小さな音
無風で、雲一つない。
季節は春だろう。
雲一つ無い日はあったとしても、無風というのは珍しい。
おかげで、あたりは無音だった。
もし、今強烈な風が吹いていたら、視界は晴れているだろうか。
おそらく、粉塵が未だ見た事無いような砂嵐を起こしていただろう。
それはつまり、そういう日もあるだろう、という事だ。
そんな状況で、今みたいにどこかに歩いていくというのは、自殺行為だという風に思えた。
道は徹底的に破壊され、脇にはまだ形の若干残っている建物や、半壊したもの、ただの瓦礫となったものが連なっている。
これほどの建物があったことを、皮肉にも俺は崩壊してから知った。
道路は大半が砕け、河原よりも歩きづらい。
ところこどろアスファルトが溶けているのが見えた。
火事か何かがあったのだろうか。
それとも、燃える何か別のものがあったのだろうか?
もし、俺があの場で火事に巻き込まれていたらまず助からなかっただろう。
「きゃ」
背後で短い悲鳴が聞こえる。
俺と田中さんは、学校からまだ500mも離れていない。
崩壊しかけた校舎はまだ見える。
だというのに、もう見飽きるほどに何かの肉を見た。
田中さんはそれを見て、何度目かわからない声をあげたのだ。
誰も掃除する人間はいない。
それが一体元々何だったのかも分からないが、
骨や、腐った肉や、ウジを見ればそれがかつて動物であったことはわかった。
鳥や犬や猫もこの災害を免れることは出来なかったのだろう。
また、人間の一部らしきものもよく見つかった。
不思議と以前ほどの不快な臭いは感じなかった。
鼻が麻痺してしまったのだろう。
そのうち間隔も麻痺して、俺は驚くことも無くなった。
せっかく復活した現実感が、次第に消失していく。
これは夢なんだ。
もしそれを口にでもしようものなら、俺の精神はバランスを容易く失うだろう。
俺が危機に瀕した時、それを現実のものとして受け止める事が出来るだろうか?
それで死んでしまうのは、ある意味幸せな事なのかもしれない。
けれども、俺はまだ死にたくは無かった。
まだ十七年しか生きていないのだから。
少し目を瞑り、黙祷を捧げるようにする。
死を意識することも、俺を現実に戻させてくれた。
目標の競技場まで、おおよそ半分ぐらいだろうか。
おおまかな方角は分かっても、道さえ特徴を失った今では、距離感が曖昧だった。
ここに来るまでもずいぶんぐねぐねと曲がって来たからだ。
時間の感覚も失っている。
たぶん、歩き始めて一時間は経過している。
日も少しだが、傾いていた。
「休憩しようか?」
「いい」
短く否定をする田中さんだったが、明らかに休息が必要だった。
足は震え、定期的に瓦礫の上から滑り落ちそうになっている。
俺が提案したからなのか、それともこの環境で座り込むことに抵抗があるのか、
田中さんは進み続けようとする。
俺の体は、痛みに悲鳴をあげている。
おそらくは田中さんも。
圧迫されていた部分は田中さんのほうが多い。
どちらのほうが長く気を失っていたのか、正確にはわからないが、
おそらくは俺の方が長い。
田中さんは災害があったことを知っており、
それで防災用具を引っ張り出していたのだから。
「水、飲もうよ」
「やめてよ」
「え?」
「私の友達のなんだから、勝手に……っ!」
田中さんは滑落してしまった。
幸い瓦礫の高さは1メートルほどしか無かったが、
突起がたくさんあった。
田中さんは浅い谷で呻いていた。
ベッドから落ちた程度のダメージでも、
今の俺たちには深刻な打撃だ。
意識を失ってはいないようだったが、動けないのは明白だった。
俺の思考が真っ白になってしまう。
彼女を引っ張りながらこの先を行く体力は、俺には到底無い。
「あ……ぐ……」
声が満足に出ないのだろう。
彼女は先ほどまで死体のような血色をしていたのだ。
強気な態度を取ってはいても、体はかなりまずい状況だった。
病院が機能していたら間違いなく駆け込んでいただろう。
彼女の体をためらいがちに触る。
こちらを睨もうとしたのか、顔だけ動かしてすぐに縮こまった。
どんな抗議を受けようと、このままにしていていいはずが無い。
俺の体に裂けるような痛みが走る。
抵抗気味の田中さんを持ち上げようとしたからだ。
