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灰の中  作者: 文月一句
1/15

死んだ世界

世界は死んでいた。

壁も。

天井も。

空も。

空気さえも。

崩壊している。

壊れてしまっている。

夢でも何でもない。

この上なく、限りなく、疑いようのない事実だ。

体が痛い。

そのことが、真実だと感じる一番の理由だった。

それはこの上なく現実味を帯びた痛みで、体を動かなくさせるのに十分な痛みだった。

誰か助けてくれ。

そう言いたかったが、声さえ出ない。

世界は闇に近かったが、それでも壊れているのがわかる。

空気、つまり匂いが、それを感じさせた。

肉の腐るような匂いだった。

あるいは、本当に腐っているのかもしれない。

自分のものなのか、それとも他人のもののかさえもわからない。

俺の脳は色々な事実を急に叩きつけられて、混乱していた。


最後の記憶は教室で寝た、ということだった。

寝たのははっきりと覚えている。

数学の時間だったたという事も覚えている。

この現実がそれこそ悪夢か何かで、目を開ければそれで終わる。

そうは思ったが、モノクロの世界は一向に終わらない。

闇の黒と光の白だけが、俺の世界の全てだった。

俺の体にいくつかの瓦礫がれきのようなものがのしかかっているのがわかる。

痛みはこいつらが与えたのだろうか?

半分神経がしびれているような感覚だったが、瓦礫が重くないことはすぐにわかった。

おそらく、ちゃんと腕や足が動けばすぐにでも動かせるだろう。

動けば、の話だが。


金縛りというのを何度か体験したことがある。

寝るその直前に意識が覚醒すると、脳が体の動きを遮断しているのに、意識だけは覚醒している。

俺は今、それに近い状態にある。

目は動くし、まぶたも大丈夫だ。

指先も動かない事はない。

体中打ち身しているようだった。

意識が覚醒して、どれほど時間が経ったかは分からないが、

俺の腕と、それから足は少しずつ動くようになっていた。

凍っていた体を解凍したような、なんとも言えない感覚。

まるで、ゲームセンターのプライズゲームの腕を操作しているような、

自分の腕じゃないような感覚が、しばらく俺を支配する。

右に動かそうと思えば動くし、左にも同じく動く。

思考と動作が同期しないような違和感も、動かす事によって少しずつ緩和していく。

高熱を出した時、同じような経験があった。

俺の体は相当なダメージを受けていたようだった。

ただ、昔スキーで骨折した時ほどの痛みでは無かった。

思考が停止するほどではない。

今や四肢は全て自由で、ただ、狭い空間に押し込められているという事だけが不便な事だ。


周囲に音はなかった。

静寂の音がする、と言えばいいのだろうか。

俺の体が出す音だけが、周囲に響いている。

風さえも吹いていないようだ。

しかし、光はある。

そして、腐臭はやはり続いている。

いつまでも嗅覚が死ぬ事は無い。

強烈な臭いだった。

俺は、光の漏れる場所になんとか腕をねじこみ、そこからこじ開けようとする。

筋力はだいぶ落ちているようだ。

これと言って部活はしていなかったが、

平均的な男子生徒ほどの体力はあったと思う。

今となってはそんな記憶さえも霞がかっていた。

ずっと長い夢を見ているような感覚は、今も少しだけする。

痛い、だるい、臭い。

夢で抜き身の恐怖を味わう事はあっても、痛みや腐臭や倦怠感を味わった事は無かった。

それがつまり夢ではない根拠で、加えていうなら空腹感もあった。

俺は自由になった腕でポケットを探ってみた。

色あせたレシートのような紙と、財布と、携帯電話が入っていた。

携帯電話には電池が残っていない。

今が何日なのか、それさえも分からなかったが、寒くも暑くもなく、気温としては過ごしやすい雰囲気だった。

とにかく、今は腐臭だけが不快で、ここから出て違う場所に出たかった。

俺は光を見るのをやめ、闇に目を凝らそうと目をいったんつぶり、頭ほどの空間も無い出口にそっぽを向いた。

かすかに、鉄棒のようなものが見える。

教室の机の残骸だろうか。椅子の足が、千切れているようだった。

どんな力を受ければ、こんな状態になるのだろう?

