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華麗なる獣の復讐も兼ねた傍観生活  作者: 森坂草葉
11月の復讐は黒狼も一緒
22/30

vengeance:target brown final

 



白狼父(おとうさん)


 風が止んだ。短い怒号も、鋭さを纏った心配げな声も、焦りを混ぜた叱り声も、なりを潜める。

 柔らかな毛並みが私を包むころには、風は命を取り戻していた。


『こ、の馬鹿娘! 今までどこで何をしておった!? (わたし)がどれだけ心配したと思っている! 縄張りに戻れば居らぬし、(めい)は大泣き、果てにはお前の匂いがわからぬ! 本当に、本当にお転婆がすぎるぞ!!』


 初めて聞く声。低く滞ることなく響くその声は、まさしくおとうさんの声で。それは森を揺らすほどの大声に変わって私に向けられた。

 キーン、と頭の中で音がして思わず伏せる。まあ、目の前にはおとうさんの毛並みがあるからそれに飛び込むことになるのだけど。

 私をぐいっと抱き込んだおとうさんは、そのお腹のなかで私を転がすと絶えずお説教を始めた。

 それは頭に響くほど大きく、鋭く、焦りと怒りが混ざったもので、私をぽかーんとしつつおとうさんの言葉に耳を傾けた。


『お前は、躰が弱く狩りも駆けることもままならぬ上に、ほかの縄張りについてや他の白狼にあったことなど一度もない。そんなお前が、もしもの時に生き残れると思うのか!? 無理に決まっておろう! 我は、我は心配なのだ。後生だから、我が愛する娘よ。どうか、父の寿命をこれ以上縮めないでおくれ』


 最後はだんだんと小さくなっていて、少しだけ震えているように聞こえた。

 ――― まさか、泣いているの? おとうさんが、泣いて?

 わからない、けど、涙声のように震えるおとうさんの言葉が私の中で木霊す。

 どうかどうか我が愛する娘よ、と祈るように呟くおとうさん。それは、私が生まれて初めて見る、今世の父の弱気な姿だった。


『いとおしい、我が娘。お前までいなくなったら、我はどうすればいい? あの世で、愛する我がツガイになんと言えばいい? 大事な娘1匹も守れぬ、哀れな父は、どうやって生きてゆけばよいのだ』


 ごめんなさい、おとうさん。

 弱くて臆病でどうしようもないこの私を、一生懸命愛してくれる。時には舐め上げ、時にはエサを採り、時には傍らで寝かしつけあたためてくれた。

 白狼らしくない私を異分子扱いすることもなく、本当の本当に娘として受け入れてくれた大切な家族。

 ごめんなさい。ありがとう。ごめんなさい。ありがとう、ありがとう。

 心配してくれて、怒ってくれて、悲しんでくれて、愛してくれて。

 ありがとう。ありがとう。

 言い足りない。何度も心の中でつぶやいても、言い足りない感謝と謝罪の言葉。

 でも何よりも溢れるのは、愛する家族に対する感謝と愛情だった。


『ごめんなさい。ありがとう。ありがとう、おとうさん』

『――― うた、お前、言葉が……ッ』


 私のすべてを包むおとうさんが、もぞりと動く。

 やわらかくて、サラサラした毛並みが擦れてくすぐったい。

 驚いたといった風に私の上からどいたおとうさんは、その勢いで転がった私を舐め上げて立たせる。

 そして待ての体勢になった私の顔をじいっと見つめると、その灰青色の目から一粒、ひとつぶ、透明な水がこぼれていく。

 その透明な水は、まるで大粒の雨かのように私に降り注いだ。ぽちゃん、すぅ、ぽちゃん、なんて擬音がつきそうなリズムで、何度も何度も。

 灰青色の目がみずいろに見えた。ガラスコップに入ったキラキラしたビー玉が、その大粒の水で磨かれて輝く。

 不思議なほど透明で、不思議なほど澄んでいて、当たり前のように光った。

 オーシャンブルー色のビー玉が私を捉える。最後にぽちゃん、と零れた大粒の水を受け止めて、滑らかな目の動きを追った。

 まるでスローモーションみたいに、ゆっくりと閉じたり開けたりを繰り返すおとうさんの目は、一度ぎゅっと閉じると、ぱっちりと開かれた。

 そこにはいつも通り灰青色に、一筋の光が射していた。


『本当に、お前には毎回驚かされる。駆けることができないと思ったら急に駆けて、話せないと思ったら急に話せるようになって。まったく、お前はどこまで我を驚かせれば気が済むのだ』


