瓦礫の街
こうやって、保存食を持ち歩きながら旅をする事に憧れていた時があった。
中学二年ぐらいの頃だろうか。
ゲームや、漫画や、あるいは映画で描かれる旅は、いくら苦しく描かれていても、
何かしらの事件が常に発生し、物語を盛り上げていた。
実際はどうだろうか。
九割移動で、九分休憩で、あとの一分が何かしらの事件、といった所だろう。
その事件というのも、瓦礫の崩落だとか、突風だとか、そういう程度の事だった。
俺とマイは、川を渡って一日を過ごしていた。
夜中に身を潜めていた所は、瓦礫で出来たかまくらのような所で、
周囲に何も無く見渡しやすいという理由で選んだ宿営地だ。
めくれ上がって露出した土の地面には、ほんのりぬくもりが宿っていた。
春とはいえ夜は寒い。
とにかく、石の上で寝るのは自殺行為に思えた。
幸いこの辺りの破壊は徹底的と言えるものだったようで、原型を止めた風景はそれほど無かった。
こちらからも例の訓練塔が不気味にそびえ立っている。
あそこから、誰か監視しているだろうか。
もし俺が完全に目的地を見失ったら、あの塔に向かっていただろう。
そういう心理の人はそれなりに居たはずで、あそこのふもとには何人かの集団が形成されているかもしれない。
ただ、それがもちろん安全な集団とは限らないだろう。
俺とマイは、あの夜に人から追い回された事を忘れられない。
見渡しのいい場所に陣取ったのもそういった理由からだ。
この辺りに明かりになるものは無く、火も見当たらなかった。
完全に静かな空間だ。
色々な壁の木材や鉄骨が、その辺りに見え隠れしているが、圧倒的に多いのはやはり石材だ。
コンクリート、アスファルト、砂利……
これほど大量の石で、俺たちの街は出来ていたのだ。
特に、元堤防の素材であっただろうものが目立った。
テトラポットが粉々になったようなものが、いくつも転がっていた。
こんな小さなものまで破壊するほどの力というのは、何だったのだろうか。
良く俺もマイも生きていたものだ。
「今日も、なんとか」
マイが呟くように言った。
瓦礫で簡易的なシェルターを作っている間、俺もマイもほとんど無言で作業に集中していた。
「埋葬、出来なかったね」
「ああ……うん、ごめん」
「そんなつもりで言ったんじゃ、無いよ」
お互いに疲れきっていて、感情がこもっているのかこもっていないのか、
感じ取る神経は軽い痺れを起こしていた。
何となく、ぼんやりと分かる。
悲しみや、無力感や、それが混じったもの。
冷え冷えとして見える月は、少し欠けているように見えた。
もう、何を見ても驚かない。
この世界を破壊した一分の答えが、少し分かったような気がした。
「月が地球に落ちたんだ……ちょっとだけ」
「そう」
無感動な返事だった。
そういう俺も、あまりにも現実離れし過ぎた事実に心がついていっていない。
食事は俺たちが貰った中でもとっておきだっただろう、さんまの缶詰だった。
久々の強い甘みにも、煮詰められて脆くなった魚肉の食感にも、あまり感動は無かった。
空になった缶詰を投げ捨てて、言葉も無く俺もマイも寝た。
缶詰の金属音が何度もこだまして、またどこかで崩落が起きる音があって。
それから、また、無だ。
朝になると夕方とはまた違った景色に見えた。
快晴だったから、余計にそう感じてしまうのかもしれない。
強い風が空気中のほこりを取り払ったのか、かなり遠くまで見える。
違う、遠くが見える一番の要因は、目の前に立ちふさがるビルが無いからだ。
他の場所と違ってここは明らかに人の手が入っている。
おそらくはわざと倒壊させて、事故を未然に防いでいるのだろう。
俺たちが通った道には無かったが、以前見た墓もこれをした人たちがやったことなのだろうか。
川の向こうに居なかった「大人たち」は、こちら側で活動をしているのだろうか。
俺は、毛布を敷いてもなお固かった地面のせいで痛む体を起こした。
立ちあがって見てみると、目測で一キロ四方は整理されているように見える。
ただ、整理されているといっても道は相変わらずめくれあがっているし、瓦礫も河原の石みたいに散乱している。
だけどもここは、「まち」だった。
何週間か前にこの地域に存在したそれだ。
形の残った建物は補強され、そのあたりだけは瓦礫さえも無く、土が露出している。