その疑問は、周りにも同じ事が言える。

俺の周りは全て鉄筋が入ったままのコンクリートで、それが軒並み倒れている。

コンクリートのざらざらと、鉄筋の冷たい感触が、壁を探る俺の手に返ってくる。

どこからどんなものが飛び出しているか分からないので、探る手は慎重に動かす。

今怪我をしようものなら、そのまま死んでしまいそうだった。

俺は、他に何も無い事を確認してから小さな出口に鉄棒を差し込む。

てこの原理で力を加えるが、当然のごとくコンクリートはびくともしない。

誰か!

また叫ぼうとしいても、かすれるような、うめくような声が出るだけだった。

仕方が無いから、コンクリートの端を少しずつ突いていく。

ちょっとずつ削れていくようだ。

俺の体が外に出るのは、何年先の事なのだろう。


しばらく突いていると、俺の体を腐臭以外の不快感が襲った。

吐き気を催すような揺れだった。

さらに、地鳴りのような音もする。

地震だ。

俺は咄嗟に、身をかがませた。

それとほとんど同時に、俺がさっきまで立っていた場所に石柱が横切る。

その柱は、まるで一本の巨大なハンマーかのように、穴の向こう側に見えていた壁を薙ぎ払った。

一体何が起こっているのだろう。

死にそうな目にあったというのに、なぜか俺の意識は冷めていた。

伏せていると、三十秒ほどで揺れは収まった。

幸い、俺の頭や体には何かが落ちてくるという事は無かった。

それは逆に言うと、この空間が異様に頑丈だという事にもなる。

絶望しそうになった。

俺は、ここから出られず、何も分からないまま餓死して行くのだろうか。

せめて、外の様子は見たい。


俺は再び穴に寄った。

石柱の通過のせいで、狭かった穴がさらに狭くなっている。

とにかく、端を突いた。

三回突いただけで、急にピキ、という音がした。

さきほど横切った、柱だったものに亀裂が入っているようだ。

どうやら、衝撃を受けて相当脆くなっているらしい。

俺は、無我夢中で脆弱部を突きまくった。

すぐに俺の肩幅ほどの穴が開く。

空はさっきよりも暗くなっていた。

俺の頭上には、ただの光ではなく切れ切れに空が見えている。

歪んだ建物が、空を覆い隠している。

周囲を見渡すと、天井はわずかな支柱に支えられ、なんとか保っていたらしい。

揺れと石柱の一撃が、止めを刺したらしい。


俺が予感するより早く、足は生存に向けて動いていた。

脱出時の衝撃が伝わったのかどうかは分からないが、建物は大音響を立てて崩壊した。

出口はどうやら、昔テラスだった部分のようだった。

そうだ、俺の教室は二階にあったのだ。

それがなぜ、地上にあるのだろう。

俺の思考はすぐさま寸断される。

轟音とともに、今まで俺が居た場所、二階だった部分が全て崩れ落ちた。

その音を受けてか、周囲でもこだまするように崩壊が始まっていた。

急に明るくなったのに、まだ目が慣れない。

俺は、心を落ち着けるために大きく息を吸った。

まだ、腐臭がする。

猛烈に舞い上がる埃の中、先ほど崩れた二階の窓であっただろう部分に、頭が半分割れた人間のようなものが引っかかっているのが見えた。

三階の、元住人なのだろう。

三階は一年の教室だったから、つまり、後輩だ。

初めて見る死体は損壊が激しく、人形のようで現実味が全く無かったが、腐臭の正体を知り、強烈な吐き気を催す。

この臭いは、この一年生以外のも含んだ、相当な数の死体の腐敗臭なのだ。

良くこんな環境に居て、俺は生きていたものだと思う。

死んだ人間が腐るほどの時間、俺は生存していたのだ。

それに、時間がかかったとはいえ今は体が動く。

色々な感覚もほとんど戻って来ている。

ただ、胃が中身を吐き出そうとして、そして何も入っていない事に気付く。

猛烈に腹が減りながら、吐き気も収まらない。

ただ喉がひくひくとして、うつむいたままえずいていた。


なんとか落ち着きを取り戻し、崩壊した建物から少し離れて周囲を見渡してみた。

学校は、頑丈そうな体育館も含め全て崩壊していた。

完全に潰れている訳ではなかったが、それが逆に危険な環境を作りだしているように見える。

あまり近づくと、またいつ崩壊に巻き込まれるかわからない。

そうなると、今度腐るのは俺のほうなのだ。

空だけが妙にのどかな天気だった。

羽虫の群れが崩壊した建物から、出たり入ったりを繰り返している。