 困った様に、だけど明るく愛おし気に。器用に動く目の前の大きな顔の、その鋭い牙がきらりと光る。

 それは笑顔だった。にやりとも、ニコリとも形容できないけど、確かに浮かべられた笑顔は、慈愛に満ちていた。

 ぺろりと私を舐め上げると、驚きすぎて怒りがとんだ、と笑み交じりに呟かれる。ああはい、あの、すみません。

 ほんと空気読めなくてすみません、なんて考えつつ、だけど内心は凄く嬉しかった。

 会話してる。おとうさんが、私の言葉に応えてる。聞こえてる。感じてる。

 白狼の表情なんてわかんない、とか思ってたいつの日かの自分に言ってやりたい。白狼すごい表情豊か。

 まだ私を舐めているおとうさんの表情は、さっきからコロコロ変わりまくりだ。怒ったり、泣いたり、笑ったり。わかりやすい。すごくわかりやすい。

 キラキラの目をじっと見つめると、おとうさんも私をじっと見つめた。

 そこには、言葉を交わせなくても通じる気持ちがあった。


『我が娘よ、我はもう怒ってはいないが、許したわけではない。お前は心配をかけすぎた』

『はい』

『う、うむ。我が最愛のツガイによく似た愛らしい声だな。慣れん』

『つがい、おかあさん?』

『ああ。お前の母で、我のツガイ。名を(はく)。拍手のはくと書いて、読みはそのまま。誰よりもかけることが好きで、好奇心旺盛な、言い換えればお転婆な白狼だったな』


 ちょうどお前の様に、とおとうさんはくつりと笑った。

 その目はどこか遠くを見ているようで、そして私を通して誰かを見つめているようでもあった。

 なんとも表現しづらいけど、でも一言だけ、一言だけ言わせてほしい。

 ゲロ甘な空気あざーす!! もうごちそーさまです。

 すごいゲロ甘。目から溢れ出す愛情。好き好き好き大好き愛してる、なんて声が聞こえてきそうなくらい甘い。

 心なしかおとうさんの顔がデレッとしているような、なんかそんな気がする。気分はラブラブイチャイチャな親を目のあたりにした思春期の子供、だろうか。長いね。

 これで私に前世とかなかったらぐれてるよ。ラブイチャしすぎてると子供ぐれるよ。

 どんなおかあさん好きだったんだよおとうさん。

 しっかし、(はく)かぁ。そしてお転婆。お母さん病弱だって聞いたから、すごく儚げな白狼想像してたよ? ここにきてまさかのお転婆。

 おいおいおかあさん、迷子になったりとかしてないよね? ははは、お前が言うなって? さーせん。


『おっと、すまない。話が脱線したな。……さて。我はまだ怒っている。だが、これ以上我が娘を叱ることができないのも事実。我はお前が大好きだからな。そこで、もう怒りはしないが、罰は受けてもらう』

『ばつ……』

『ああ。うたよ、これから2週間は我の縄張りで暮らせ! もちろん、その間の餌はすべて自然のものを。あの女生徒が作ったものは食してはならん!』


 な、なんだってー!!

 棒読みだけど、別にそこまで落ち込んでないけどもう1回。……なんだってー!!

