流星
田中さんはしばらく自分で足をマッサージをした後、
何度か屈伸をしてみせた。
今の俺があんな行動をすれば、たちまち腰が砕けてしまいそうだ。
それほどに、俺たちは消耗していた。
しかし、スポーツをやっていたからなのか、
それとも眠り続けていた期間が少しでも短かったからなのか、
田中さんの方が回復が早く見えた。
まだ二時間ほどしか経っていないのに、彼女は今すぐにでも走り出しそうだ。
本当にそんなことをし出したらびっくりする。
しない事を祈る。
風は止む気配が無く、あたり一面砂埃で視界が非常に悪かった。
それでも止まるわけにもいかず、俺たちはまた、方向も分からないままに前に進むことになる。
幸い、生きている標識もあって道路がどこであったのかは分かる。
一部本当に道路がめくれあがって寸断している所もあったが、火事も無いし浸水も見当たらない。
地面が割けているような雰囲気も無い。
だから、歩き続ける事だけは出来る。
「田中さん、俺、ほとんど災害の記憶無いんだけど、田中さんは?」
「……私も、地震起きて、一旦逃げて、防災袋の事思い出して……だから、そんなに分からないよ。少なくとも校舎はぐちゃぐちゃになってなかったし、街だって普通だったはずだからね」
俺と田中さんは、俺よりも情報を多く持っていたというわけではなかった。
「でも、串本が言うように皆競技場を目指してはいたよ。私もそれについて行こうとしたんだけど……
ミキが……」
「ミキって、田中さんの友達?」
「そう。っていうか、串本と同じクラスじゃん。私らがミキ、って呼んでた子、知らない?」
「あ……そう……」
「マジで? 知らないの?」
「うん……ごめん」
「ふーん……まあ、その子と私でこの防災袋取りに行って、揺れのせいでミキがプレハブの入り口近くで倒れて、私は必死にかばん握って……気付いたら、串本にひっぱり出されてた」
どうやら、田中さんは無意識のうちに外に手を伸ばしていたようだ。
もしあれが無かったならば、俺はまず田中さんの存在に気付く事なく通り過ぎていただろう。
そして、水も食料も無くどこかで死んでいたかもしれない。
「地震だけだった?」
「なんで?」
「いや、地震だけでああはならないと思うんだけど……」
少しずつ遠ざかり、今はもう砂埃で薄くなった影を指す。
その先にあるのは、もちろん学校だ。
日本の学校が、ただの大きな地震であれほどまでに崩壊するとは思えなかった。
「……さあ、私は知らないけど、ウチの担任は地震だって言ってた」
「そうか……」
まるで、空襲でも受けたふうなのだ。
建物が歪んだり、傾いたりするのは何度か見た。
大津波の被害にあった街の映像も見たことがある。
そういうものとはまったく別の破壊だった。
一番似ていたのは、中東の戦争の様子がうつされた映像だ。
柱や梁が残り、壁が崩れ落ちたような、そういうもの。
津波であったなら、俺も田中さんもまずあの場に居なかっただろう。
「早く行こう?」
俺は、知らない間に立ち止まって考え事をしていた。
足に鉛が巻き付いたかのように、足取りが重くなる。
こんな調子では到着する頃に日が暮れてしまう。
「たぶん、一キロ切った」
地面に突き刺さった標識は、陸上競技場の場所を示すものだった。
むき出しの土と瓦礫に突き刺さった鋼鉄製のそれには、競技場まで900mの表示がある。
「広域避難場所」との表記も見えた。
もちろん、これがこの場に立っていたという保証は無い。
そんなものを俺はいちいち記憶してもない。
ただ、損傷が激しく無いのを見る限りはどこか遠くから飛んで来たとも思えない。
「もうちょっとだ」
田中さんは俺に構わず、前へ前へと進んで行く。
明らかに体調は逆転した。
「田中さん、もし、俺が進めなくなったら、先に行ってて」
「何で? もうちょっとじゃん。大丈夫だって」
「いや、今度は俺の足がヤバそうだ」
足の筋肉がひくひくとする。