そういったものがあちこちにあった。
あれはおそらく家なのだろう。
これほど見通しがいいというのに人が一人も見当たらないのは、こちらを警戒して監視しているからなのだろうか。
それとも、まだ単純に起きていないだけなのだろうか。
建物の入り口にはドアの変わりなのか、幕のようなものがつけられ、風にはためいていた。
残った建物は、どれもこれもが小さいが、鉄骨で周囲が囲われていた。それがどれだけ補強に役立つのかは俺には分からないが、少なくとも今すぐ崩壊しそうには見えない。
そういった小屋が、ここから見える分だけで十はあった。
「うー……」
近くにあるもう一つのかまくらから、マイのうめき声が聞こえる。
俺と同じく体が痛むのだろう。
「ヒロ? ヒロ?」
「ここ」
「あー、びびった、居なくなったかと思った」
俺とマイはお互い向かい合うように寝ていた。
だから、マイが起きて最初に見たのは、俺が居ない無人の穴だった。
マイは穴から這い出すなり、立ちあがって俺と同じ方向、つまり自分の背中のほうを見た。
「何ここ?」
「なんか、広場っぽい……人、住んでるのかな。小屋みたいなのが十個ある」
ここから見えるだけで十個。
他の整地されていないところは、相変わらず崩壊寸前のビルが立ち並んでいてよく見えない。
小屋という言葉の通り、補強された建物はすべて小さく、がっしりとして見える。
それはたぶん、補強材として使われているものが板などではなく、鉄骨やコンクリートだからだろう。
コンクリートは接着されている。
何かしら、建築の技術を持った人がこれらを施したのは確定的だ。
大人が居る。
そう思った時、俺の体は不意に震えた。
あの闇討ちをしたのも、たぶん大人なのだ。
あの時は混乱していたから分からなかったが、聞こえた声は明らかに少年のそれではなかった。
記憶だけで震えるなんて、初めての経験だった。
これはたぶん、人間が長生きをするために、遺伝子レベルで与えられた防衛本能なのだ。
恐怖は選択肢を狭める。
勇気を出して人を探すという行為をためらわせる。
「いこ?」
そう言って、マイは俺の手を引っ張った。
その行為に、俺は赤面する。
なんて恥ずかしい奴なんだ。
マイの手だって震えていた。
それでも俺に一歩を踏み出す勇気を与えるために、そう言ってみせる。
確かに、行かなければ俺たちは危険な目にも合わないかもしれない。
でも、俺たちはいったい何しにここまで来たんだ?
俺は墓を見て、こちらに来ることを思いついたのだ。
弔いの心を忘れない人が、確かにこちら側にいる。
どこかに居る、俺やマイや、あの避難場所にいる子供たちの親や家族が、その中に居るかもしれない。
それを確認しに、わざわざ物資まで貰ってこちらに来たのだ。
俺とマイは、一歩ずつ歩き出した。
決して歩きづらい道ではない。
むしろ、大きな瓦礫は除去されていて今まで歩いてきた道よりはるかに歩きやすい。
俺は出来るだけ、マイより一歩先に歩くようにした。
それが俺に残された、最後の意地だった。
出来るだけ音を立てないように歩くつもりでも、種々の小石のためにそれもままならない。
どうしてもちゃりちゃりという音が鳴ってしまう。
そこで俺は、あえて音を気にせず歩くことにした。
マイもそれにつれて普通に歩く。
結局のところ、いい人に会えるのであれば相手を警戒させないことになるし、
悪い人間であれば……逃げるか、それとも。
そうすると、残り10メートルといったところで俺たちがとりあえず目指していた幕が、
内側から押し上げられた。
「誰?」
俺たちの警戒が一瞬にして解かれる。
それほど、顔をのぞかせた男は無防備だった。
剃刀を調達できなかったのか、それともそういうファッションなのか、
顔一面の髭面が、大きなあくびをしてこちらを見ている。
それが、ちょっと前まであったはずの当たり前の世界から迷い込んだように見えた。
もちろん、俺だって髭は生えるしあくびだってする。
それでも、これほど無警戒に誰? と言うような相手にあくび面を見せられない。
「あ、あの、串本って言います、川の向こう、ほら、あの訓練塔のある方向から」
「え、なに、救助? そんなわけないか。君、学生だよね」
男は相変わらず眠そうな顔をしていた。
