新しい社会
目の前の男が放つ独特の威圧感は、悪い人間が放つそれとしか思えない。
頬はこけているが、ボロボロのTシャツから露出した肌には、筋肉の隆起がはっきりと見て取れる。
手もごつごつとしていて、最近何かを殴ったのか、拳の部分の皮がめくれていた。
何より、男の目だ。目つきだ。
俺は、まさに蛇に睨まれたカエルのように、直ちに行動しなければ駄目だと分かっていても、体が強張ってしまって動かなかった。
マイも同じように固まっている。
「何、してたんだ?」
もう一度同じことを尋ね、男が顔を近づけてきた。
先ほどの愛想のいい髭面とは違って、丸刈りの男はただ、俺たちをにらんでいた。
その声を聞いたのか、中から髭面の男が出てきた。
「取引ですよ。水と服を交換しました」
「取引? よそ者と取引したのか?」
「あ……はい」
髭面の男も委縮している。
やはり、ここの集団もある程度組織化され、上下関係のようなものがあるのだろうか。
「ナカムラさんよ、困るんだ。あんたが当番の時、よく物が無くなるだろ」
「そんなことないっすよ……」
そう言いながらもナカムラさんと呼ばれた男は、顔を下に向けた。
「悪いが兄ちゃんたち、水は返すからよ、服を返してくれ」
「あっ、はい」
そうとしか返事が出来なかった。
ジーンズや靴下に、何か争いごとを経てまで得る価値は無い。
「ほらよ、ナカムラさん。さっさと水、返しな」
「ああ、はい」
さっきまでの気だるそうな雰囲気はどこへ行ったのか、きびきびとした動きで俺に水を返してくれた。
俺は逆に、遠隔操作されたようなぎこちない動きでジーンズと靴下を返した。
「兄ちゃんたち、仲間はいるかい?」
「仲間、ですか?」
男は先ほどまでの異様な雰囲気を纏っておらず、少し優しげにも見える。
ただ、それはギャップでそう感じているだけなのかもしれない。
俺はまだ、警戒を解くことは出来なかった。
「いません」
答えたのはマイだった。
「そうか、ラジオは? 聞いたか?」
「ラジオ?」
「聞いてなさそうだな……」
ため息をつく男の表情は、先程とは違う種類の険しさがある。
「最初は、救助が来るっていう内容だった。二週間前の話だ」
二週間前、俺もマイも、まだ仮死状態だったころの話だ。
「今、見ての通りの状況だろ。救助は来てないんだが、それ以前は各地のひでえ状況もいくつか情報が入ってたんだ。北は北海道から南は沖縄まで。被害を免れた地域は無い」
それを聞いても、俺は衝撃を受けることは無かった。
なんせ、もう世界がこうなってしまってから一か月は経っているのだから。
「アメリカだろうが、中国だろうが一緒だよ。情報が良く入ったもんだよ。たぶん、一部の通信網は死んでないんだろうな。これは、俺も実際に見たんだが、海の方は普通だったんだよ。たぶん、飛んでくる瓦礫もねえから、被害は少なかったんだろうな」
「海まで行ったんですか?」
「ああ……車でな。まだ生きてる道が海沿いには多かった。そりゃあ、完全な道なんてないけどな、少なくともここのあたりみたいに、瓦礫ばかりということは無い……それはともかくとして、ラジオの放送が二、三日途絶えて、急に内容が変わったんだよ。それまでとは違って、音楽なんかやりはじめたんだ。選曲は特に一貫性が無くて、本当、適当にやってる感じだった。喋りは一言も無かった。それが、一日中続いた。今思えば、放送テストか何かだったんだろう」
男の拳が固く握られた。
その音が俺の耳に聞こえてくるような錯覚さえ感じた。
「それから、今までずっとあいつらの放送が止まないんだ。どこかの宗教団体か、それとも別の何かなにかは知らねえけど、ずっと同じことを繰り返してる。俺らのところに来い、水、食料、医療や娯楽、その他もろもろを保証するってな」
「どこからの放送かはわかるんですか?」
「ああ、そいつらの言う事が正しかったら、あの山の向こう側、窪地になってる部分だ。俺も昔見に行ったことがあるが、比較的被害は少ない。家が少ないからな。ただ、土石流でだいぶ交通網はやられてるから、歩きでしかいけねえ」
