夢客還し
夢客は唸り続けるばかりで、なんの応えもない。
夢客が現れたはずの歪んだ空間は、すでに跡形もなく消えていた。
帰路が閉じてしまっている。
誠吾坊はそれを訝しく思う。
この夢客が自分の意思でこちらの世界に現れたのだとしたら、帰路は確保しておくはずだ。
なぜなら、根ノ世の者が人の世に長期間滞在することは難しいからだ。
根ノ世の住人は、既に人の世を去った者。
この世界に居てはならぬ者。
その摂理により、夢客の肉体は人の世に侵入したその時から形を維持できず、溶け始める。
万が一何らかの理由で夢客を還せない場合、天倶は夢客が消滅するまでのあいだ、日ノ世への被害を最小限に食い止めることがその役割となる。
今、誠吾坊が対峙している夢客は、その知能や判断力、そしてこの状況からしても、別の何者かによって人の世に送り込まれてきた可能性が高い。
しかしなんの為に?
それが誠吾坊にはわからなかった。
「再度問う。帰還の意思の有りや無しや」
なにも映さない目。
骨と皮だけの両腕を前につきだし、低く唸りながら近づいてくる夢客の姿を見て、誠吾坊は哀れとすら思う。
この夢客は、自分の身になにが起きたのかわかっていないのかもしれない。
「有りや無しや」
繰り返し問うも、返事はない。
誠吾坊は心を決め、金剛杖を握るその手に力を込めた。
「即送瞬消、為無事也。還!」
誠吾坊は金剛杖を一閃させた。
杖が直接夢客に触れたわけではない。
しかし、杖から発された光が、夢客を斬った。
短く悲鳴を上げた夢客は、しかし次の瞬間にはどろりと崩れ落ち、地面に吸い込まれるように消え去った。
後には染みすら残らない。
「な……なんだったの?」
背後から投げかけられた声に、誠吾坊はゆっくりと振り向く。
真っ青な顔で立ち尽くす少女がそこにいた。
「茅乃……」
誠吾坊の口から、想い人の名がぽろりとこぼれた。
これまで遠くから見守っているだけだった誠吾坊は、間近で見る少女に見惚れてしまう。
青ざめているとはいえその白い肌はまるで陶器のようにすべらかで、桃色の柔らかそうな唇が美しく映えている。
「え?」
「ああ、いや。なんでもない。それより君、怪我はないか?」
「あ、はい。ありがとうございました。あたしも彼も、なんともありません」
少女は尻餅をついている少年に手を差し伸べ、立ち上がるのを手伝う。
少年はその手にすがるようにしてなんとか立ったものの、両足がまだ震えている。
「それはよかった。今現れたのは異界の住人だ。なにかの拍子にこちらの世界に出てきてしまったのだろう。危ないところだったな」
「異界の住人……? 亡霊とか幽霊とか、そういう類のものなんですか?」
「少し違うが……死者の世界から訪れる者だ。それにしても、君は随分と落ち着いているな。これまでにも見たことがあるのか?」
「ありません。それに、ちっとも落ち着いてなんてないです。あたし、すごく驚いて、逃げることも出来なかったんですから」
「……そうか、そうだよな。当然だ。君の気持ちも察せず、すまなかった」
「いえ、そんなことないです」
「じゃあ……おれはもう行かないといけないから、くれぐれも気をつけて帰るように」
本当は、接触するつもりなどなかったのだ。
夢客さえ現れなければ、いつものように知られず立ち去っていた。
これ以上少女の身に危険が降り注がないようにと願いながら、誠吾坊は少女に告げた。