夕方
体が清潔だと言う事が、これほどまでに心地よい事だとは思いもしなかった。
洗濯機に電源を供給するために、バッテリーを拾い集めていたのも馬鹿に出来ない。
ガソリンや薪を手に入れて、ドラム缶の風呂を作る事も、生きるためにはとても重要な事なのだ。
とにかく、今は気が滅入ればそのまま死につながる。
死ぬ事だけはとにかく容易い状況だ。
下着類も一緒に洗濯してくれているが、俺はもちろん田中さんも予備の下着など持っていない。
幸い、女子も二人居たから、変えはあったのだろう。
俺も木山が貸してくれたので助かった。
この集落とも呼べる場所では、それぞれが決まった仕事があるようだった。
ここに来た時に見た人数より少なく、
今は谷村さん、俺、田中さんも合わせて六人しかいない。
木山はどうやら物資調達係らしい。
だから、俺たちと遭遇出来たのだろう。
谷村さんが言うには、一番すばしっこいのだそうだ。
俺と田中さんは、特に出て行けとも、何かをしてくれとも言われていない。
そのことについて谷村さんに質問をしたところ、皆それぞれ自分がやりたい仕事をしているのだという。
この辺りの地面が整備されたのも指示をしたわけではなく、皆が瓦礫を片付けて、自然とこうなっていったのだという。
わざわざ整地用のローラーを学校から持って来たのも、廃材利用の囲いも自発的なものなのだという。
食料調達だけは、各自出来るだけの事はする事、と伝えているそうだが、具体的な方策などは特に何も無い。
水を調達するのは谷村さんがやっていた。
女子二人は皆が集めたものの分類をしたり、汚れを落としたり、もっぱら力を使わない仕事をしている。
そうやって皆何かをしていると、少しでも気が紛れるという事もあるだろう。
俺も出来るなら、何かをしていたかった。
未だに体は痛むけれども、昨日よりだいぶマシだ。
今なら学校まで歩いて三十分ぐらいで着きそうだ。
俺や田中さんの体調を見越して迂回路を選択してくれた木山は、この荒野を相当歩きなれているのだろう。
「串本、あれ」
風呂から上がってからの田中さんの第一声は、その言葉だった。
壁に立てかけられた道具を指差して言った事だ。
指の先にはシャベルと、一輪の手押し車があった。
おそらくあれでこのあたりの瓦礫を除去したのだろう。
「使えるんじゃない? ほら、学校掘るのに……」
「あ、ああ、そうか」
俺はすっかり避難用具のことを忘れていた。
一クラス分あったというそれは、俺たち二人の一か月分の食料と水になるだろう。
もし、ここで暮らすというのならば、とっておきの贈り物になる。
「行くか?」
「うん。串本、体大丈夫なの? 昨日ぶっ倒れてたけど」
「田中さんだって、足がおかしくなってたんじゃなかったっけ」
「あれはもう大丈夫。だって、その後普通に動いてたでしょ? それとさ」
ちょっと目線をそらして、田中さんは続けた。
「さん付け、やめない? 私だって串本って言ってるし、他人行儀っしょ」
「うん……了解。なんて呼ぼう?」
「そ、そんなの勝手に決めりゃいいじゃん。田中でもま、舞子でも、ああ、私マイって呼ばれてたから、それでいいよ」
「何か急に言うの恥ずかしいな。マイ」
自分でマイでいい、と言いながらも俺と同じく恥ずかしかったのか、
田中さん=マイの顔が赤くなった。
ちゃんと血が通っている証拠だ。
「……ソッコー使ってんじゃん。じゃあ、私も串本じゃなくてヒロって呼ぶ」
「家族にも呼ばれたことないぞ、そんなの」
「じゃあ、余計いいじゃない。間違えないで。ヒロ。行くぞヒロ」
「はいはい、マイ」
二度目は案外しっくりときた。
まさか、田中さんをマイ、なんて言う日が来るとは思ってもなかった。
「あ、俺、出発前に一言言って来る」
「じゃあ、私は道具準備しとくわ」
谷村さんはまだ洗濯室に居た。
結構な人数の洗濯をしているから、すぐには終わらないのだろう。
これでよく電力がもつものだと思う。
電力をここで使うのが贅沢にも見えるけれども、電力を使うための機器がない以上、
仕方のないことだ。
蛍光灯はほとんど災害の衝撃で割れてしまっている。
冷蔵庫なんてあったとしても、まず生きていないだろう。
この洗濯機は奇跡の一品で、やや型は古いもののこのあたりで一番文明の香りがするものだった。
ただそれを愛おしそうに眺める谷村さんは、いつか社会を復帰できる状態にしたいと思っているのだろうか。
「谷村さん、俺、学校行って来ます」
「どうしてまた?」
「防災用具入れが一クラス分あるんです。水とか食料も入ってるやつです」
「それは助かるね。気をつけて」
「はい、暗くなる前に帰ってきます」
「いや、夕方になる前に帰ったほうがいい」
「あ、はい……分かりました」
夕方になる前に、と言った谷村さんの表情は、普段のやさしげな表情とはかけ離れていた。
いったい夕方に何があるというのだろう?