すぐに断念して、何か使えそうなものが無いか、周囲を探した。
長さ2メートルほどのベニヤ板が、少し焼けて転がっていた。
どこかの工場で使われていたものだろうか。
貼られたラベルの大半が焼けていたが、工業所、という字が辛うじて判読できる。
この辺りの出火の原因は、町工場の火なのだろうか。
とにかく、これを横たわる彼女のベッド代わりにしたかった。
田中さんが転がる谷の近くまで、なんとかベニヤ板を運ぶ。
かなり汚れているが、この際そんな事はどうでもいい。
固い突起の多い瓦礫の上で寝転ぶより、だいぶマシだ。
ベニヤ板を運んだだけで俺の手から握力が消え失せていた。
やはり、長い間眠っていたせいで、筋力が大幅に低下している。
「田中さん、這ってでもこっちに来て」
俺の声は自分が思った以上に疲れ果てていた。
「田中さん……」
「う、う……」
言葉にはならなかったが、彼女はベニヤのある方向に這い出した。
その間に、俺は近くにあったぞうきんのようなもので、出来る限りベニヤ板を清潔にしようとした。
握力が無いから、ほとんど腕を押し付けるような感じだ。
大して奇麗には出来なかった。
それでも、そういう異図を汲んでくれたのだろう。
何も言いはしなかったが、代わりにこちらを睨むような気配は無かった。
田中さんの警戒を少しでも解きたい。
彼女は間違いなく、俺よりも今の世界について詳しいのだ。
奇麗な布が無い。
防水加工された防災用具入れの内側が、おそらく今一番奇麗な布だ。
これも消毒されているわけでもないから、包帯などに使うのはためらう。
俺は、自分が持っている方の袋を裏返し、彼女の足を拭いてやった。
先ほどの転倒の時に擦りむいたようだった。
貴重かもしれない清潔な水を、傷にふりかけた。
少しずつ使う。
もし、今傷口が化膿でもしたら、治療なんて出来ない。
自分が思ったよりも冷静に物事を考えられるのを、意外に思った。
先ほどまでは狼狽していたが、やはり、俺はこの今起きている事態を、半分ぐらい現実として受け止めていないらしい。
でも、その事が冷静さにつながるなら、精一杯利用したい。
田中さんは、どうやら喋られるぐらいには回復したようだった。
「ありがと……」
「どういたしまして」
「ごめん」
「なんで謝るの?」
会話は、ゆっくりだった。
とても短い言葉の応酬だったけれども、
一つ一つの言葉の感覚が長い。
「見捨てられるって、思った。キモイとか、何か、喧嘩するみたいな事ばっか言って」
「いいよ、言われ慣れてるから」
そう言って、苦笑する。
本当の事だった。
俺は、多分どうしようもなく「キモイ」のだ。
いつしか、その言葉さえも聞かなくなったが。
「皆、串本みたいに頭よくないからさ。怖いんだよ、キモイ、って言われるのが。だから、先に言って……安心する」
「皆って?」
「ウチらのグループ。誰々はカッコいい、誰々はキモイ、かわいい、ウザい、賢い、頭悪い……皆、誰かが最初に言い出して、それで、私がそう思って無くても、いつのまにか決まっちゃう。串本は、キモイんだってさ。何でだろうね」
「挙動不審だったからじゃないかな。少なくとも、こんな自然に田中さんの体、拭けるとは思ってもなかったし」
「ああ、だからキモイんだ」
そう言って、田中さんは苦しみながらも笑った。
冗談だ。久しぶりに聞いた。
「怖くない?」
「何が?」
「死ぬの」
「怖いよ」
「でも、死ぬよ、多分」
「……何で?」
夜が来る。
食料が無くなる。
水が無くなる。
怪我をする。
崩落に巻き込まれる。
敵意のある人に。
あるいは動物に。
色々な事を、俺は頭に思い描いている。
歩きながら、ずっと考えていた。
俺と、田中さんの明日についてだ。
今日、競技場に到着出来るかどうかも分からない。
俺だけ様子を見に行って、帰ってくるというのなら、
あと二時間もあれば可能かもしれない。
でも、彼女は聞き落としそうな小さな音を立てながら震えていた。
その場に捨ててはおけなかった。
「私、もう足が動かないかも」
「動くよ。絶対。折れても無い、大丈夫」
「どんだけ痛いか、わかんないくせに」
そう言って、田中さんは少しだけ涙声になった。
それでも俺は、足を拭くのをやめない。