 ちょ、優子さんのごはん無いの? ノンドッグフード? という驚きよりも、そんなのでいいの? 軽すぎじゃない? 全然罰じゃない気がするんですが。全然平気なんですが。

 そんなバナナ、なんて気持ちを込めておとうさんを見上げる。目の前のおとうさんは、こくり、と大きく頷いた。

 そんな馬鹿な。


『お前はあのどっぐふーど、とやらが大好きだからな。結構な罰だろう?』


 えええ、いやそこまですごい罰じゃないけど、ええええ。

 むしろ軽すぎだけど。そんなんでいいの。白狼の確か長がそんなんでいいの。

 ドッグフード中毒じゃないからぜんっぜん平気だよ。むしろ久し振りの果物生活ダイエットできるぜヤッホーイ、なんですが。

 優子さんのごはんも好きだけど、あの縄張りの果物も好きなんですよ?


『あの、ばつって、そんなに軽くていいん、ですか?』

『畏まらなくともよい。む、軽かったか? ならば、そうだな。よし! 2週間の間は我と共に就寝すること! (ゆづる)でも(つぐ)でもなく我の隣だぞ』


 ふふん、これならどうだ! といわんばかりに胸をはるおとうさん。

 えええええ、いいの。本当にいいのこの白狼が長で。

 激甘だぁ。娘に激甘だこの白狼。いやうすうす気づいてたけども、とんでもない激甘だった。溺愛系おとうさんだったか。

 意思の疎通ができる前は、凛々しくて格好いいおとうさん的な印象だったんだけどなぁ。一気に子煩悩で娘ラブなおとうさんにチェンジだよ。

 こりゃもしも私につがいが出来たら、すっごい口出しするんだろうなぁ。人間バージョンだったら、「おとうさんのパンツと一緒に洗わないで!」なんて言われて、部屋の隅でのの字書いてそう。

 なんだか全然罰になってない罰を言い渡したおとうさんだけど、私としてはご褒美だなぁ。

 だって、もふもふに触り放題ってことだよね! っていうか、もふもふに包まれて眠れるってことだよね! 超贅沢。

 前足で私を転がしているおとうさんをじっと見つめると、目からハートでも落ちてきそうな甘い色で返される。

 ……駄目だこの白狼、早くなんとかしないと。




『さて、そろそろ弦たちのもとへ行くか』


 満足したのか。はふぅ、なんて息を吐いたおとうさんが立ち上がった。

 弦兄さんのもと。……ああ、そう言えば弦兄さん縄張りできたんだっけ。他の兄弟もそっちにいるのかなぁ。おとうさんの口振りからしてそうかも。

 あー、今日は大変だったなー。誘拐されたり、エサもらったり、意志疎通できたり、迷子になったり、駆けたり、怒られたり。

 宇緑(うろく)書記が見つけてくれたおかげでこうやってここに来れたけど、見つけてくれなかったらあのままあそこにいたのかも。そう思うと、宇緑書記さまさまだな。いや本当に!

 って、あ!!

 宇緑書記。そうだよ宇緑書記! 意志疎通できたこととか怒られたこととかですっかり忘れてたけども! ここまで連れてきてくれた宇緑書記は!?


『おとうさんっ』

『む? なんだ?』

『あの、私をここまで連れてきてくれた、背の高い男子生徒はっ』

『……ああ、弦のパートナーか。奴ならば、我がお前を叱り始めたころに帰ったぞ』


 ええ!? 帰ったの!?

 なんのお礼も言ってない! というか言えない!

 でも帰っちゃったのかぁ。結局何も言えないまま、……いや、弦兄さんに伝えてもらえばできる!

 そうだ! 弦兄さんの縄張りにいったらお願いしよう。そうしよう。

 そうなれば、早く帰らないと!


『おとうさん、帰りましょう』

『うむ。さぁ、お前はまだ早くはないから、ゆっくり行こう』


 そういって、私が立ち上がった時。

 私たちの後方から甲高い声が聞こえた。それは甘ったるく、気分が悪くなる声。私が聞きたくない声。


「きゃー! 白狼だぁ」


 姫島(ひめじま)愛美(あみ)

 巻いた髪に、高速で定められた丈より短いスカート。改造されたブレザーに濃い化粧と香水。

 不器用で、見ていられない不慣れな笑顔。ほんと、笑うなら目まで笑ってくださいって土下座したくなる。嘘つきました死んでもしません。いや殺されたけど。


「本当にかわいいなぁ!」


 そりゃどうも。

 でもやめてね? その一歩間違えたら凶器になりかねない長い爪で触るのイタイイタイイタイ!

