夢客
ここは中國、幡紀。中國は棋後、幸前、紡門、隻雲、幡紀の地から成る。
中央には中國を二分する険しい山脈が東西にはしっており、山脈の北側に位置する幡紀、隻雲の二地域では雨が多く、特に冬のあいだはその大半が曇天に覆われている。
一方で、山脈の南側に位置する棋後、幸前は晴れの日が多い。山脈の終点にあたる紡門では南部と北部で全く違う天候になる。
各地には代表する天倶の座がひとつずつ定められており、中國の五つの座にある天倶を総じて五天倶と呼ぶ。
そして中國のあるこの世界を、日ノ世という。
日ノ世に棲まう天倶たちは一様に、異界から日ノ世へ侵入しようとするモノからこの世界を、ひいては人間を守る役割を担っている。
天倶とは、天に従い働く者のことで、普段の姿形は人間とさほど変わらない。
だが、人間にはない能力、人間離れした体力、そして人間とは比べものにならないほど長い寿命をもち、飛翔時に出現させることのできる大きな翼を持っているのだ。
※※※
矢筈と別れた後、誠吾坊は山へ戻る前に、少しだけ寄り道をすることにした。
最後にもう一度、ある少女の安全を確認するためだ。
ばさりと大きな黒い翼を広げ、松の枝を蹴った。
ビルの屋上、木々の枝などを足場に高々と跳躍しながら、少女の通う学校を目指す。
上空から地上の様子を観察する。
いつもと同じであれば、そろそろ少女が下校する時間だった。
秋の夕暮れ時。日沈の時間が日に日に早くなってゆく。
誠吾坊は学校から少女の自宅までの道を、ゆっくりと辿る。
探している少女は、学校と自宅の中間辺りで見つかった。
横髪をバレッタでまとめ、後ろで留めている。
下ろされた少し癖のある長い髪が、セーラー服を着た少女の背中でふわふわと揺れていた。
その隣に、学生服を着た男子生徒の姿をみとめ、誠吾坊は微かに息をのむ。
次いで、自分がその様子に動揺してしまったことを恥じるように、首を軽く振った。
少女が幸せであれば、それでいい。
誠吾坊はそれだけを願っているはずだった。
男子生徒はとても快活そうで、歩きながらも積極的に少女に話しかけている。
少女は俯きがちではあるものの、嫌がっている感じではなかった。
時々、控えめにだが笑みを浮かべることもある。
誠吾坊はその笑顔を見て、ひとつうなずいた。
少女が元気で、幸せであればそれでいい。
そう自分に言いきかせ、山へと進路を変更しようとしたその時。
視界の隅でなにかが歪んだ。
誠吾坊は即座に視線をそちらへ向ける。
陽炎のように揺れる景色。それは少女の僅か数メートル先で起こっていた。
誠吾坊は注意深く目を凝らした。陽炎ではない。
その場所だけが不自然に歪んでいるのだ。少女たちは気づいていない。
あれは危険だ。
不穏な気配を感じる。誠吾坊は翼を隠し、電信柱から電信柱へと跳び移りながら、一気に距離を詰める。
その間にも、歪みはどんどん大きくなった。
そして――歪みの中心部から、骨のような腕が生えた。
誠吾坊は、電信柱から路上へと降り立った。
少女たちの進路をふさぐ形になる。
突然現れた誠吾坊に驚いた少女が、数歩後退る。
歪みの中心からは腕だけでなく、肩、顔、胴とまるで穴から這い出すように、異形が姿を現した。
やがて地面にべちょり、と鈍い音を立てて着地する。
子どもほどの体長だが、痩せこけ、その背は曲り、頭髪はほとんど抜け落ちてしまっている。
体表を粘液が覆い、それがぴちゃりぴちゃりと地面に滴り落ちる。
窪んだ眼窩は真っ暗で、口からは低い唸り声が洩れている。
誠吾坊の背後から、少女と少年の悲鳴が聞こえた。
「夢客か」
誠吾坊が呟く。
人は死して根ノ世へゆく。根ノ世は夜見の国とも呼ばれる。
ごくたまにだが、なんらかの原因により、根ノ世から人の世へと紛れ込んでしまう者がいる。
天倶たちは夜見の国からの来訪者を、夜見は夢に通じることから夢客と呼ぶ。
天倶は日ノ世を護らなければならない。
夢客が現れた場合、根ノ世への帰還を促す。自ら還らない場合は、強制的に還すしかない。
誠吾坊は腕をひと振りして、何処からともなく金剛杖を取り出した。
「此処を何処と心得る。此処は人の世、そなたの在る地とは異なる場所。いざ、尋常に帰還されたし。さにあらずば、我が手によって還すことになるが、如何する」
誠吾坊は、杖を夢客につきつけ、宣告した。