足がつる一歩手前の状態みたいなのが、ずっと続いている。
そのうち激痛が走り、進むどころかのたうち回る事になるかもしれない。
「うん……分かった。置いてく」
「おう、置いてってくれ」
今のは冗談だったのだろうか。
それとも、本気だったのだろうか。
俺が、その表情を見届ける前に、世界は反転した。
地面に激突してすぐに目を開けると、田中さんと誰とも知らない少年が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「うわっ! 動いた!」
少年はわざとらしく飛び退った。
その手には、鈍く光る金属バットがある。
それだけではない。
ヘルメットも着用して、真っ白なユニフォームまで着ている。
このユニフォームは見た事がある。
地元の中学の野球部のユニフォームだ。
俺が通っていた中学校とは違うが、2キロほど離れた街の中学のものだったはずだ。
中学時代、練習試合の為かよくグラウンドで見たことがある。
「俺、どうしたんだ?」
まるで、今までの破壊が無かったような錯覚に陥った。
ユニフォームのせいだ。
だが、俺が転倒した場所は全く変化が無い。
「兄ちゃん、こけたんだよ。俺の目の前で、急に」
「目の前?」
「うん、人影が見えたから、遠くから見てたんだけど、話しかけようとしたらいきなり」
「私もびっくりした。あんなこと言った瞬間に急にこけるし、三分ぐらい目開けないし……」
「ん……ああ、頭打ったのかな。何か痛い」
頭をさすると、こぶになっているようだった。
それで済んだだけマシだっただろうか。
「のんきだな、兄ちゃん。で、どこに行こうとしてた? ここらへんの人?」
「ああ、ここら辺の人だよ。君は?」
「俺もここら辺。まあ、家は隣町だけど」
「家? 残ってるの?」
「そんなわけねえじゃん……」
言葉の選択を間違った。
少年は、明らかに表情を曇らせる。
「君、東中の野球部だろ?」
「知ってるの?」
「俺、北の出身だから」
「ああ、なるほど」
「どういう事? 何二人で納得してんの?」
俺たちは座り込んだまま話し始める。
これは、情報を仕入れるいい機会だ。
「よく練習試合で世話になってるんだよ。姉ちゃんはどこの中学校?」
「私は……こっちに、転入して来たから、言っても分からないよ」
「どこから?」
「新潟」
「だからスカート短いの?」
そう言って、少年はけらけらと笑った。
田中さんはそれを鼻で笑いつつも、赤面していた。
恥ずかしいならそんな格好しなくてもいいのに。
とは思いつつも、そんな選択肢は今は無いのだ。
みんなほとんど着の身着のまま避難をしている。
目の前の少年がユニフォームを着ていたのが、その証拠だろう。
「君の名前は? 俺は串本弘樹、彼女は田中舞子」
「俺? 俺は木山和人。彼女って、串本さんの?」
こんな状況でもちゃんと年上にさん付けをするというのは、運動部らしい。
「違う違う、そういう意味じゃなくて、田中さんを指して彼女、って言ったの」
「私らが彼氏彼女に見えんの? 意味わかんない」
まるで唾でも吐き出すように田中さんは言った。
こんな会話に巻き込まれるなんて、周りがこんなになるまでは思っても居なかった。
それは、田中さんも一緒だろう。
「じゃあ、なんで一緒に? こんなところに」
「いや、俺ら、二人とも気を失ってて、気づいたら……」
「気失ってたって、二週間も?」
「二週間?」
俺と田中さんは、口をそろえてそう言った。
「二週間前だよ。こんなになったのは。違った?」
もしそれが本当なら、恐ろしい話だ。
俺たちの運がいいのか、それとも悪すぎたのか。
そして、二週間経っても少年は、このぐちゃぐちゃな空間でバッドを持って徘徊している。
それも、俺たちを少し警戒しながらだ。
「木山さんはここで何を?」
「木山でいいよ。俺のほうが年下だし。俺はここに友達を探しに来たんだ。誰か見なかった?