握力はほんの少しだけ回復しているが、
相変わらず腕ごと押し付けるような、ぎこちない動きだった。
だからこそ、こんな足を直接触るような真似が出来るのかもしれない。
依然の俺なら、絶対に出来なかった行為だ。
俺の手に感覚がないように、田中さんも足が麻痺しているのかもしれない。
「俺も、体中痛いよ。握力も無くなった。でも、ちょっと回復してる。
どう? まだ痛い?」
「めちゃくちゃ痛い……」
「触るの、やめたほうがいい?」
「それは、関係ないと思う」
どういった意味なんだろうかと、少しだけ考えた。
つまりは、やめないでいい、という事だろう。
「マッサージとかしたほうがいいのかな……」
俺が足を擦るだけで、マッサージになったのか、少しだけ血色が良くなっていた。
幸い、足が腫れているような様子は無い。
触っただけで痛みを感じるような状態でも無いようだ。
「もう、水が一本無くなりそう」
「そんなに使ったの?」
「汚れが傷に入ったら、ヤバそうだったから。ちょっと飲む?」
俺は、ペットボトルの残りを差し出した。
握力が無くなったから、キャップは歯で噛んで回していた。
キャップは一応ポケットの中に入っている。
いつか、容器として使えるかもしれないからだ。
「ん……そうだ、水、もうちょっとあるかも」
「どこに?」
「学校。私が取りに行ったプレハブがあるでしょ? あそこに一クラス分、防災用具があったから」
「でも、あれ、道具なしじゃ掘り出せないと思うよ」
「競技場に行けばあるんじゃない?」
「ああ、そうか」
「私と串本だけの秘密じゃね?」
そう言って、田中さんはいたずらっぽく笑う。
俺はその笑みに、苦笑を返す事ぐらいしか出来なかった。
「あ」
ぴくり、と田中さんの足が動いた。
「ちょっと動く」
短いスカートを気にする事無く足を動かし、立ち上がろうとしたが、
すぐに断念する。
「駄目。あともうちょっと」
今思えば、俺はとてつもない所をなで回していた。
女子の太ももからすねにかけて、しつこく、丹念に。
意識してしまった今は、もうマッサージなど出来ない。
「く、串本……もうちょっと」
「え?」
「もうちょっとだけ揉んで」
「あ、うん」
まさかそんなことを懇願されるとは思っても居なかった俺は、
足だけを見てあくまでも作業をするように、マッサージをした。
握力は握れる程度には回復していたが、まだ握力が戻っていないかのように、俺は振る舞った。
柔らかい中に、筋の張った、固い感触があった。
単純に、疲労のせいだったのだろうか。
もっと詳しい人に見てもらわないと、また同じ事になりそうだ。
「そんな真剣にやられたら、こっちも恥ずかしいし……」
「え、あ、うん……」
ぎこちない会話だった。
ふざけてやろうにも、そんな事にまで頭が回らない。
「もういい、大丈夫、ハイおしまい、残念でした」
そう早口で言って、田中さんは足を三角座りのようにした。
足を自分で揉み出して、痛い、とか、きもちいい、とか、独り言を言っている。
俺も自分の手をストレッチする。
たぶん、もうこんな経験は無いだろう。
「今日中に、とにかく競技場行ってさ、道具、見つけよう」
田中さんはその言葉に頷く。
俺の顔を睨むような事はしないが、こちらを見ない。
関係が良くなったのか、悪くなったのか、分からなかった。
こんな空気のまま、一日の大半を過ごさなければいけないのは、正直しんどそうだ。
「私、中学の頃陸上部だったから。今度、マッサージ教えてあげる。串本下手すぎだし」
眉毛の無い怖い顔でも、笑えばかわいく見えた。
髪の毛はボサボサ、髪の色も半分黒で半分茶色、服も顔もすすだらけで、足だけは今、妙に奇麗になっている。
鏡を見たら彼女は発狂するかもしれない。
出来る限り姿が映るものからは遠ざけておこう。
そうこうしているうちに、日はまた傾いていた。
まだ夕方とは言えないが、日の力は明らかに弱まっていた。
雲も若干流れて、風も吹き出した。
風が吹くと、案の定埃が舞い上がって視界が悪くなった。
倒壊の音も増して来た。
音が溢れて来ても、世界の寂しさは変わらない。
人の気配はしなかった。なぜなら。
がらり、と。
小さな瓦礫が崩れ落ちる音を、俺は聞き逃していたのだ。