 ちょ、やめ、本当にやめ! 明らか着け爪なそれは凄く鋭くて、私のぶにょんってなってる腹に食い込んでいる。

 自慢の毛並みが数本くらい切れた気がした。っていうかお腹いたい! 爪食い込んで痛い!

 しかも赤ちゃんを高い高いするみたいに抱き上げられて、すっごい苦しいぃぃいい!! イヌには鎖骨ないんだよー! って言いたい。伝わらないだろうけど。

 あっ、ちょお、頬をすりすりさせないで! ひぃいい、化粧が肌についた! たぶんファンデーションが毛並みに、私の自慢の毛並みにッ。

 うぅっ、香水の匂いがぁ……っ!


「ねーぇ、あたしが散歩につれてってあげる」

「わぅ、」『いやいらな、』

「よぉしいこっかぁ!!」

「ぅう」『いです』

「折角だからぁ、愛美が可愛い名前つけたげる! ラブビュとかどぉ? ラブとビューティフルを掛けあわせてみましたぁ! かっわいいでしょー」

「わぅぅ、」『いやちょっとそ、』

「気に入った!? 良かった―!!」

「ぅ゛ん」『れはないですね』


 やだこの子遮ってくる!

 なに!? 動物相手でも容赦ないの? 遮っちゃうの?

 人の話を聞かない子は将来苦労するよって、ばっちゃんがいってたよ!

 いやまあ人の話ってか白狼の鳴き声だけども、明らかに声が機嫌悪そうだったじゃん。気に入ってなさそうだったじゃん。

 なんか都合のいいように解釈してるみたいだけどさ、今更名前つけられたって、もうっうぇっうぇって感じだよ?

 だって私には名前あるから。ラブビュよりも可愛くて、思いやりがあって、あったかい名前が。

 誰にも聞いてないから言うけど、ラブビュはないわー、って思いましたすみません。


『おとうさーん』

『うむ。少し待ってろ。その女を殺っていいか思案中だ』


 おとうさーん!?

 なんか、やっていいか、が殺っていいかって聞こえたんですけども! え、空耳? 感じ方の違い?

 とにかく、今はまだ駄目だよおとうさん! 今簡単にやっちゃったら今までのが水の、じゃなくて。おとうさんが悪事に手を染める必要なんてないんだよ!

 だからやっちゃうのは駄目。それはさすがに駄目。


『よし。今から我がその女に跳び付くから、離れたら我の後方に来い。そこから我があの女を突き飛ばし、大樹の方向に向かって駆けるぞ』


 用意はいいな? と聞いてくるおとうさん。

 思案短い結論早い! 待って待って、おとうさん少しだけまっ―――


「グルルッ!!」『おのれ脳なし女が我の娘から離れよ!!』

「キャァアッ!」

「わぅんっ!?」


 おとうさんが彼女の腹部にアタックした瞬間、私は投げ飛ばされた。

 長い爪から逃れられたのはいいけど、今度は芝生と熱い熱いキスを交わすことに! ふぁーすとちっすがぁッ!