そういえば、俺たちがここに到着したのも、夕方になる前だった。
それ以上のことは何にも言わずに洗濯機を見つめ続ける谷村さんは、何か考え事をしているようにも見えた。
俺とマイで荷車は交互に押すことになった。
いくら三十分の道のりとはいえ、道ともいえない道をいくのだ。
とてもじゃないがまともにタイヤが機能するとはいえなかった。
荷車にはスコップが二つと、俺たちが持ち込んだ防災袋二つが乗せられている。
今日一日ぐらいであれば持っている食料でどうにかなるだろうが、
そのうち栄養が欠乏していきそうだ。
二週間眠っていて不都合がないほうが不思議な状態だ。
乾パンは完全栄養食品じゃない。
俺たちが必要とする栄養素のほとんどは野菜や何らかの肉で、たぶんそれは、漬物や干物でもない限り腐っている。
こんな状態で冷蔵が出来るとは到底思えない。
「マイってさ、料理は出来るの?」
「……ちょっとね。ヒロは出来ないんでしょ」
「俺もちょっとならできるよ。弁当自分で作ってたし」
「マジで……?」
「いや、冷凍食品とかも使ってたけど。ちゃんとバランス考えて、本読んだりして作ってた」
「私より上じゃん。私のなんてしょせんおままごとだったから」
褒められるとは思わなかった俺は、少し恥ずかしくなった。
まるで自分を尊敬してもらうために誘導したみたいだ。
「ちょっとは知ってると思うけど、乾パンだけじゃまずいよな」
「まずいだろうね。どうしようもないでしょ」
「壊血病って知ってるか?」
「何それ」
「大航海時代に良く船乗りがかかってた病気だよ。長旅だと生の野菜や果物なんて手に入らないだろ? それで、ビタミンCが欠乏して欠陥が壊れんの。それで、血が流れて、体腐って死ぬ」
「それ私に教えてどうしようっての。私ら死ぬ運命だって言いたいわけ?」
「あ、いや、そういう意味じゃ……」
このあたりは生命の匂いがまったくしない。
かつて犬や猫や鳥だったものは、すべて腐敗し、木や草は人間の生活のために追いやられていた。
雑草のようなものは食べられるのだろうか。
今の時期、死滅していなければどこかにつくしが生えているかもしれない。
ワラビやヨモギ、イタドリにスイバ、タケノコ、アロエ……ここからは良く見えないが、もしかしたら山に行ったらそういった食料も手に入るかもしれない。
俺は昔、おばあちゃんの家でそういったものを見ていた。
もちろん未加工のものだ。
地面に生えているものだ。
作物として品種改良もされていないワイルドな味というか、苦味や酸味以外の味を感じたことが無かったが、その酸味こそが俺たちが必要なものになるはずだった。
「山に行ったら、もしかしたら食べられる草とかあるかも」
「草、食べるの……?」
「虫と草ならどっ」
「草」
すべて言い切る前に遮られてしまう。
俺も虫を食うのはなかなか踏ん切りがつかない。
どうやって調理するかも分からない。
そういえば、このあたりで見た虫といえばハエぐらいしか居なかった。
それは逆に、ハエは居るという事だ。
人間も被害の割には死んでは居ないのだろう。
風呂に入って分かるようになった周囲の不快なにおいは、以前学校の廃墟で感じたそれよりは大分マシだった。
空は相変わらず不気味なほどに青い。
風は吹いているが、わずかな風だ。
さえぎるものが何も無いから少し強くも感じるが、相変わらず春の割には落ち着いた風だった。
おかげで視界は晴れていて、廃墟となった学校がはっきりと見える。
ここから見ると相変わらずの禍々しさで鎮座しているそれは、意外にもこのあたりで最も形を残している巨大な建築物だ。
他にもいくつか雑居ビルのようなものがあったはずだが、ことごとく粉砕されている。
本当に衛星や地震で街がこうなってしまったのだろうか。
衛星が時々落ちるニュースを聞くが、そのほとんどは大気圏で燃え尽きてしまうのだと聞いた。
