9 江ノ電
江ノ電は、鎌倉の内側を走ってゆく。
狭い路地の中を電車で走ってゆくような、そんな不可思議な感じがした。両側の窓を見れば、雑草や塀、家の壁がすれすれまで近づいている。そういうわけで、この線は、妙に生活感が溢れているのだった。
「ずいぶん混んでますね」
祐介は、ぼそりとそんな不平不満を言った。車内の話である。確かに観光客がひしめいている。見れば、長身のアメリカ人が大きなカメラを抱えていた。
胡麻博士も窮屈そうにしていたが、終いには、
「これも風情というものですよ」
と言った。
何が風情なものか。東京の満員電車と変わらないじゃないか。
もっとも池袋の事務所に寝泊まりしている羽黒祐介は、日頃はあまり満員電車に乗らない。洋服のように折りたたまれて、収まりもしない引き出しに無理に押し込められる感覚も味わうことは少ない。
こんな窮屈な思いをしている時には、あの瞳のことは忘れられた。人に好かれることには慣れていても、人を好きになることは、まるで初心者の羽黒祐介である。そこに、ほんの少しの心の余裕が生まれた。
そうしばらくしないうちに、電車は長谷駅に到着した。胡麻博士と羽黒祐介は、そこから降りて、道なりに歩いた。
長谷寺にたどり着いたのは、その直後のことだった。
この長谷寺の目玉は、長谷観音という仏像と弁天窟のようなものだった。祐介は、胡麻博士が何か説教を垂れるかと思ったが、案外、何も言わなかった。聳え立つ十一面観音像を前にして、ふたりは沈黙した。胡麻博士は、妙に寡黙になってしまったのだ。
祐介は意外な気がして、胡麻博士に、
「体調が悪いのですか?」
と尋ねると、
「いやね、君、お腹が減って、お寺どころじゃないのだよ。第一、君は食事というものを冒涜しているよ。とうに正午をまわっているじゃないかね」
「はあ、それじゃ、どこかお店に入りますか」
「いやいや、それには及ばない」
胡麻博士はふうと息をつくと、お腹をさすった。
まったく、この博士は何なのだ。先ほどまで、食事などどうでもいいと言っていたじゃないか。祐介はちょっと呆れた。
ふたりは、ささっと鎌倉大仏の参拝を済ませると、そのまま、長谷駅へ戻り、また江ノ電に乗って、江の島へと向かった。
鎌倉を出て、藤沢へ。しかし、ふたりの宿は北鎌倉近くの民宿なのである。なんで民宿なのか、祐介にはよく分からないが、胡麻博士はその民宿を選んだ。確か、知り合いが経営をしているとかいう話である。つまり、江の島まで出てきても、また江ノ電に乗って、北鎌倉の円覚寺あたりまで戻らないといけないわけだ。大変に億劫な気がしたのは、祐介が不信心だからだろうか。
左側の窓から、青い海が見えてきた。太陽に照らされて、やわらかな光が揺らめいていた。それは、なんだか、祐介には眩しすぎる気がした……。




