きょろっとすみれを見つめる瞳は黒かった。育ちの良いお嬢さんという感じだ。小柄で華奢な体つきながら、誰にも見劣りがしない、少女らしい華やかさがその姿に満ち溢れているところは、さすがに祐介の妹である。その癖して、猫のように腰を丸めてソファーに座り、細長い両足を横に放り出しているところなどは、行儀が悪いのにいかにも可愛らしく見えた。
「待ってたよ……」
未空は祐介にそう言うと、すみれの方を向いて「こんにちは」とお辞儀したっきり、大した会話もしようとしないで、トランプに視線を落としたのは、まるで人見知りな中高生みたいでもあり、いかにもマイペースな芸術家の印象でもあった。
「すみれさん。妹の未空と助手の英治です」
祐介がそう言うので、すみれが室生英治の方に視線を向けると、彼はいかにも単純で人の良さそうな男だった。彼はトランプをテーブルの上に伏せると、立ち上がって、すみれに愛想よく挨拶をした。その隙に未空はちょいと体を乗り出して、伏せてあるトランプをめくって見ようとした。
「あっ、駄目だろ。こらっ!」
室生はそれに気づき、未空の手を掴んで、トランプを奪い取って隠そうとした。すると未空も自棄になったのか、そのカードを渡そうとしないで、右足で室生の足を軽く蹴った。ふたりがソファーの上で半ば組み合いになって、醜態を晒しているのを祐介は無言で見つめていたが、しばらくして「やれやれ……」と呟いた。
祐介は、そっと耳打ちをした。
「こんな妹なのですが、すみませんね……」
「いえいえ、可愛らしくて結構……!」
すみれは無性にくすぐったくなって、変に大きな声を出してしまった。
「ほらほら、未空。すみれさんと会いたがってただろ?」
「どうも、どうも。羽黒未空です。よろしくお願いします……」
未空はふらふらと立ち上がると、今度はやたらにこにこしながら、すみれの方へと歩み寄ってきた。
「ふふ。兄がいつもお世話になってるそうで……」
「そんなそんな、こちらこそ……」
どんな世話をしたっけ。すみれは特に思い当たらなかった。




