12 生しらす丼と胡麻博士
「探偵さんなのですか」
その時の詩織の表情は、心情を読み取れない曖昧なものだった。喜んでいるとも、悲しんでいるとも取れるその曖昧さ。
「ええ、それとこちらは、天正院大学の民俗学教授、胡麻博士です」
「そうですか」
紹介を受けた胡麻博士が姿勢を伸ばしたのとは対照的に、詩織はさらりとそっけなく答えた。
「羽黒さんが鎌倉にいらっしゃったのはお仕事ですか?」
「いえ、ただの旅行です。胡麻博士に誘われて、お寺と神社をめぐっていたところだったんです」
「大学の先生とお寺めぐりをされるなんて、楽しそうですね」
胡麻博士にとって悪い言葉とも思えないが、なんだか本人がそこにいないような言いまわしだった。それからしばらくして……。
「ちなみに生しらす丼はまだかね」
胡麻博士は、なんだか冷えきった声だった。それは店員のおばさんと息があったようで、ほとんど同時に生しらす丼の乗ったお盆がふたつ、運ばれてきた。
「これだ、これだ。君、これだよ」
胡麻博士は早速、箸を手に持つ。
「胡麻博士、白石さんのがまだ来ていませんよ」
「あら、相席の人間に合わせることはありませんよ」
詩織は、昔の良家の令嬢みたいな言いまわしをした。
すると、胡麻博士が身を乗り出す。
「そりゃそうだね。一期一会と言えども、飯が冷めてはしょうがない。食べたまえ。羽黒くん。ここで悪戯に時の過ぎるのを眺めていては、白石さんに対しては紳士であろうとも、生しらす丼に対して礼を失するのだ。しらす一匹一匹が命を投げ打って、このように丼に盛り付けられたのは、ひとえに君に食されるためなのだぞ」
「すいませんでした」
祐介はなんだか分からないが反省し、詩織に礼を言うと、胡麻博士に言われるがままに、生姜を醤油に浸し、かき混ぜて、生しらすとアジの刺身にかけた。
生しらすの乗ったご飯をほうばると、舌の上でやさしくとろける中に、塩辛さとしらすの風味が濃厚に立ちのぼった。生姜醤油が香り高く、ぴりりと舌を刺激した。
「美味しいなぁ。羽黒くん。これで分かったろう。私が君をこの地に誘ったわけが……」
「えっ」
「この生しらす丼を君に食べさせるためだ」
「なんですって」
祐介は呆気に取られた。鎌倉や藤沢に旅行する目的が生しらす丼というのは別段おかしくもないかもしれない。しかし、曲がりなりにも、胡麻博士は民俗学者である。円覚寺も、鶴岡八幡宮も、江の島弁天も出し抜いて、生しらす丼が旅行の主たる目的になるのはおかしくはないか。
そこで祐介は、あらためて詩織の瞳を見た。どこか物憂げに見えた。
「白石さんはこの後、どこをまわられるのですか?」
「いえ、特に。目的もなければ、予定もない旅なんです」
「お泊りになるのですか」
「ええ」
ちょっとの間、気まずい沈黙が生まれた。それを気遣ってか、詩織は、
「ごめんなさい。ちょっと気が沈んでいまして……。気になさらないでください」
胡麻博士は、何度か頷くと、
「空腹が原因ですな。間もなく、来ますからご安心を。あっ、来た」
と言って、お盆を運んでくる店員を指差した。
そんなわけはないだろう、と祐介は思った……。




