45 美術館の夢現
ふたりは上野公園の道を歩いていた。花の咲いていない枝ぶりの見事な桜の樹の下だった。沈黙がふたりの間にあった。祐介はそれを気遣ってか、すみれの方を向くと、
「春には綺麗な花が咲きますよ」
と言った。
すみれも何だか気の毒なことを聞いてしまったな、と申し訳ない気がして目を伏していたので、綺麗な花が咲く、と言われてふと目が覚めるようだった。
「そう。羽黒さんはどんな花が好きなの?」
とすみれは取って付けたようなことを言った。言ってから、すみれの花が好きです、とか意味ありげなことを言われたら困っちゃうな、とすみれは急に恥ずかしくなった。
「………」
祐介は何か物想いに耽っているようで、先ほどの質問も果たして聞こえていたのか分からない。やはり、お父さんのことを思い出しているのだろうか。すみれは、少し心配になった。
しばらくしてからぽつりと彼が言った言葉は、面白くもなければ、おかしくもなかった。
「桃の花が好きです……」
「へえ。桃の花が……」
すみれはそう答えながら、祐介が落ち込んでいるのか何故なのか、見透そうとした。しかし、祐介は少し曖昧な笑顔を見せると、目の前にある美術館を指差し、
「見て行きますか?」
と言って、すみれの顔を見た。
すみれは、
「うん」
と言った。
すみれは、あらためて考えてみると、なぜ美術館に誘われたのかが飲み込めない。祐介は調査をするのが嫌になって、気晴らしに美術館に入ろうなどと言ったのだろうか。あるいはせっかく東京に出てきたすみれに、上野の美術館を見てゆくことを勧めたのだろうか。すみれは首を傾げながら、西洋絵画の油絵の並ぶ間を祐介と歩いた。
それは色彩の沼地と言って良い感じだった。バスケットに転がる果実も、ぼんやりと霞んだ湖畔も、滅茶苦茶に崩れた人間の顔らしきものも、みな色彩の沼の中で渦を巻いて沈んでいるようにすみれには思えた。それが浮上して煮え滾る。それは感情の坩堝とも思える。洗練された美がそこに横たわっていた。
しかし、すみれはこの沼に没入することができなかった。集中できないのだ。隣で静かに絵を見つめている祐介の気持ちが気になって仕方がないのだから。
「これは何でしょうね……」
と祐介は呟いた。
すみれはその絵を見た。変てこな色彩だらけの絵で、形と言えるものがない。のたくったような黒い筋に沿うようにして、緑と茶色の斑点のようなものが塗りたくってある。ちょうど、焼きもので言ったら、伝統的な織部の配色に益子焼の柿釉を混ぜたような色彩だった。
「これはジャングルですね」
とすみれは適当なことを言ってから、もう一度祐介の表情を窺った。
祐介は、少し冷静になったらしく、ふうとため息をつくと、
「いきなり美術館に誘ってしまってすみません。大切な調査の途中だというのに……。実は父が生前、絵画の収集をしていたものですから、つい懐かしさが込み上げてきて、ほとんど何も考えないで口から出てしまったんです」
と言って、すみれの目を見た。
すみれは、無理からぬことですわ、といきなり古風な台詞が喉まで出かかって、慌てて止めた。そして、
「まあ、気にしないで……」
といつも取りの口調で答えた。
「父は警察官でした。その父は、警察官らしい現実主義的な一面と、絵画や彫刻を好む芸術主義的な一面を持ち合わせていました。そうした父の二面性は、僕たち兄妹に分裂して継承されたのです。僕は警察官としての父の一面を継いで探偵になり、妹は画家になりました」
「へえ……」
すみれは、風情のない論文めいた言いまわしで回想が始まったことに困惑しながら、曖昧な返事をした。
「とにかく、元気を出して……」
すみれはそう言うと、祐介の背中をさすろうと手をまわしたが、猫や犬じゃあるまいし、さすがに止めておいた。




