異変
太く張り出した松の枝に、少年が腰かけていた。
白衣に篠懸、結袈裟という行者姿。足には一本歯の高下駄を履いている。
その容貌は十代後半くらいに見える。無造作に伸ばされた黒髪が、海からの強風に吹かれている。
きりりとした眉はかすかにひそめられ、その下の鋭い瞳は山と海に挟まれた小さな町の様子を窺っていた。
少年の背後には白い砂浜があり、その向こうには深い色をした海がどこまでも広がっている。海岸では大きな波が寄せては返すのを繰り返している。
町を眺めていた少年が、ついと視線を上げる。
その先には美しく壮大な山が悠々とそびえている。
霊峰・箔伎山である。そこに連なる山々は折り重なるようにしてどこまでも続いている。
海と山に挟まれた決して広くはない平野に、人々は町を作った。ここは山脈の北側の地域にとって要となる町だ。
アスファルトが地面を覆い、コンクリートの建物が増え、自動車が走るようになり、昔とは随分と様子が変わった。
複雑な想いはあるけれど、時間の流れを止めることなどできないことはわかっている。
少年は再び町に視線を戻した。
「やはり様子がおかしいな」
少年は眉間にしわを寄せた。
いつもよりも空気が澱んでいるように感じ、その原因を見極めようと目を凝らす。
「よお、今日も茅乃ちゃんは元気か?」
突然投げかけられた声に驚き、少年は足下を見た。
いつの間に現れたのか、ひとりの青年が松の幹に背を預けて立っている。
髪を茶色に染め、耳にピアスをふたつほどはめた、二十代前半に見える若者だった。その服装はTシャツにジーンズ、そして少々くたびれたバスケットシューズ。
人間としてはありふれたものだが、天倶としては珍しい装いをしている。
「矢筈。なにをしに来たんだ?」
「宝珠がお冠だぜ。主がこうもひょいひょいと山を下りていては、他の者たちに示しがつかない、とかなんとか。おかげでオレがおまえを迎えに来る羽目になったってわけだ」
「それは悪かった。だが、別に茅乃の様子を見るためだけに山を下りてきたわけじゃない」
「つまり茅乃ちゃんの様子も見てたってことだろうが」
「まあ……一応確認をしておこうかと思ってだな。しかし、何度も言うが、それだけでは……」
「はいはい。わかってるって。で、茅乃ちゃんの様子はどうだよ。大禍なく過ごしてんのか?」
「ああ、元気そうだ」
少年は笑みをたたえて、満足そうに答えた。
が、すぐに自分の口もとがゆるんでいることに気づき、表情を引き締める。
「そりゃあ、なによりだ」
そんな少年の様子を見て、矢筈は苦笑した。
「茅乃のことはもういいだろう? それよりも、おまえはなにか感じないか? どうもなにかがおかしいと思うんだが」
少年が眉をしかめながら問う。
「おかしい? おかしいって、どういう風に?」
「空気が澱んでいるような、重いものに覆われているような……」
「今更、なに言ってんだ。この辺りが曇天に覆われてんのはいつものことだろうが」
矢筈が天を仰ぎ見て言う。
重苦しく垂れ込めた雲が、どこまでも続いている。
「そういうことじゃなくてだな、こう、町の雰囲気がどうも違うような気がするんだ」
「町の雰囲気?」
矢筈が片眉を上げた。
軽く地面を蹴ったかと思うと、その動作からは予想できないほど高く跳躍し、少年の腰かける枝に着地した。
眼前に広がる町をじっと見下ろす。
「なにかがおかしい。矢筈、おまえ、山には戻らず、このまま少し調べてみてくれないか」
矢筈の顔を見ながら、少年が頼む。
「ええー。オレ、やりかけのゲームが!」
「ゲームなんかあとでいい。なにかが起こってから調べるんじゃ遅いんだ。おれと入れ違いに宝珠を山から下ろすから、ふたりで調べてくれ」
「待て。宝珠まで来たら、オレがさぼれねぇだろが!」
「おまえがさぼらないように見張るためにも、宝珠に来てもらうんだ」
「オレを信用しろよ」
「じゃあ信用させろよ。おまえがその手に持っているものは、一体なんなんだ」
「え? あ、おおっと。ついつい置いてくるのを忘れちまったぜ」
矢筈がその背に隠したのは、携帯ゲーム機だった。
人間のあいだでかなりの人気を誇っているらしい。矢筈は数ヶ月前にこのゲーム機を手に入れ、以来、暇をみつけてはゲームばかりやっているのだ。
少年は深々と息を吐き出した。
「仕方がない。それはおまえが帰って来るまで、おれが預かっておく。ついでにきちんと命じておこう」
「え!? いや、そこまでは……」
動揺する矢筈を尻目に、少年が口を開く。
「箔伎山誠吾坊が命じる。これより幡紀内を隈なく調査し、異変に気づいた場合、直ちに報告すべし。よいな、矢筈」
それまでの声とは異なる硬質な声で、少年が命じた。
矢筈もそれまでの態度を一変させると、少年に対して膝を折り、頭を下げた。
「幡紀天倶がひとり矢筈、その任、確かに承りました」