携帯と羽団扇
「あのな、前々から言おうと思っていたのだが、姿は見えずとも、近くから葵の様子を窺っているおまえの気配を感じたことは、一度や二度ではない。視界の端を黒い羽がよぎるようでどうにも落ち着かんのだ。葵のことが気になるのは充分にわかっているつもりだがな、もう少しなんとかならんのか」
「なに!? 気づいていたのか!?」
「ああ、気づいていたともさ」
「なんということだ。なんという不覚……」
誠吾坊が動揺し、頭を抱えてかがみこんだ。
涼は呆れてそれを見やる。そして慰めの言葉をかけようと口を開き、そのまま動きを止めた。
視線をある方向に定め、目を眇める。
涼の様子の変化を素早く察した誠吾坊が顔を上げ、涼の視線を追った。
「涼?」
「今、学校に張っておいた結界が破られた」
涼が剣呑な表情で告げた。
結界とはなにかを守るため、またはなにかを封じるためなどに、術者が張る壁のことである。ある程度の能力がなければ、その存在に気づくことはできない。
「あらかじめ結界を張っておいたのか?」
「葵から夢客の話をきいたからな。とはいえ、わたしの能力では弱いものしか張れんから、守りにはならん。異常を知るのに役に立つ程度だ」
「何故学校に?」
「学校だけじゃない。一応、葵の行きそうな場所には張ってある」
「おまえ……」
ほどほどに、などと言っていた涼が、そこまで手をまわしてくれていたことに驚く。
「頼まれたことは可能な限りきちんとやる。当たり前のことだ」
「そうだな。口ではなんだかんだと言いながらも、おまえが手を抜くはずはないんだ」
涼というのは、そういう子だった。
「今後もそうとは限らんがな。……七時半か。まずいかもしれんな」
「どうした? 授業が始まる前で、幸いだったと考えるべきだろう」
誠吾坊が首を傾げる。
「いや……葵だがな、最近、豊川……例の、最近葵につきまとっているあの男だが、そいつに
誘われて、時々サッカー部の朝練の見学をしているんだ」
「なんだと!? 余計なことを!」
「今日も朝練があるとすれば、そろそろ始まるはずだ。葵も学校にいる可能性が高い」
誠吾坊の顔から血の気がひく。葵を探しに行くために、翼を広げた。
「待て。今、携帯で確認してみる」
涼が今にも学校へ向かいそうな誠吾坊の腕を掴み、制止する。
片手でスカートのポケットから携帯を取り出し、電話をかける。
その様子を誠吾坊は無言で見つめていた。
微かにコール音が聞こえる。電話に出てくれ、と祈るような気持ちでいる誠吾坊の耳元で、かさかさという微かな音が聞こえた。
はっと視線を向けると、小さな松かさの精が空中に漂っている。
誠吾坊には、それが矢筈の使いだとすぐにわかった。
「どうした?」
「山が、何者かの襲撃を受けています。矢筈さまが応戦していますが、おひとりでは厳しいかと。至急、お戻りください」
「なんだと!? それで、敵の数は?」
「両手の指で足りるかどうか……」
「矢筈ひとりでは厳しいな」
誠吾坊が眉間にしわを寄せる。
「駄目だ。出ない」
涼が携帯を手馴れた動きで閉じた。
「何度もかけろ」
「何度もかけたが出ないんだ」
「くそっ!」
誠吾坊が吐き棄てるように言う。今すぐにでも葵の許にかけつけるつもりだったのだ。涼が引き止めなければ、今頃は葵の通う学校に到着していただろう。
葵が心配だ。
しかし山に戻らないわけにはいかない。
矢筈と宝珠、ふたりいるならまだしも、ひとりだけではもちこたえられないだろう。
だが、誠吾坊は迷っていた。
「おまえは山へ戻れ。葵はわたしが助ける」
苦悩する誠吾坊に、涼がきっぱりと言い放つ。
「だが……」
「確かにおまえはかつて小太郎だったのだろう。しかし今のおまえは誰だ?」
断罪するかのように、厳しい声音で涼が問う。
「おれは……おれは誠吾坊。箔伎山誠吾坊」
「そうだ。山の名を冠する天倶だ。中國を守る、幡紀国を守る、そしておまえの山を守る。それがおまえの仕事だ。わかっているはずだな?」
「無論、わかっている」
「では、自分の成すべきことをしろ。わたしも成すべきことをする」
涼の瞳が誠吾坊を射抜く。誠吾坊はその瞳を真っ向から受け止め、うなずく。
「では、彼女を任せる」
「任された。では」
涼が誠吾坊に背を向けた。だが、ここから学校までは距離がある。
「待て」
誠吾坊が涼を呼び止める。なんの用だと言わんばかりの顔で、涼が振り返った。
「学校までおれの風で送ろう」
合点がいったというようにうなずく。
「頼もう」
「頼まれた」
誠吾坊がどこからともなく羽団扇を取り出した。
「ところで、無事学校に着けるのだろうな?」
「一瞬で着く。しかし着地はおまえにかかっている。上手くやってくれ」
「なに!?」
やや引きつった顔をしている涼に向かって、誠吾坊は風力や風向きを調整して懐から取り出した羽団扇をひと振りした。
涼がなにやら叫んでいたが、すぐに聞こえなくなる。
涼にはああ言ったものの、着地の際には風の勢いが弱まり、無理なく着地できるように調整してある。
「誠吾坊様、お急ぎを」
「ああ」
誠吾坊は矢筈の使いを肩に乗せた。
地を蹴って勢いよく跳躍する。
後ろ髪をひかれる思いで一度だけ背後を振り返ったものの、思いを振り切るかのように誠吾坊は速度を速め、一直線に山へと向かった。