ついさっきまで寝ていたのだろう。
服装が薄着なのは、中に毛布や布団があるのだろう。
さすがに下が土の地面でも、今は寒いはずだ。
「ここ、何人ぐらい住んでるんですか?」
「えー、ああ、三十かな? 四十? 集まることが無いからねえ」
「その中に、学生とか家族を探している人はいませんでしたか?」
聞いたのはマイだった。
「あー……たしか、大工の兄ちゃんが子持ちだったかな、3歳だっけか」
まわりがこんな状態であれば、お互いの事を把握してそうなものだが、この人はもしかして、集団のはみ出し者なのだろうか。
「ところで君ら、水、持ってない? 持ってたら、食料と交換しない? 服もあるよ」
俺たちはお互いを見た。
俺の荷物の中にはまだペットボトルの水が残っている。
しかし、戻る事も考えればそんなに余裕のある量ではなかった。
川は数キロ戻ればあるが、そのまま飲めるようなものでもない。
皆のところに帰れば蒸留水は山ほどある。
しかし、今はまだそれを教えるのはためらわれた。
俺は集団の長だ。
突然任されて、その上一度も導きもしていないのにそれを誇るのも変な話だが、
とにかく皆の場所を教えるのは得策ではない気がした。
「あ、ああ、物も見てないのに交換出来ないよね。ほら」
そう言って、男は小屋に張られた幕を取り去った。
入口に渡したつっかえ棒に、カーテンのようなものをかけていただけのそれは、引っ張るだけでいとも簡単に外れてしまう。
小屋の天井は外から見るよりもだいぶ低い。
それだけ天井が厚いということだろう。
ぶら下がったキャンプ用のランプをはじめ、小屋には物資が敷き詰められるように入っていた。
その中には、灯油を入れておく青いプラスチックの燃料缶が三つあり、側面に大きな字で水、と書かれていた。
手招きする男の誘いに乗って、建物の中に入ると右手側に同じ缶がいくつも並んでいた。
「水、あと三つしか無くてさ」
俺たちの緊張をほぐそうとしているのか、男は努めて明るくふるまっている。
「これ、一人で集めたんですか?」
「いやいや、まさか。ここは倉庫だよ。俺は今日の当番でここ見張ってんの」
男は壁にかかっていたノートを手に取り、中を俺に見せた。
「入れる数と出す数をここに書く。ここはものの価値、こっちは貯蔵量ね。熱心な学者さんが居て、その人が計算式を作ってくれたんだよ。水はこの通り、今すごく高い」
俺はそれを見て、本格的に世界は駄目になってしまったんだと実感した。
大人たちでさえ救助を諦め、そして生きるために新しい秩序を築いている。
水が昔、いくらだったかは分からないが、今この場所では飲料水18リットルで3日分の内容不明の食糧と同じ値段で取引されているようだった。
大工仕事や散髪料金も好き勝手に書いている。
これだけ水が高いと、飲めない水も普通に持ってきそうだが、それでもいいのだろうか。
「そうそう、飲む用の水は悪いけど、見てる前でコップ一杯分飲んでもらうからね」
冗談なのか本気なのか、男はそう言って笑った。
「開けてないミネラルウォーターがありますけど、それでも大丈夫ですか?」
「ペットボトルのやつ? ここには18リットルって書いてるけど、500mlからでもいいよ。ジーンズとかどう? 靴下もつけるよ」
ノートの価格からすれば大盤振る舞いの内容だった。
「じゃあ、それで」
俺は鞄から水を出し、ジーンズと靴下を受け取る。
取引は無事行われた。
正直、鞄に手を伸ばしているときは動機が収まらなかった。
さすがに一対二で得するかどうかもわからない強盗をする気も起きないだろうが、それでも何があるかわかったものじゃない。
「また、水が見つかったら持ってきますね」
「ああ、頼むよ。今回のサービスはその手付金だ」
にこにこと愛想のいい顔で俺たちを見送ってくれる男を見て、俺はようやく緊張が解かれるのを感じた。
気づけば握っていた拳に、汗が溜まっている。
「マイ、一旦帰ろう」
「え……うん」
俺は手のひらの汗を拭ってからマイの腕を引っ張り、小屋から出た。
「よう、中で何してたんだ?」
俺は、外に出た瞬間に話しかけてきた男を見て、ここが街のようになっていたことをようやく思い出した。
普通、街にはいろいろな人間が居る。
いい人も。
そして、悪い人も。