俺ぐらいの背で、男で……」
「いや、俺も田中さんも目が覚めて三時間ぐらいだから、よく分からない。えっと、木山、は避難所に?」
「避難所って競技場のところ? あそこにはいけないよ」
「いけない? なんで?」
「なんでって……ここ、川に囲まれてんじゃん」
「川……?」
俺は、このあたりの地理に思考をめぐらせた。
時間をかければかけるほど、背筋が寒くなる。
言われてみなければ気づかなかったが、この町の境界はすべて川なのだ。
その川の深さはよく分からない。
緑色の液体が流れるような川を泳ごうなんて無謀な人間は居ないし、
普段は橋がかかっているのだから、そんなことを気にするはずもない。
道路がこんな状況なのだ。
橋が無事だなんて到底思えない。
それどころか、川の堤防も大丈夫なのだろうか。
ただでさえ川で囲まれているような土地だ。
川が氾濫でもすれば、すぐにでも内側は水で満たされそうだった。
「なんてこった……!」
「どういう事? 川?」
田中さんがこのあたりの地理に詳しく無かったとしても、俺たちの会話で薄々感付いているだろう。
「川なんて、簡単に渡れんじゃん? ねえ、簡単でしょ?」
焦りの表情が濃くなる田中さんは、このまま恐慌状態に陥ってもおかしくは無い。
俺だって嫌だ嫌だと騒いで、母さんや父さんが助けてくれるのを待ちたい。
でも、もうそんな状態ではないのだ。
二週間、木山はこのあたりに閉じ込められている。
このあたりはほとんど住宅で、工場なんて数えるほどしかない。
店もそうだ。
せいぜいコンビニやスーパーが数店舗あるだけで、このあたりに働きに来る大人自体、ほとんど居ない。
加えて、平日の昼間に事は起きたのだ。
俺が眠っていた授業は昼すぐの数学の授業だった。
スーパーやコンビニの人たちは、迅速にマニュアルどおりに避難が出来たことだろう。
一度や二度の衝撃で町がこんな状態になるとは思えなかった。
いつかあった大きな地震のときだって、何回も何回も追い討ちのように日本中が揺れていたのだ。
「木山、このあたりに、何があったんだ? 地震だけじゃないだろ?」
「地震? 違うよ。本当に何にも知らないんだ」
「何があったんだよ!」
俺は自分でも意識しないうちに荒い口調になっていた。
木山は何も悪くないのに、申し訳なさそうに言うのだ。
「小さな星が落ちて来たんだよ。地震はその後。星も、何回も落ちてきたよ。学校にだってたぶん、落ちた」
「星……?」
考えもしなかった事だった。
そういう事は、事前にニュースか何かで知らせるものじゃないんだろうか。
小さいころに一度、そんなニュースを聞いたことがある。
「先生は、衛星だって言ってた。地球の周りの人工衛星が、ほとんど落下したんだって」
「むちゃくちゃじゃないか……!」
「じゃあ、なんでこんなになっちゃったんだよ」
俺の憤慨に、木山は力なく答える。
田中さんは、いつの間にか泣いていた。
どれだけ被害があっても、他の地域が大丈夫ならば、いつか助けは来る。
そう思っていた。
二週間だ。
二週間の間、救援のヘリも無く、彼や、もしかしたら仲間も取り残されている。
川の向こうには本当に大人たちが居るのだろうか。
昔見た、大地震のニュースでは、海外からの救助隊や自衛隊の活躍が映し出されていた。
それらは三日のうちに一気に行われていたことだ。
二週間経っても、もちろん行われていた事だ。
ヘリの音さえ聞こえない街に取り残されている。
現実なのだ。
紛れも無い現実なのだ。
俺の頭の中に何度も何度も、叩きつけるように響いている。
早く目を覚ませよ、串本弘樹。
この足はなんだ?
この腕はなんだ?
体は、頭は?
まるで、夢の中の出来事のようにゆっくりとしか動かない自分の体は、
これ以上ないぐらいに打ちのめされている。
心も同じく折れそうだ。
田中さんはもう、ぽっきりといってしまっている。
号泣に近い様子で、小さな子供のように泣いていた。
木山はそんな様子を見慣れているのか、表情が凍っている。
「串本さん、一緒に、俺たちのところに来る? 俺たちが避難してるところがあるんだ」
「俺たちが行ってもいいの?」
その言葉に、俺は少しだけ気を取り直した。
仲間が居ないわけではないのだ。
少なくとも、先生と呼ばれている大人だって居る。
田中さんの背中をさすってあげた。
少し前の田中さんなら、すぐにキモいと言って俺を跳ね除けていただろう。
そんな元気さえ、彼女は失っていた。
「たぶん、喜んでくれると思うよ。食料とか水もいっぱいある。永遠にじゃないだろうけどね……」
俺たちに合わせて座り込んでいた木山は、バットを杖代わりにして立ち上がった。
「ああ、そうだ、夜は出歩かないほうがいいよ」
「何で? 誰も……いないんじゃないの?」
「何でって……誰もいなかったら、バットもってヘルメットかぶってうろついたりしないよ」
二週間という時は、世界を変えるのに十分だったらしい。
水も食料も無く二週間も生き延びられる人間は、普通いない。
俺たちのように仮死状態になっていれば別だろうが、そんな稀なケースはそうそう起きるものではない。
ここには間違いなく、奪う人間が居るのだ。