17 根来のメール
根来警部の追及は、夜通し続けられた。
それはまさに虎が獲物を狩るようだった。しかし、もっと正確に喩えれば、それは獲物を見失った迷子の虎と言って良かった。
まず前橋の公園とこの寺の防犯管理に関する情報は、期待通りに集められた。
しかし、時刻が深夜になってしまったので、街頭の目撃情報は得られなかったし、死体の詳しい検死結果に関しても、司法解剖の結果を待たねばならなかった。
そもそも、この段階で得られる情報と言ったら、そんなにない。寺の僧侶の証言と、公園の生首を発見した襟山洋一の証言くらいなものだった。
根来警部は、暗闇の中を夢中に駆けまわっているばかりだ。掴もうとしても、そこには何もない。
そうして、空が白んできた時、根来警部は眠気のあまり頭がぼうっとしていた……。
羽黒祐介は、北鎌倉の民宿の畳の間に大の字になって寝ていた。
彼の隣で寝息を立てていた胡麻博士は、五時になると、何の合図もなしに、鶏が時を告げる如く、むくっと起き出して、朝のジョギングの仕度を始めたのだった。
ふたりとも、群馬県前橋市にそのような恐ろしい死体が出現したことも知らなければ、そもそも、根来警部が不審者に命を狙われた事実さえも、まるで知らされていないのだった。
胡麻博士が、朝のジョギングの楽しみを味わうとして着替えをしていて、祐介が昨日の一目惚れに心を惑わしたまま深い眠りの底を彷徨っているのは、前橋で起きていることの深刻さと比べたら、まったくもって呑気な話なのだった。
胡麻博士は、民宿の亭主よりも早く起きて、前日に定められた通りに、鍵のかかっていない裏口から、一人飛び出した。
だいたい、まだ街灯の明かりを頼りにしなければ歩けないような時間である。胡麻博士は、白い息を吐きながら、冷たい風が吹きすさぶ中を走って行った。
胡麻博士は、彼なりに昨日のことを考えていた。
昨日は、羽黒君と白石詩織という女の人がなにやら話し込んでいた。なんだか、あの女の人には暗さがつきまとっていた。その暗さの正体はよく分からない。一度、お祓いでもしてもらった方が良いのではないだろうか。
事件のことしか興味を持たない羽黒君が、あの女の人の話を真剣に聞き入っている様子といったら、なんだか、違和感を感じてむずむずしてしまった。
胡麻博士は、そんなことを思いながら、円覚寺の前の踏み切りを通り過ぎた……。
祐介は朝起きると、隣に胡麻博士がいなかったので、しばらく状況を把握できずに座っていた。
ここはどこだろう。極楽だろうか。しかし、死んだ覚えがない。だいたい、極楽というのはもっと豪勢なところのはずだろう。
この古めかしい畳と、シミのついた天井……。このいかにもみすぼらしい八畳間は、一体どこだろう。
すると、祐介はすぐに自分が、前日から胡麻博士と鎌倉に訪れるていることを思い出した。
(そうか、ここは鎌倉か……)
すると、すぐに前日に会った白石詩織という女性の顔が、祐介の頭に浮かんだ。
まったく不思議だ。一体、あの女性のどこに惹かれたのだろう。あの瞳の奥に何が潜んでいたのだろうか。
祐介はちょっと頭を冷やした方がいい気がした。
祐介は前髪を掻き上げると、携帯電話を取り出して、メールの履歴を確認した。
(あれ……)
五日ほど前に読み飛ばしたまま、忘れ去られていたメールがあった。根来警部からのものだった。
『元気か。俺は元気だ。元気じゃなかったらとても生きていけない。これにはわけがある。一昨日、俺は殺されかけたんだ。俺は誰かに心配してほしいと思った。しかし、すみれは案外チャラっとしてる。だから、お前ぐらいは俺を心配して、電話のひとつぐらい、かけてきてくれたら嬉しい』
祐介は、なんだこれは、と思った。根来からのメールはかなり適当に扱っている祐介だが、どうも内容を読むと何やら重大な事件が起きたらしい。
殺されかけたなんていうのは、根来にはしょっちゅうあることで、別段、騒ぎ立てる必要もないと思う。だが根来は、娘のすみれに冷たくされると途端に心が折れて寝込む男である。
(電話した方が良いんだろうなぁ、これは……)
と祐介は思った。




