29 詩織スペシャル
「それを聞くと、どうもあなたのアリバイは完璧のようですな……」
根来がメモ帳を眺めながら、悔しさを滲ませたようにそう呟いたので、嶺二は心外そうな口振りで、
「当然ですよ。それとも何です。私を疑っていたのですか……」
と言った。
「いや、そういうことじゃない、そういうことじゃない……」
根来は、弁解がましくそう言うと、メモ帳に汚い字を走らせて、コートの内ポケットにしまった。
「それよりも、牧野さんという方とお話がしたいのですが……」
「ああ、彼は今、ちょっと食材を取りに外に行かせています」
「ああ、それならまた今度で良いです……」
嶺二は根来のその言葉に頷くと、祐介の方にくるりと振り返った。
「羽黒さん。詩織にも今のことを伝えておいてください。僕は決して横浜に立ち寄ったのではないということを……」
「ええ。しかし、何故そのことを詩織さんに説明なさらかったのですか? 説明していれば、誤解を受けることもなかったでしょうに……」
祐介は、話を聞きながら、疑問に思っていたことを尋ねた。
「いえ、実はその鎌倉の先生に試食してもらった、試作品のケーキというのが、詩織スペシャルという名のモンブランだったんです」
「はあ……」
祐介は呆気に取られた。
「分かりますか。詩織スペシャルというモンブランをつくっていたのです。来週はクリスマスですからね。来週のクリスマスケーキのお披露目までこのことは秘密にしておこうという考えだったんです」
「なるほど……」
そんな秘密があったために、自分はわざわざ群馬までやってきたのか、と思うと祐介は拍子抜けのあまり、心の底が冷たくなる感じがした。
「ええ、なんです。その詩織スペシャルというのは……」
根来が、さも疑わしそうな目を向けた。
「恋人の詩織に渡すクリスマスケーキの名前ですよ。僕も洋菓子職人の端くれですからね。恋人にもケーキで愛情を示したい」
「ああ、クリスマスプレゼントということですか。それは一般発売するのですか?」
「詩織の了解が取れれば……。でも、僕はできれば発売したい。僕と詩織の幸せを少しでも皆さんにお裾分けしてあげたいからです」
「ああ、お裾分けね……」
根来は面倒くさそうに呟くと、メモ帳をまた睨みつける。
「詩織にもクリスマスケーキのことはまだ秘密にしておいてください。ところで、まだお伺いしていなかったのですが、羽黒さんは詩織の……?」
どういう関係なのか、まだはっきりと分からないらしい。
「……いえ、僕は私立探偵です」
「ああ、探偵さんなのですか。詩織も大袈裟だな。なに、代金は僕の方から払いましょう。詩織を不安がらせたのも、僕の責任だ。いくらです?」
なかなか太っ腹な男である。しかし、それは探偵の流儀に反する。また祐介は、詩織からも代金を取ろうなどと思っていなかったため、曖昧にぼかしてこの場を済ませた。第一、本来の依頼内容からすれば、探偵であることが露見した時点で、失敗に他ならなかった。
このように、嶺二の大胆な口振りに圧倒された形で、祐介、根来、粉河の三人は、洋菓子店パターツドウスを後にした。
それから、肌寒い街路を歩きながら、根来は祐介に、
「なんで、前橋に来たんだ?」
と尋ねた。
「仕事です。月島嶺二のことを調べてほしいという依頼だったもので……」
「月島嶺二のことを……? そいつは気になるな。まあ、積もる話もある。群馬警察本部に寄って行けよ」
根来はそう言うと、街路に停めてあった、黒光りしている自動車に乗り込んだ……。