燃えづらいものが残ることもあるだろうが、地球の七割は海なのだ。
地表にこれほど高密度に破壊を起こすほど、強烈な一撃を与えられるとは考えにくかった。
まだ類を見ないほどの大地震が起きた、のほうが信憑性がある。
そんなことを疑っていても仕方が無いことだが。
学校に到着した頃には、俺のズボンは砂だらけになっていた。
マイはスカートだから被害を受けたのは靴下だけだ。
異臭はやはり他のところと一線を画すほどの質であり、俺もマイも、思わず鼻をつまんだ。
軽い吐き気もする。
よくこんなところに埋まっていたものだと思う。
「うー、やめよっか……」
「ここまできてそりゃあないだろ」
俺はためらいを打ち消すように、最初の一撃を瓦礫に加えた。
とにかくそのまま残っている屋根をどける必要がある。
今は少し斜めになっているから、それをずらすためにわざとバランスを崩すことにした。
傾斜をつけ、すべりやすくしてから蹴るなりスコップで殴るなりして落とすのだ。
重量はどれほどあるかわからないが、下敷きになればひとたまりもない。
骨折でもしようものなら、医者のいない今とんでもないことになってしまう。
作業の進捗は思ったよりも早かった。
二人ともさっさとこの場所から離れたい一心で、喋りもせず作業を続けている。
「マイ、そろそろいけそう」
「了解」
短く言葉を交わして、俺たちは瓦礫のてっぺんへと上った。
高さは二メートル弱、斜面は二十度ほどもあるだろうか。
「せえの、で一緒に蹴ろう」
「わかった」
「せえの!」
がこん、という音がして少しだけ屋根が動く。
「せえの!」
もう一度蹴る。
少しずつ、少しずつ動いていく。
思ったほどに滑らかに動きはしなかったが、とにかく屋根は脅威ではなくなった。
あとは瓦礫をわきにどけていくだけだ。
「なあ、この中、本当に誰も……いないかな?」
「わかんない。あの時は鼻きかなかったし……」
そう、あのときは他の匂いが強烈過ぎて、このあたりの異臭には気づかなかったのだ。
「……とりあえず、掘ろう。早くしないと夕方になる」
「……うん」
またためらいを振り払うために、俺が最初の一回目を突き入れた。
瓦礫の成分は窓ガラスの破片や粉砕された壁だ。
プレハブは薄い木の板で出来ていて、それが粉砕されたり形を残したりして、山を形成している。
一振り一振りは軽く、たぶん同じ体積の土より掘りやすくはあった。
ただ、あまり深く突き入れて……何かに突き刺さるのが嫌で、俺たちは慎重になっている。
「たぶん、このあたり」
「おっけ」
俺はマイが指さしたあたりを重点的に掘ることにした。
少し硬い感触がある。
瓦礫の成分とは異質の何か。
人だった。
マイはスコップを地面に取り落とし、口を手で押さえようとしている。
ただ、その動きも途中で止まり、まるで時間が止まったかのように硬直していた。
「ミ……な、なんで……戻ったの? ねえ……嘘でしょ?」
目から涙さえこぼれない衝撃を、彼女は受けているのだ。
マイの友達は、たぶんマイと一緒に埋まっていた。
「なんで、なんでよ……なんで置いていくの? なんで……ねえ……」
俺にはわからない誰か。
俺と同じクラスにいた、誰か。
後姿だけで分かることは多い。
髪型や、服の着方や、細かなしぐさや。
彼女の身には奇跡が起きなかったのだろう。
だって……頭が割れている。
助かりようが無いじゃないか。
疑問の言葉を何度も何度も、マイは口に出した。
何かの拍子にぽろりとこぼれたのは、薄汚れた生徒手帳だった。
マイはすばやくそれを開く。
それからようやく、泣き出した。
「なんでぇぇ!」
言葉にならない言葉を、彼女は吐き出した。
俺はどうすることも出来ない。
ただ、いつかしたように、背中をずっとさすっている。
日は、いつの間にか傾いていた。
これから夕方だ……