1 根来警部、狙われる
……その日、雪が降っていたのを祐介は覚えている。
ただ、何もかも隠してしまいそうな、そんな雪が朝霧の中で降っていたのを。こと切れた父のもとに駆けつけた祐介は、その時のことを覚えている。風に吹かれて、空に舞い上がる白雪。全ては、その雪の景色の中にあった。
*
「晩秋だなぁ……」
根来拾三警部は、鮮やかに赤い葉を伸ばしている紅葉を眺め、清らかな川のせせらぎを聴きながら、ゆるやかな坂道を下っていった。
見上げれば、青空には、雲ひとつなかった。山並みは霞むこともなく鮮やかに迫ってくるようだ。地平もまた、どこまでも遠くまで見通せるのだった。
十一月下旬のこの日、群馬県警の根来拾三警部は、終日休みということで、こんな名もなき山奥の、とりわけ風光明美なところにふらりと訪れていた。
寂れた神社を冷やかして、暇そうな茶店で甘酒を買った。そして、それをさも美味そうに飲みながら、山道をふらふらと歩いてゆく。
(百合子、お前が生きていてくれたらな……)
根来は、ふと亡くなった妻のことを思い出した。
山道を下ったところにある車道に、自動車が止まっていた。その車内には、根来拾三の娘、すみれが退屈そうに座っていた。
すみれは、母性的で優しげな、大きな瞳をしていた。大人びた美しさが光る中に、まだどこか少女らしい雰囲気が見え隠れしている。ふんわりとした茶髪のショートカットが小顔を優しく包んでいた。年は二十代中頃である。
すみれは、やれやれと思っていた。何故、こんなところまで父親に連れ出されなくてはいけないのか。父、拾三は何かというと娘を連れ出したがる。さみしがり屋なのである。高校の頃ならすみれも父のことを蹴飛ばしていたかもしれない。それでも、大学を卒業してからというもの、だんだん、破茶滅茶な父と和解を果たし、今では仲の良い親娘となった。
それでも、こんな名もない山道で自動車を停めさせて、ふらふらとしているのには、すみれもついていけなかった。
拾三は、見るからに屈強な体型をしていた。その根来が、妙に笑顔で、ぼろぼろの石段の上から手招きをしていた。すみれは、目を見開いて、父親の手招きを眺めていたが、ついに観念して、自動車から降りた。
「どうしたのー」
「すげえんだよ。川があるんだよ」
根来は、群馬県民らしからぬ、べらんめえな下町言葉で、大して珍しくもないことを言った。
「川?」
すみれは、頓狂な声で答えた。
「川ぐらいあるでしょう」
「そこにな、真っ赤な紅葉があるんだよ」
「へ、へえ……」
すみれは、その川に突き落としてやろうか、と思った。にわかに竹刀を振り回していた高校の時代を思い出してきた。
そもそも、すみれは田舎が好きではない。休日はデパートに行きたい。お洒落なカフェに行きたい。父親ではなく、素敵な男性と出かけたい。
しかし、目の前には、群馬県警の泣く子も黙る鬼警部が、満面の笑顔で手招きしているのだった。
これが現実なのだ。
すみれは騙された気持ちで、父、拾三とその山道を歩いた。見れば、清らかな川が流れている上に、一本の紅葉がせり出していた。なるほど、血のように赤く染まっていて、どこか、日本画のような格好の良さがあった。
「どうだ、娘よ」
「うん、いいね」
拾三は、その返事が妙に堪えた。素っ気なく感じた。拾三は、すみれが小学生の頃「お父さん」と言ってしがみついてきたり、クリスマスプレゼントに、大声を上げてはしゃいでいる姿を思い出した。その時と比べて、あまりにも、今のすみれはドライだった。
拾三は、静かに頷くと、無言のまま、川の紅葉を眺めた。
すみれは、どこかへふらふら行ってしまった。拾三は、ぼんやりと岩に座っていたが、山道をさらに奥へ奥へと歩き出した。
ひどく、細い道で、右側によろめくと、谷底に落ちてしまうようなところだった。
汚い高札みたいなものがたっていて、見れば「泣き地蔵二百メートル」の文字が書かれていた。
「なんだこいつは……」
この先に、面白おかしい地蔵があるらしかった。他に行くところもない。歩いてみるか、と根来は足を進めた。
……その時だった。
左手の崖の上の大きな岩が、音を立てて揺らいだ。そして、そのまま、土ぼこりを巻き上げながら、一気に根来の頭上に落ちてきたのである。
「うわぁっ……」
根来は、あまりのことに悲鳴を上げて、山道に伏せた。
岩は根来の足元の土に落下し、弾かれて、さらに崖の底へと転がり落ちていった。
根来は、はっとして、崖の上を見上げた。すると、黒い人影が山の奥へと走ってゆくのが、ちらりと見えた。
「あの野郎……」
鬼警部は、鬼のような形相になると、急いで崖の急勾配に足をかけて、よじ登った。
犯人を捕まえるしかない、という刑事魂が燃え滾りだしていた。
根来は知らなかった。これが、罠だということを……。