3 すみれと逃げ出す
すみれは、父親がそんな事態に巻き込まれているとは夢にも思わず、川の飛び石の上で、片足立ちをしていた。
すみれは、その不安定な石の上で、すらりとした片足を後方に伸ばして、両腕を広げて、辛うじてバランスを取っている。ロングスカートが、風にふわりと膨らんで、なびいていて美しかった。
なんでこんな珍妙なことをしているのか。すみれ自身でさえ、よく分からなかった。
父と離れてからというもの、こんな山の中で取り立ててすることもなかったために、退屈が限界に達して、人目に触れず、こんなことをひとりでに始めてしまったのである。
そこにずぶ濡れになった父、根来拾三が走ってきた。すみれはそれに気づくと、驚いて、飛び石から飛び降りた。
(まさか、川に落ちたのか……)
すみれはそんなことを想像して、あまりにも間抜けな父親に呆れて、思わず眉をひそめた。
ところが、根来拾三はすみれに向かってこう叫んだ。
「逃げるぞ! すみれ!」
「えっ、どうしたの」
すみれは、その一言で、只ならない事態に陥っていることを感じたが、それでも、はっきりと状況を飲み込めないまま、父と共に元来た道を、走って戻ることにした。
根来は走りながら、すみれの方を振り返ると、
「すみれ、この山には殺人鬼がいる」
と言った。
「さ、殺人鬼?」
尚のこと、すみれは理解が追いつかなかった。
石段を駆け下りて、自動車のある車道まで辿り着くと、そこには例のヘルメットの不審人物の姿はなかった。
「ねえ、その格好で車に乗るの?」
すみれは相変わらず、状況を飲み込めずに、ずぶ濡れの父親が乗車することを拒んでいた。
「すみれ、今はそれどころじゃねえんだよ。俺は殺されかけたんだよ」
「なに、どういうこと、殺されかけたって……」
その時、ヘルメットの不審人物が日本刀らしきものを握りしめて、山道の石段を降りてきているのが見えた。
「いかん!」
根来は、慌てて、すみれを助手席に押し込むと、運転席に乗り込んで、急いで、自動車を走り出させた。
……山道の石段が、遠退いてゆく。
あの人物が何者なのか、根来には分からなかった。しかし、自分の命が狙われたという恐怖が、今でも心にこびりついているかのようだった。
「ねえ、なんなの?」
すみれが尋ねた。
「あのヘルメットの男が、日本刀で斬りかかってきたんだ。俺は、あいつを振り切って、川に飛び込んだ。それでこのざまだよ」
「どうするの?」
「報告するしかねえな。一応、殺されかけたわけだし……」
根来はそう言うと、額の汗を拭った……。