『小娘!』


 その声が耳に届く頃には、私は柔らかな毛並みにダイブしていた。

 サラッサラの毛並みに、小娘という呼び方。それは私を誘拐し、私をぼっちにした、私の初めて(意味深)を奪っていった誘拐犯。

 マイダディのお友達、ふつさんだった。


「な、なに!? なんなのぉ!」

『響生!』

(ふつ)! ……チッ、この女嫌な香りしかせんな。とっとと行くか』

『おとうさんっ』

『うむ。さぁ、弦たちのもとへ参ろう。……早く駆けろ駄犬が』

『お前俺の時と態度がちがくね?!』

『五月蠅い。さっさと駆けんか』

『格差社会ちくしょう!!』


 まるでコントの様な2匹に笑いをこらえつつ、芝生にしりもちをついたままこちらを唖然とみる彼女を見た。

 それは信じられないと、ありえないといったような表情が浮かべられ、いまだに自分に何が起きたかわからないようだ。

 ……動物に嫌われたことないのかな? まあ、どうでもいいけど、ひとこと言わせてもらうなら……。

 ざまぁみろ。

 はい、ご馳走様でした。






 ぎゅぅっとふつさんにしがみつき、おとうさんとふつさんのナニコレ速すぎじゃない? な速度を身を持って感じる。

 すごい寒い。風冷たすぎる。

 自分よりも2倍以上も大きいとはいえ、サラッサラでツルッツルな毛並にしがみつくのは困難だ。

 なんとか振り落されないようにしながら、早すぎて見えない景色に思いを馳せる。風で目も開けれないんで想像が膨らむ。

 あー、木の匂いがする。じゃあ森のなかかなあ、なんて考えていると、目の前のふつさんが急に止まった。

 ちょ、そんな急にとまるとッ。


「きゃぅんっ!?」

『あ、やっべ』


 いややっべ、じゃなくて!

 急ブレーキで止まったふつさんから投げ出された私は、くるくると宙を舞った。

 なんか今日、宙を舞うこと多いなぁ。全然嬉しくないけども。

 これはやばい、と覚悟を決めていた次の瞬間。私はまたもや誰かに受け止められた。


「おっと。あぶねぇな。……符、お前は落ち着きを学んだほうがいいぞ」


 確かに落ち着きを学んだほうがいいと思います。と、受け止めてくれた誰かさんに同調する。

 いやまあその誰かさんって、言わずもがなふつさんのパートナーさんなんですけどね。


「先生! ……っうた!」


 鈴とした可愛い声。心配そうな音色が混じって、静かな息遣いが私の耳をくすぐる。

 優子さんだ。

 今日1回も合わなかった、優子さん。私の友達。

 目の前の暗闇から、日の射す反対側を見る。それは眩しくて、まぶしくて、季節外れの向日葵に見えた。


「ど、どこいってたの! わたし、ずっとずっと心配して、うたが帰ってこなくて、寂しくてっ」


 ―――真っ赤だ。

 優子さんの目は真っ赤だった。泣きはらしたようなその赤さに、優子さんも私を必死に探したんだなぁ、って思って、なんだかこそばゆくなった。

 だって、こんなになるまで探してくれるなんて、嬉しくて、恥ずかしくて。

 無事でよかった、って笑う優子さんが、へなへなと芝生に座り込んだ。その体勢は彼女と一緒だったけど、くらべものにならないくらい優しくて、暖かい光景だった。

 ありがとう、優子さん。ありがとう。


「日向。芝生に座ったら制服、汚れるぞ」

「あ、はは。大丈夫ですよ。さっきはありがとうございました、茶宮(さみや)先生」


 茶宮(さみや)先生。

 茶宮風吹(ふぶき)先生。社会科担当で、1年A組の担任の先生。

 彼は私によく似ていた。いや別に顔じゃなくて、中身的な意味の話で。

 なんていうか、上手く説明はできないけど、笑顔の浮かべ方とか、目の使い方とか、どことなく私と同じ気がした。

 先生はよく笑っていた。私みたいな愛想笑いじゃなくて、それこそ映画の俳優みたいなニヤリ効果音の笑顔で、遠慮なく宿題を出すんだ。

 入学1週間で出された厚さ1㎝の課題を私は忘れない。おのれ横暴教師め、なんてのは嘘で。

 まあ確かに、なんて量だよできないよちくせう、なんて思ってたけど、先生の作る課題は高レベルで役に立つし、すごく勉強になった。

 なんだかんだ言っても、やっぱり奏宮出身の教師なだけあってすごいなぁ、って思ったのは私の中の秘密だ。

 そんな先生は、あの後大丈夫だったんだろうか。

 先生と過ごした時間は凄く短かった。勉強だって始まったばかりだった。そんなんで先生のこと知ってるのか、なんて聞かれたら、人間そんな短い間で分かり合えるかボケェ! と返せる自信がある。