あの山の向こう、と指差した先には、標高500~600メートルほどのハイキング向けといった風情の山があった。
ここからは確か、十キロほども無いはずだ。
男が言うとおり、土石流の痛々しい傷跡はここからでも確認できるものの、山にはまだ緑が残っている。
湧水もあるなら、食料や水を保証するという言葉はあながちウソではないのかもしれない。
ただ、何百人も詰めかけて枯渇しないのかどうかは分からない。
「信じるなよ。ここからも数人、偵察に行った。同時期に俺も行ったが、俺以外の奴は帰っちゃいない。たぶん、あいつら放送でおびき寄せてるんだ。どこで監視してるのかはわからんが、俺が山頂付近に到着した途端、三人に歓迎された。鉄パイプ、角材、鉄筋。一人は片手にロープまで持ってやがったな。生け捕りにするつもりだったんだろう。俺は、投降するフリをして鉄パイプの奴の顔面に一発入れて逃げてきた」
そう言って、男は拳の皮がめくれた部分を強調し、得意げに語った。
世界がこういう風になってしまうまで、男が何をしてきたのかは知らないが、
三人に囲まれて反撃の上逃げるなんてことは、普通の人には実行できない。
妄想する以上に、危機から逃れるのは容易ではないことは、一度襲撃されて分かった。
あの時は体が動いたからよかったものの、すくんで止まってしまう人のことを、俺は絶対に笑えない。
「たぶん、あいつらはああやって人を集めたうえで食料や水を奪い、奴隷も確保してるんだろうよ。
俺を囲った三人のやつも、いやいややってる感じだったし、殴った瞬間残りの二人も混乱してたからな。
服装もスーツやら、作業着やら……仕事中に被災したのか、そういう奴らだった」
山の向こうの窪地には、住宅が密集しているのは知っている。
俺の学校にも電車でそのあたりから来ている奴らもいたぐらいだ。
電車では十五分ほどの距離でも、歩きだと線路を歩いて一時間、二時間ぐらいだろうか。
トンネルが崩落していたら、もっとかかるだろう。
スーツや作業着の人たちは、他の地域から集められたのだろうか。
あるいは、俺の家族もそこに居るのだろうか。
「……まあ、お前らも家族探してるんだろうけど、あそこに近づくのはやめといたほうがいい。」
「はい、忠告ありがとうございます」
そう言って頭を下げ、俺はその場を去った。
俺が見えなくなるまで、追いかけてきたり、声をかけてきたりという素振りは無かったが、ずっと二人で俺たちを見ていた。
俺たちが向こうに警戒するように、向こうも俺たちを警戒している。
特に、あの男が語ったようなことがあれば、なおさらだろう。
「それで、どうするの? 皆に話すの?」
しばらく歩いていると、今まで黙っていたマイが口を開いた。
「……どっちの事?」
「どっちも」
「うん、話すと思う」
「私は、反対だな。たぶん、親を探しに行く子、絶対居るよ。そうなったらみんなバラバラ。みんなで行くならいいかもしれないけど、私たち二人の物資を出すのにも精いっぱいなのに、皆で移動なんかしたら、水も食料も足りなくなる」
俺よりよっぽど、マイはみんなの事を考えていた。
俺は最年長で、男だからリーダーに選ばれたにすぎない。
特にみんなが投票したわけでもなく、素質を見抜かれたわけでもない。
もし、素質を見る目なんてものがあったとしたら、俺よりずっとマイのほうがいいはずだ。
勇気もあるし、頭も回る。
それはたぶん、今みたいな極限状態では一番必要な事なのだ。
「それでも……俺は、話したい。マイはもし、俺が一人で行ったとして、帰ってきたときに何もなかったと言ったら、どう思う? ああ、何もなかったんだな、それだけ思う?」
「それは……たぶん、何か隠してると思う。でも、何か嘘でも考えればいいじゃん。ずっと瓦礫が広がってるだけだった、とかさ」
「じゃあ、俺たちも何か役立つものを探そう。何もなければ安全なはずだから……そう、思われたら?」
「それは……」