先ほどまで大人しくしていた連中が、崩壊を機に動き出したのだろう。

俺はとりあえず、この場から離れる事を決めた。

いつまでもここに居ても、腹は膨れないし、周囲の状況も分からない。

家族の行方も気になる。

俺の家に入るとは、とてもじゃないが思えない。

車が通る音は全く聞こえないけれども、校舎の崩壊具合を見ても、

すべての建物が完全に破壊されたわけではないらしい。

地震のようなもので破壊されたのだとしたら、もっと新しい建物は機能も残しているかもしれない。

電気はどうなのだろう。

発電所があって、無事だったとしても職員や燃料が無ければ稼働出来ないはずだ。

電気が無ければ水道も、ガスも、電話も無理だろう。

それだけではなく、街灯さえ付かない町を想像出来ない。

以前、かなり遅くまで残って照明の消えた学校の廊下を、

先生が持つ懐中電灯だけで歩いた事があるが、

その状況でも相当な暗さだった。

自分のつま先さえ満足に見る事が出来ないような状態だ。


そこまで酷い状況でない事を祈りながら、

俺は学校の敷地内から出ようと校門を目指す事にした。

コの字型に建てられた校舎は、今俺を包むように建っている。

つまりは、崩壊しそうな建物に囲まれている状態だ。

学校を囲っていた塀や緑色のネットが、軒並み無くなっていた。

それこどろか、霞むほど先まで何も無い、ただ瓦礫だけが存在する世界になっていたのだ。

凄まじいエネルギーがこの場所を襲った事が分かる。

周囲にあったはずの団地は、少なくともここから見る限り一つも存在しない。

学校よりも酷い状態だ。

どの方向に行っても校舎が崩れかかってきそうだったが、比較的安全そうな西門だった場所を選ぶ事にした。

東の方は崩壊しそうな校舎を通り抜けなければならない上に、団地があった方向だ。

崩壊の度合いが強いのが気になる。

あまり近寄りたく無い。

対して、西はほとんど小さな農園や駐車場、どこかの企業の倉庫だとかの、開けた場所が多い。

少なくとも学校から出てすぐに死ぬという事は考えられない。

消防学校の訓練塔が、不気味な雰囲気を纏ってそびえ立っていた。

それ以外のすべてが崩壊しているというのに、あのコンクリートの固まりのようなものは、

奇跡的に破壊を免れている。


西門の近くにはプレハブがあったはずだが、当たり前のように倒壊していた。

どうやらここには犠牲者は居なかったようで、

腐肉を貪る羽虫も、その腐肉の主も居なかった。

相変わらず風は吹かない。

この一体は、そのおかげで本当の無音だった。


はずだった。


俺がプレハブの横を通り過ぎようとしたとき、がた、という波板が動く音がした。

屋根に使われていたものの一部だろう。

折り重なっていたものが、ズレて音を立てたのだ。

それだけに違いない。

それ以外には考えられない。

何かの力が加わったのだ。

何かが力を加えたのだ。

風や、重力や、俺の歩く衝撃や、その他の要素ではなくて、もっと別の、直接的な。


人の形をしているであろうそれは、プレハブの安っぽい壁の中から、はい出そうと土気色の手を出していた。

これは映画か何かなのだ。

あるいは、俺はその映画か何かを見ていて、その後眠りこけ、悪い夢を見ている。

それは、起きたまま見られる夢で、痛みも有り、匂いも有り、触る感触も、音も、きっと味も。

すべてが現実のままで。

だとしたら、その夢と現実の境界はどうやって決まっているのだろう。

俺には分からないけれども。

死んだ人間は動かない。

動くはずが無い。

あんな場所から出た俺が言うのもなんだが、崩壊して長い時間が経過しているであろうこの場所で、

俺の身に起きた奇跡が二度も起こるというのは、考えられない事だった。

いつか雪山で遭難した人間が、冬眠状態になっていわゆる仮死状態になった、という話を聞いた事がある。

ここは雪山でもないし、寒いどころか暖かく、肉が腐るには絶好の日和なのだ。

俺は何故、生きていたのだろう。

そしてあの手は、生きているのだろうか。

がたり、がたりと手が動く。

腕が出る。

がたり、がたりと肩が出る。

腕が動く。

少しずつ、少しずつ。


俺はその様子を、逃げもせず、隠れもせず、ただ見ていた。

見ているしか無かった。

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