 つまるほとんど知らいない。けど、これだけはわかる。

 先生は優しい。そして、自分が一度もった生徒は絶対に忘れない。先生とわずか1日、いや数時間くらいしか過ごせずイタリアに旅立った庄司さんのことも、先生はちゃんと覚えていた。

 私が亡くなる前に、何回か庄司さんの話が出たんだ。元気なのか、ちゃんとやってるのか、わずか数時間の生徒を心配していた。

 そんな先生は、たぶん私のことも心配していたんだろう。お世話係の期間中、会うたびに大丈夫か聞かれた。

 あの時の私はいっぱいいっぱいで、とりあえず大丈夫って答えてたけど、先生の心配そうな目は今でも覚えている。

 あの後、私が亡くなった後、先生は大丈夫だったんだろうか。ここにいるってことは、責任を問われなかったってことだから、職業を失わなかったことに安心するけど、それ以上に心配しているのは先生の内面だ。

 先生はなんだかんだ言いながら、意外と思いつめる人だ。これも短い間にすぐわかった。お気楽で軽そうな見た目してるのに、中身は慎重派で思いやり深い。

 たった短い間でも伝わった先生の良さは、先生に悪戯を仕掛けていた高橋さんたちもわかってるんだろうな。だって、それがわかってなきゃ大問題になりそうな悪戯、仕掛けないよ。

 優子さんもこうして元気に過ごしてるし、きっと良くしてもらってる。今、クラスは大丈夫なんだろうか。先生は、大変じゃないだろうか。

 いろいろ気になるけど、二人を見ていればわかる。たぶん、大丈夫だ。それに、私がいなくても、副委員長の彼がいる。高橋さんも、千鳥さんもいる。全然安心だった。

 っふー、と息を吐いた。なんか、肩の荷がちょっと下りたっていうか、安心感が増したっていうか、とにかくいい気持だ。


『優子さん、優子さん』

「……ん?」

「どうした、日向」

「いえ、なんか今声がして。優子さん優子さんって。空耳かなぁ」

『空耳じゃないよ。優子さん、優子さん、うただよ』

「え?」


 不思議そうな顔をしていた優子さんが、バッとこっちを見る。

 私はその様子に内面笑いつつ、もう一度「うただよ」と言った。

 優子さんがパクパクと魚みたいに口を動かす。はは、初めて見るかも。


『はじめまして、優子さん。いつもご飯ありがとうございます』

「ぇ、え、えぇぇえええ!?」


 やばい、楽しい。

 ニコニコと優子さんを見ている私と、驚く優子さん。

 そんな優子さんを優し気に見つめる先生に、ふつさんを苛めるおとうさん。

 いいなぁ、この雰囲気。すごく心がポカポカする。

 それにしても優子さん、先生とこんなに仲がいいなんて、思わなかったなぁ。

 先生と優子さんの実は、な話を私が知るのは、結構あとのことになる。

 あの先生がまさかそうだったなんて誰が思う? こうして、私の復讐の一部はひそやかに達成されていた。


『そうだ、うた。楽しそうなところ悪いが、少し覚悟するといい』

『え?』

『我の説教は終わったが、お前には他にもいるだろう? 怒れる兄たちが』


 ギギギ、と後ろを向く。

 ざわざわと気が揺れて、葉が舞い散っていく。風が、いっそう冷たく感じられて。

 ダラダラと汗が流れた。


『うたぁ』

『こンの馬鹿イモウトォ!!』

『妹ちゃーん』

『……うた』


 よし駆けよう。



 ごめんなさい、と叫んだその日は、同じだけのありがとうを返せた日。



 

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