集団を生かすためには、賢明な選択ではないかもしれない。
それでも、俺は知る自由があるとは思った。
危険も、希望も同じく平等に話さなければならない。
伝えていないことがあるとすれば、さっきの男が言っていたインチキ放送と同じなのだから。
俺は自分が強力なリーダーでない事を知っている。
だから、皆が納得の上で行動をすることを、俺はしてもらいたいと思った。
結局のところ本当の意味で責任なんて取れないのだから。
各自の責任で行動しながら、集団としての利点を利用するぐらいの考えをしてほしい。
中学生にそういった事を求めるのは難しいかもしれないけれども、
そんなことを言ってはいられない。
俺だって高校生だ。
人によってはもう働いている年齢かもしれないが、今の基準で、成人さえしていない。
それはマイも同じ。
唯一の大人であった谷村さんも、俺にすべてを託した。
あんな人数の命を預かるなんて、まともな精神力ではもたなかっただろう。
教師としての責任だけが、あの人を今までもたせていたのだ。
「少し早いけど、帰ろう」
「うん」
そう言って、俺たちは荒野をまた歩き続けた。
俺たちが作ったイカダは、いまだに浮いていた。
係留しておいたとはいえ、即席のイカダにしてはよく出来ていたようだ。
ゴムタイヤにドラム缶に、黄色と黒の注意色のロープがつながれている物体を、
イカダと認識できるのは俺たちだけなのかもしれない。
なにはともあれ、ここまであの集落の目が無いのは、このあたりが死角になっていたからだろうか。
周りには石柱が地面に突き刺さっていたり、瓦礫や土砂が山となっているところが多い。
あの集落は俺たちの少し慣れた足でも半日はかかるし、物資の乏しい集団にとってこっち側はあまり魅力的ではなかったのかもしれない。
俺の記憶が確かなら、あの集落より向こう側にはモールや商店街があった。
そっち側に探索の足が向くのは当然で、住宅街だった俺たちの領域には、人間は居ても物資は無い。
もし弱った人間が居れば救助をしなければならず、そうしない場合はただ、後味の悪い雰囲気が通りがかった人に残るだけだ。
物資に余裕があったうえで、仲間が欲しいならそういった行動もあり得るのかもしれないが、救助の見込みもなく、充分大きな集団を形成している場合は、あまり旨みは無いだろう。
さすが大人の集団なだけあって、冷静な判断でまとまっているようだ。
人間が集まる場所というのは、危害を与えようとする人間と遭遇する確率も上げるということだ。
今のところ、野生生物を見ない。
虫でさえ見ない。
魚は居るのかもしれないが、こう濁った水の中で、探すのは難しい。
俺とマイは、イカダの上で二人とも座り込み、沈まないのを確認してからロープを外した。
以前より少し緩やかに感じる流れに乗って、下流へ下流へと流されながらも、対岸にたどり着く。
漕ぐために使った棒は、川底に届いた。
水が以前より少なくなったのだろうか。
そういえば、雨がなかなか降らない。
ここ最近、晴ればかりが続いていた。
そのうち、水が深刻な状態になってしまうのかもしれない。
泥水でもなんでもいいから、確保しておくべきだろうか。
そういう事を考えながら、二人で特に話す事も無く、俺たちはもとの、
俺たちの家とも呼べる場所へ戻ってきた。
こちらを見るなり、手を振ったり駆けて報告に走る人影が見えた。
予定の三日より一日早い帰還だ。
俺とマイは自分の寝床の近くで、減った荷物を降ろしてへたりこんだ。
二人で背中合わせに座り、お互いを背もたれにする。
誰かが部屋に入ろうとして、すぐに引っ込んだ。
何か変な勘違いをされたのだろうか。
「帰ってきたね」
「うん」
マイが大きく一息ついて、伸びをした。
谷村さんがそのうち、俺たちの話を聞きに来るだろう。
あるいは、皆で一斉に来るだろうか。
どちらにしても、俺が話そうとしていることは変わらない。
俺が訪れた、あるいは聞いた、二つの新しい社会の事を。
そして、それから。
「次」の事を、皆で一緒に考えよう。




